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第五十二話 ギラスの崩落

 緑が繁茂しているはずの森は、度重なる地の揺動により崩れ、ところどころ黄土が露出していた。祭壇への道中。大勢いた従者たちは一人、また一人と列を外れる。立ち止まった場で膝をつき、灯火を定位置で掲げ、夜道を点々と照らした。


 まるで燭台そのものになったみたいだ、と少年は思ったが、行動の理由を問う暇はない。最後まで連れ添う若い司教は、山道を登るにつれ、手を握る圧を強めていく。



「え……? 祭壇って、これなの?」


 到着した聖なる舞台は、鬱々とした陰気な個所。死の霊気漂う匂いは墓地と何が違うというのか。


 茶髪の少年は面食らった。この現場は"柊冠の館"で聞いた話と大きく隔たる。仮にも"山の至上者"がおわす御座なら、絢爛完美な邸宅があって然るべき。家屋がないと言うのなら、自身はこれからどこで仕えればいいのか……

 しかし、若い司教は少年の疑問を跳ね除けた。彼に前を向いているよう指示し、祭壇の中央に立たせる。



「では、これを……扱い方は知っているね?」


「……はい」


 差し出されたのは"ひいらぎ"の一枝。少年は館にて教え込まれた通りに、うやうやしく受け取る。祭儀にかの植物を用いる意味を……当時の彼はよく理解していた。


 冬枯れの広まる森にあっても、色を変えない木がある。集落の人々はその緑が、大いなる者からの祝福を受けていると信じた。葉で雪を弾き、紅実を成す姿に、人々は万願の思いを重ねた。朽ちることなき悠久……すなわち、不死を。



 神域と言えど、ここにも躍動の被害がある。余震を受けた石壁、飾り意匠は一部が欠け、歪な姿勢で佇む。蝋燭の火に当てられて、影は幽鬼の如く蠢いた。

 枝を抱えた少年は無心に祈れと命じられたが、影たちの動きに気が散じる。肥大する不安を小さな体に宿して、石床の黒を目で追った。



 陰影のひとつが身に迫る。

 はっきりと人の形をしたそれは……白刃を翳し、彼に躍りかかった。



「うわああああ! ひっ……そんな、何をするの!?」


「ちっ……静かに。至上者様のお眠りを害する気ですか?」


 えっ、ええ? と喘ぐよう問い、足をばたつかせて距離を取る。恐怖を感じて走り出さねば、少年の細い首は短刀で貫かれていた。幼く、やわらかい肉は障害なく切り開かれ、命を散らすはずだった。

 事実、若い司教は一撃で仕留められなかったことを惜しむ。



「やめて! なんで、今……おれを殺そうとしたの! ねえ、なんで!? こ、これから大切なお役目があるのに!」



「ええ、知っていますとも。だからこそ、こうする必要があるのです。あなたが仕える"山の至上者"様は隠世かくりよにおられます。肉体があっては辿り着けぬ地に……あなたはそこへ逝き、皆からの言付けを伝えるのです。その柊は特使の証。穢れなき魂は至上者様の膝元で永久に輝くでしょう」


 影が幼顔に覆いかぶさる。司教からの説法は聞き知ったものだが、己に殉教の未来が待っていたなど予想できるはずもない。

 恐怖で動けぬ彼の頭上に、再び銀の光がまたたいた。



「さあ、柊冠の子よ! 無垢なる精神のまま影の道へ参集せよ! 至上者様の御前に額ずき、街人への慈悲を乞うのです! その身をもって山の御怒りをお鎮めしなさい!!」




 先に動きを見せたのは司教でなく、少年でもなく……大地そのものであった。


 最大の地震が足元を突き上げる。強剛なはずの地盤は布のように容易くたわみ、波打って縮れた。強すぎる衝撃は少年を呪縛から解放し、逃走の道を示した。儀式を成さんとする手を掻い潜り、祭壇を駆け下りていく。



「待ちなさ、いっ……ぎゃあああ!!」


 背後の悲鳴に振り返った刹那、闇に飲まれる男の姿があった。祭壇は原型を残さず裂け、地割れは広がっていく。

 万物を引き込もうと暗黒の牙を伸ばす。手始めに逃げ転がる少年から……



「ひっ……そんな! 大変だ……!!」


 夜の山道に置かれた灯火。今は散り散りに逃げ惑い、丘を下る。

 目指すとしたら眼下の町しかない。街灯と湖の照り返しをしるべに、少年は走る。山はもういけない。早く逃げないと、一刻も早く知らせないと……この集落は全滅する。


 少年は背に灼熱を感じた。振動は止まない。目印の照明より激しい光が、今まさに噴き上がらんとしていた。





 地図になき獣道を走った。泣きながら、降りかかる灰に咳き込みながら駆けた。街へ戻れただけで奇跡と言える。一度も震えに足を取られることなく、裂け目の闇も彼を捕えられなかった。

 だが……苦労して到着した人里は、少年の安息の地ではない。



「みんな逃げて! 町はもうダメだ。山のお怒りがおさまらない……早く湖に逃げないと!」



 街では誰しもが動きを止め、高峰よ鎮まれと祈りを捧ぐ。大いなる至上者の憤怒の前に、人々は情けを乞うしかできなかった。"供物"を奉じることしかできなかった。


 だからこそ街の者たちは驚愕した。ここで、あの少年の声が鳴るのはあり得ない。



「馬鹿な! なぜここに"柊冠の子"が!?」


「そんな……! あの子は祭壇に向かったはずじゃ!?」



「見ろ! 柊の枝を持っているぞ。間違いない、あいつだ!! 山の儀式が失敗したんだ!!」



 周囲を見渡し、山の異変を確信して……惑える人々の手は一つの方向を得た。

 地表を統べる山の至上者は捧げ物を受け取り損なった。あろうことか少年は大役を放棄し、災いと共に舞い戻ったと。


 館の子供たち以外、祭壇での儀式について知らぬ者はいなかった。彼らはそのために育てられた最上の贄。神域で血を捧げることによって平穏を贖ってきた。これまで、この方法で至上者が収まらないことはなかったというのに。



「その子を殺せ!! 息の根を止めろ! 今度こそ儀式を完遂させるのだ!!」



 鬼気迫った叫びののち、我先にと手が伸びた。柊冠の子を殺せば大震は止む……それが、信心深き人々の結論だった。



 山の至上者は偉大だ。人の意思が通じる相手ではない。それでも人々は大いなる力への干渉を図った。恩恵を得るため、効果的な方法を探し求めた。


 少年にとって不幸なことに、いくつかの偶然が重なって、人々の間で生贄の手段は有効と認識されていた。"柊冠の子"というしきたりを設けることに異議の声はない。彼らは他に使い道なき、とうに見捨てられた命なのだから。

 




 大気は山の咆哮で震え、雨霰に変わってつぶてが降る。崩落する建物。焼け焦げ、悶え苦しむ者。臨死の絶叫は高鳴るばかりだった。

 火のついた土砂に体を穿たれようと、人々は少年を求め続けた。彼を殺せば悪夢は終わる……そのような狂気に感染していく。



「司教様!! たすけて、司教様! 山が……街の人たちもおかしいんだ!!」


 少年は命からがら"柊冠の館"に逃げ戻った。ここなら街の人は手を出せない。これまで比護を受けていた印象が拭えず、安全と信じ縋っていた。しかし、そこでの光景は……



「なぜ大地は鎮まらない? なぜ噴煙は止まないのですか!? ああ……至上者様、我らの祈りをお聞き届けください。教えに従って日々を過ごし、霊峰を敬い奉って参りました。だのに、この仕打ちはどうしたことでしょう? すでに、柊冠の子は全員あなたの御許にお送りしたのに!!」



 刺し殺された幼子たち。血に濡れた刃物を振りかざし、狂乱する司教の姿。子らを祭壇に誘う余裕もなく、その場で儀式は執行された。

 外部では際限なく火山灰が吹き荒れているだろう。もう夜は明けないと錯覚するほど、この闇は長く、茫洋と世界を包む。遠くで地響きがした。豪炎の瀑布がこの場に流れくる。



 もはや少年に声を発する正気はなく、幼き精神は破綻の時を迎えていた。






 小舟で湖を越え、いくつかの丘を下り、林を抜けた。少年が生還できたのは奇跡のほかに表現のしようがない。ただ彼自身に、それを喜ぶ感情はない。


「あ、ああ……」


 なぜ死ななかったのか、なぜ自分だけが生き残ったのか……彼の心は問い狂えるばかりであった。凄惨な場面を見て、街の者全員からの殺意を浴びて、それでも肉体に損傷はない。強いて言えば、腕に抱く"柊の枝"の掻き傷くらいだった。



 感情が焼灼されていく。優しくされてきたこと、過保護に育てられてきたこと……これまでのすべては街の犠牲となるためだった。

 心を支える希望はなく……夢ならいいのに、と現実の拒絶が始まる。後ろにはいつもと変わりばえのない、緑に覆われた大地が見えるかもしれない。動きと同時に、平和であった日常、最後の思い出が再生される。あれは街の友が語った、待望の言葉……



"今日は早く家に帰らなきゃ!"


"母さんが療養所から戻ってくるんだ!!"




 家、というものはどこにもない。一切合切が灰の海に沈んでしまったのだ。

 少年の目に映るのは、噴煙湧き、焔踊る地獄の情景。これは……彼がこの先、どのような未来を歩いても、休みなく魂を苛む悪夢。



「うわあああああああ! ああああっ、わああああああ!!」



 消えない刻印を胸に押された。かの記憶が脳髄に焦げ付き、二度と離れないと自覚した瞬間……


 ……彼の心は崩壊した。






「思い出した?」


 映像はここで途切れた。声をかけられた"ギラス"は、びくりと身を震わす。

 この場で言葉が発せること、意志を持って動けるということはつまり……この子どもは幻影でない。確固として存在する、ひとつの心なのである。


 老戦士の欠けたる過去は少年の姿で発現した。心象世界にて独立し、年経た自分を責めるよう睨む。



「おれはここで死んだ。そして……あんたができあがった」



 回想が終わり、場は混じり合った精神を個別に現した。呆然と立ち尽くす傭兵と、その過去。痛ましい顔つきの老魔術師……最後に少女が現れる。細く開いた金眼は、珍しく憂いを帯びていた。

 形を取り戻した不死者"魔女"は、少年を後ろから抱きしめた。優しく微笑み、自身より小さい体に腕を回す。子供のやわらかな髪を撫でる以外、全体にめぼしい動きはない。



「ねえ教えて、おじいちゃん。あれは一体どういう意味なの? どうして"この子"は殺されないといけなかったの?」


「し、知らぬ! わしは答えぬぞ、魔女殿!! 頼むから魔力の放出を止めておくれ! 今ならまだ間に合う。早く、術を解くのじゃ!」


「でも、この子は知りたがってるの。あの街で起こったこと、身に降りかかった出来事の理由を……おじいちゃん物知りだから、説明くらいできるわよね?」



 少女は小首を傾げ、ライナスに解説をねだる。仕草だけは愛らしくとも、知恵を求める方法は強引だった。

 場はまだ顕現を続けている。繋がった精神、共有した感覚は、支配者の望むままに開示される。老人の頭脳にある智慧の書架も、勝手に閲覧されてしまう。




 柊冠の子は最初から贄となるべく集められた童たち。捨て子か、奴隷に産ませたか、堕胎が間に合わなかった遊び女たちから取り上げたものか……



「やめよ! わしの知識を暴くでない!! ……駄目じゃ、ギラス殿。おぬしは聞いてくれるな……!」



 彼らは聖別された食物しか取ることを許されず、甘味の存在も知らなかった。人々からの布施によって生かされ、身も心も無垢で保たれた。洗脳に近い教育を受け管理され、儀式の時まで手厚く育てられた。


 少年が友と思っていた子は、親交を深めんと接触したのではなく……単純に飢えていたためだ。供え物に手を出そうと思うくらい、彼の家族は困窮していた。

 会う時の怯えた振る舞いは、彼が気弱な性格なのではなく、自らが為した罪の大きさに震えていたから。



「やめ……やめて、おくれ……魔女殿! どうか……」



 古代においてはよくある慣習だ。神に生贄を捧げ、自然の力を制御しようという考えは、歴史を積み重ねるうちに廃れていったが、完全に消えはしない。


 やり方は各地によって様々だ。選ばれた鉢を掲げて割る。秘境の外界にて狩猟した獲物を捧げる。聖夜に献花を行い、祈りを込めて川に流す。"色を伴わず産まれた子"の、霊力宿る血肉を削いで……



「わかった。もういいよ」



 少年はこれで十分だと言い、魔女に事例の廻覧をやめさせた。放心し、蹲る老人を捨て置いて、別の自分の前に立つ。

 記録は取り戻させた。最後に二人は融合し、当時の感情を混ぜれば……彼は完全になれる。


「ねえ、おれを表に出してよ。その精神のなかに入れて。外で、やりたいことができたんだ」


「なにを……する気だ……?」



「何って? そんなの決まってる……仕返しだ。おれを騙して、裏切ったやつらに復讐する」




 かつての心は一度死を迎えた。白紙となった魂に新たな記憶が書き込まれ、独自の経験が蓄積された。そうして作られた"ギラス"は、らしくなく怖れて少年の手を拒んだ。


 喪った過去は、今の自己を改変するほどの憎悪を持っていた。混じり合えば最後、ギラスは崩壊する。積み上がった五十年の重みあれど、土台から崩れたときの損害は計り知れない。



「やめろ! く、来るな!! 違う……おまえは俺じゃない! ずっと昔に失ったものなんだ。今もあるべき感情じゃない!!」



「おかしいのはそっちだ。おれが死なずに続いていれば、今のあんたにはならなかった。"ギラス"という人格は誕生しなかった。間違っているのはあんたの方なんだよ」



「ライナス殿!! 早くどうにかしてくれ! 魔法をやめてくれ……! こんな過去など要らない! 思い出したくもない!! 俺は、世界に恨みなどないんだ!!」


「……ギラス殿。すまない、わしは……」



 ついに少年はギラスに触れた。逃れようはない。二人は本来ひとつの命なのだ。

 幼子は、無骨な戦士の腕に甘えるようにして頬を擦り付ける。どうか受け入れてほしい。思い出してほしい……彼を取り込み、同じ闇に染め上げなければ、世界を蹂躙できない。


 ギラスはライナスに助けを求めるも、術は魔女により発現を強制されている。

 他人格の抵抗により融合が進まないのを見、少年は趣向を変えた。



「おじいさんはあんたを助ける気なんかないよ。むしろ、あんたがおれと繋がることを望んでいた。はじめからこうなるって予想していたんだ」


「そうよね。おじいちゃんは魔法使いだし、当然わかってるわよね」



「おぬしら、何を……言っておるのじゃ?」


 不死者まで少年に便乗し、薄い肩を抱いて発案を肯定する。漆黒に飲まれつつあるギラスは、信じ難いと言わんばかりに、老魔術師を凝視した。

 唯一、真意が掴めないのは、ライナスだけ……



「だって、おじいさん。前に火山の魔法がすごいって褒めてたろ? 鮮明な経験を持つことを羨んでいた。力が足りないって悩みを聞いていた……だから、こいつに過去おれを取り戻させたんだ! "より強力な魔法をつくるため"にさ!!」



「……そう、なのか?」


「ギラス殿。わしは……」



 魔法とは記憶の具象化。経験した事実を再現する術。

 もし、心を壊すほどの惨事を、緻密に思い出せたとしたら……


 それは、最高の威力を持った魔法となる。



「そうだったのかライナス!! 貴様、っ……!!」



 かくして、ギラスは少年と同じ感情いろを纏い、途切れた人生はひとつに繋ぎ直された。







 随分と長い間……神を恨むのを忘れていた。世界を呪うのを忘れていた。


 心の死を追体験し、憤激は強く上書きされた。灼熱の記憶は離れることはない。流離の時間は無駄ではなかった。白紙の日々は身に魔力を充填した。戦う技術を蓄積した。


 次に浮上するのは、これまでの"ギラス"ではない。生き残った"柊冠の子"は神の復讐者として、正しく成長を遂げた。

 怒りが湧き上がる。あの日、あの時の記憶を用い、これから世を震撼させよう。



 滅ぼせ。己を奉じた世界をすべて――――

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