第五十一話 ギラスの選定
唱えよ。其処は白紙の台地。叡智を結集させ、膨大な魔力で構築された幻想の園。ただ想うだけ、ただ望むだけで空間は流転する。心が欲した情景を映し出す。
記憶が完全に失われることはない。自我が掬い上げられなくとも、魂の片隅に必ず留められている。年輪を刻む肉体には真実が記録されている。
術により細分化した戦士の意識は、それぞれが聞き手と語り手を担った。観覧者として場を俯瞰するのは"ギラス"という人格の一面。何をも知らぬ彼は、自身の一部から過去を学ぶ。同じ魂を相手に対話し、過去と現在を融合させるのだ。
自身を水先案内人と称したライナスは、頭上から声を降らし、役割どおりに解説と進行を務める。穏やかな老人の気配は"場"の天井部分から伝わるが、魔女の居所はわからない。
再び案内の声が響く。やわらかい音色で"意識の全体"へ語る。
思い浮かべよ。我が家の叙景、昔日の匂い、家族の肖像、親人との佳日……忘却したとしても、黄金期の残滓さえあれば蘇る。この場でなら、過去の愛しき人にもう一度巡り会えるはずだ、と。
そうやって発現したのが……今、背を向けて佇む幼子である。無知である"ギラス"は、見知らぬ彼から目が離せなかった。あれは誰か。記憶に根ざした大事な存在だと言うのか……
聴講者を得た少年は、小柄な体躯を漲らせ、解答台へと至った。その手によって過去が紡がれる。
知って欲しいと彼は叫ぶ。忘れてくれるなと大いに喚く。
かつて己が身に起こった、いと悍ましき"奇跡"の日を。
湖のほとりに拓かれた街は、夜の外灯を連ね、黄金の宝鎖を形なす。高みから眺めるとそれは、山岳の首元を飾るようだった。
対岸から運ばれた葡萄酒は人々の手に配られており、酔い騒ぐ外来で降り散らされ、街全体を薫香で覆う。今宵は聖祭。偉大なる"山の至上者"に捧ぐ……恩寵と慈悲を乞う、祈りの祭日である。
露店商の隣を少年たちが駆け抜ける。どれも皆、十を越えない年の瀬だった。幼顔を喜色で輝かし、声掛けあって進み行く。気ままにはしゃぐ彼らだが、足元にまとわりつかれても誰も咎めることはしない。揃いの聖衣を着た少年たちは"柊冠の館"の住人。手厚く管理すべき賓客なのだから。
「おーい! もうすぐ晩餐の時間だ、館に来いよ! また食いもん分けてやるからさ、いつもの場所で待ってろよ!」
少年の一人は往来に向け、しなやかに手を振った。相手は同じ年の頃の男児。聖衣の彼とは違い、痩せぎすで気弱な印象を漂わせる。
彼らは周囲の注目を気にしつつ移動し、細い裏道にて合流した。
「なあなあ。この前くれた"お菓子"って食べ物、まだ余ってないか? 館にある料理だったら、いくらでも持ってきてやるから交換してくれよ! あれ食ってから向こうの飯なんて薄いのなんの! 今更あんな味しねえもん食ってらんねえよ!」
「う、うん……今、ちょっとだけなら、あるよ……」
「うわあ! やったやった! 本当助かるぜ。まったく、司教様も館でこういうのくれたらいいのに」
細い手から紙の包みを受け取り、聖衣の少年は中身を頬張る。何の変哲も無い焼き菓子の一片だが、彼にとっては甘露そのものだった。仲間たちにも食わせてやりたいと、喜々として語る。
つい先日知ったばかりの味は、幼い心に衝撃を与え、以降自分の食事も差し出すほど夢中になって求めた。
交換の対象は潤沢な館の食料とわずかの甘味。はたから見ても平等とは呼べぬ取引内容と、裏路地での人目を避けるような振る舞いは、平素の生活を営む者にとって違和感にあふれたものだった。
けれども、聖衣の少年に疑問はない。すべて友人の恥ずかしがりな気質ゆえと受け取っていた。
「じゃあ、このあと館の裏へ来いよ! ほら、いつもの場所。今夜は祭りだから晩餐がたんまりあるんだ。こいつのお礼に持ってくぜ」
「……ううん。今日はいいよ。前に分けてもらったのが、まだ家にあるから……それより、僕はもう行かなきゃいけないんだ」
「何だよ、つれねえな……このあと何かあんのか?」
一刻も早く駆け出しそうな友を訝しがり、聖衣の少年は唇を尖らせ尋ねた。去ろうとする相手の動作に不審を感じたのだ。
今までこんな楽し気な彼を見たことがあったか。いつも下ばかり向いている顔が、満面に笑みをつくり、距離を置くごとに弾んでいく。
「そうさ……今日は早く家に帰らなきゃ! 母さんが療養所から戻ってくるんだ!!」
もはや我慢できないといった風情で、痩せぎすの少年は走った。細道を振り返らず、人混みへ身を紛らせた。
置いていかれた聖衣の彼は、友の言う"家"というものがよくわからなかった。屋根のある建物以上の親愛を声の響きから感じるも、意味が掴めない。館に隔離され育てられた少年は、世界に対しての知識が圧倒的に欠けていた。
家族が大事なものというのは知っているが、自身に親愛を注ぐ存在はいない。館に集められたのは身寄りのない孤児だけなのだ。
「……っと」
ふいに、大地が傾いだ。喧騒は一時静まり、人々は地の躍動を黙して過ごす。近頃この集落では、頻繁にこのような揺れが起こる。街の者は付近にそびえる霊峰を仰ぎ、祈りの言葉を念じ続けた。
かの地は神域。地表を支配する"山の至上者"が住まう場所と言い伝えられていた。そこへ踏み入れられるのは、司教から聖別された館の子供たち……"柊冠の子"だけだとも。
今の地震は至上者の猛り。少年にとっては、館への緊急召集の合図となる。
服についた菓子の粉を念入りに払い、少年は館の聖堂に顔を覗かせる。見れば仲間たちはとうに並んで列をなし、自身が最後の一人のよう。彼は慌てて整列し、初老の男の顔を仰いだ。
この場で唯一の大人、司教は柔和に微笑んで彼の来訪を受け入れた。
「司教さま! お待たせしました」
「おお。よかったよかった。これで全員揃ったな」
男は子供たちの前に立ち、長い司教服をひらめかせ話す。純真な幼子たちは真剣な眼差しで聞き入った。小さいながらも彼らは、重要な話だと直感的に理解している。
「先ほどの大地の響き、山脈からの呼び声……皆も感じたろう。そう、これは山の至上者様の御怒りだ。すでに聖堂でも祈りを捧げているが、振動は微弱に今も続いている。この猛気を慰撫する方法はただ一つ……そう、君たちの力が必要だ。この中の一人に、山の祭壇まで行ってもらう」
館の子らはどよめいた。待ちに待ったお役目だと喜び勇み、誰が選ばれたのか口々に問い合った。祭壇に行くことは何にも代えがたい名誉。そう……館に来た時から教えられていた。
司教は穏やかに静粛を求め、既に選定は済んだと告げる。指さすのは誉れ高き大役の担い子……
「神託が下った。山の至上者様のもとへ行く"柊冠の子"は……おまえだ」
「え……おれ?」
羨望の丸い瞳が一身に集まる。指名されたのは遅れてやってきた茶髪の少年。戸惑った幼顔は瞬時に笑みで満ち、仲間の囃す声に照れて頬を染めさせた。
「そうだとも。喜ぶがいい、今夜からおまえは至上者様のもとへ奉公に出るのだ。神輿の支度はできておる。すぐに出発せよ」
「はい!」
同胞に見送られ、司教に手を引かれ……少年は霊峰へと進む。これより街中をねり歩き、皆の賛辞を携え、祭壇に昇る。
近年、怒り狂う山の至上者に街の者は畏れ、容赦を希った。かの山神の激震を抑えるため、毎回子が一人、神域へ派遣される。
彼らには至上者を鎮める力があるといい、とある儀式執行のため、館にて育成されてきたのだ。
……ここまでの展延を見て、"場"が慄いた。外観の一角を成す老魔術師の意識は、術の続行を拒否し、魔力の提供源へ呼びかける。
「いかん、魔女殿! 今すぐ術を解いておくれ!! この先を発現してはならぬ!!」
裏舞台に悲痛な叫びが走る。これは優しい日々を思い起こすための術だった。ギラスの思念に幾度も浮上した、家族を慕う声……甘やかな幼少期があると確信したからこそ、ライナスは彼の過去を呼び戻そうと決意したのだ。
本人も自認できぬ昔日。しかし、心に残った出来事ならばこの場で再現できる。懐かしい景色が蘇る。もう一度逢いたい人物が現れる。叶わなかった理想すら映し出せよう……そんな記憶がありさえすれば。
「えーなんで? やっとおもしろくなってきたんじゃない。ここで止めるなんてもったいないわ。あたしは続きが見たくなったの」
空間から返ってきたのは非情な応答。魔女が彼の物語に対し興味を抱いたとともに、場の支配権もライナスから奪い取っていた。千年を越す豪壮な魔力に人の身が抗えるはずもない。
心内世界にてライナスは頭を抱えた。博識たる老人には、この先の悲劇が見えている。
ある知識が脳裏で瞬く。これ以上進んでくれるな、と警鐘を鳴らす。
なぜ気づくことができなかったのか。以前に、自身が言い放った事例……あの時も"彼"は過敏な反応を示していたではないか。
"森の司祭"
その山を統べる者として、あらゆる贅沢を許された存在は、剣を手に大樹の下に立つ。彼を殺し、大樹の枝を持ち帰った者が次の司祭としての特権を得る。
大樹とは力の証……地域によっては"金枝"、または……"柊の枝"が用いられる。
その瞬間が来るまで、人々から敬られ、讃えられる司祭。
彼の役割。存在意義とは……大いなる者へ捧ぐ"生贄"に他ならない。