第五十話 ギラスの悔恨
深夜には支度が整う、とは言っていたがライナス殿は何をするつもりなのやら。
人の集まりに戻ってから、資材集めに奔走する老爺を何度か見かけた。天幕と備蓄を管理する兵たちの間を行き来し、慌てふためき研究の場に戻る。やがて材料が揃ったのか、幕を閉ざして引きこもり、専心の構えを取った。
さすがに今回は独断専行をせずワイツに伺いを立てたらしい。俺はそれらしき光景も目撃している。
内容まではわからなかったが、何やら熱心にまくしたてるライナス殿を、ワイツは定期的に頷きつつ聞いていた。
最終的に許可を得、ライナス殿は喜色満面となって一礼した。これまでにない重要な任務を請け負ったと言わんばかりの態度だった。彼は最後まで俺に気づかなかったが、さすがにワイツは感度よく、こちらに視線を合わせてきた。
松明から遠く、暗がりに身を染めていても美貌は際立つ。艶やかな蒼珠の瞳を伏せ目礼とし、他方へ去っていった。
曲がりなりにも王子だからか、ワイツの作法は礼儀を知り、丁寧ではある。ただそれに感情が付加されない。
今のライナス殿とのやり取りも真面目な顔で対処していたが、あれはまるで興味ないことを丸投げしたようにも見て取れた。
とある焚火の隣を通り過ぎざま、声が降る。
「お。"柊の"おっさんじゃねえか」
「ああ……誰かと思えばおまえ、メイガンとこの……なんだ? 晩酌してんのか?」
話しかけてきたのはメイガンの仲間のひとりだった。今回雇った傭兵一団は頭以外さほど名も知られず、戦場での経歴も浅い。しかし、目の前の彼は若くはあるものの、手入れを放棄した無精髭のせいでメイガンなどよりずっと年上に見えた。
彼は、まあなと上機嫌に言い、俺に杯を押し付ける。すでにほろ酔いの傭兵は、一人酒に飽いて話し相手を求めていたようだ。
特に断る理由はないので、俺は腰を下ろし、杯に酒を受ける。向こうが同じ瓶で手元を満たし、先に呷るのを見届けてから口をつける。
「近ごろ暗いぜ、柊のおっさんよう。なんかあったのか?」
「話すようなことじゃねえよ。それよか……前から思ってたんだが、その"柊の"っていう呼び方はなんだ? 俺はもう引退の身だ、あの傭兵団とはもう関係ねえし……無駄に発音する字数を増やしてどうするんだ。普通に呼び捨てればいいだろうが」
「そう言うなっておっさん。引退したって、あんたはあいつらとは切っても切れねえ存在だ」
まだ恨みでもあんのか? と聞けば、笑って否定された。メイガンたちと俺のいた"柊の枝"は以前に衝突があり、兄貴分はじめ仲間数人をのしたこともある。
しかしそこは傭兵という職業柄、多少の小競り合いは戦の華だと割り切り、悔恨は残さない。
目の前にいる無精髭の若者も、流れの戦士ならではのさっぱりした思考を持っていた。力量がそのまま上下関係に至る彼らにとって、俺の位置付けはわりと上部にあるらしい。
「メイガンの兄貴もおっさんには一目置いてると思うぜ。"柊の"って呼びはじめたのは兄貴だし、それが定着してんのは、向こうにいたあんたが印象的だったからだ。団を抜けたってそう簡単に認識は変わらねえ。何かと突っかかるのも対抗心ってもんだ。まあ、なんだかんだ実力を認めてるってことさ」
「……あいつに認められてるってのも変な感じだな」
夕方に不快な言動を取られたが、あれも俺より優位に立ちたいという気持ちの表れなのか。よくわからないが、まあいいかと納得する。
メイガンは短気で生意気だがしつこい奴じゃない。"柊の枝"への罵倒も、これきりにするんなら不問にしといてやろう。
呼び名についてだが、俺も人のことは言えなかった。考えてみれば、ずっと名を略して呼んだ仲間がいる。
白金の髪の、若い大剣使いへの呼称……極寒の地で育ったという彼は、俺たちには聞き馴染みのない音節を固有しており、戦場で怒鳴るのに不便だったので端折っていた。
「認めてるっていやあ、おまえたちのメイガンへの評価も高いよな。最初はてっきり、力で押さえつけられてるように見受けたが、聞く限りそういうわけでもねえ。変に人望があるっていうか……」
心によぎった感覚は、同時に言葉として排出された。口にしてから、しまったと思うも現状は変わらない。どうせ彼もまた、あの不快なガキと同じような理由で付き従ってるのだろう。力を求める理由がみな真っ当であるはずがない。彼らは"あいつら"とは違うのだ。
答えは富か、女か……だが、予想とは異なり無精髭の面に欲望は現れなかった。それどころか彼は、しんみりとした風情で手元の杯を見る。
「……おっさん、知ってるか? 俺の水魔法は"海水"だってこと」
「は? ……何言ってんだ」
「だから俺が魔法で水を出そうとすると、必ず"海水"になるんだよ。それで、たまに煮立たせて塩を作ってんだ。内陸地だと貴重だから高く売れるんだぜ。小遣い稼ぎにはちょうどいい」
会話の流れをぶった切った物言いに戸惑う。なんだ? これは自慢か?
確かに以前、メイガンが作った夜食に感心したことがある。ほんのり塩味の効いた焼き菓子に、具材を挟んだ一口料理……
ワイツが、素材に惜しげも無く塩を使ったのかと問えば、テティスは気にしないでとはにかんだ。別にもったいないことではない。仲間に海水を発現できる者がいるからと。
それがこいつなのはわかったが……これは今、話すようなことなのか? 脈絡がないのを訪ねる前に、彼は酔っ払っていたのを思い出す。とりあえず嫌な返答を聞かずに済んだので、適当に合いの手をうち、早めに切り上げようと決めた。
「へえ。無尽蔵に塩作れんのはすごいな。便利な魔法じゃねえか」
「そんなわけねえだろ、おっさん。望んでこうなったとでも思ってんのか? ……俺は"海水しか出せない"んだ。これがどんなに面倒なことかわかるかよ」
無精髭の男は杯をぐいと空け、しっかりと言う。口調に酔いの乱れはない。
「普通、こういう行軍に水なんか持参しねえよな。飲み水くらい各自魔法で出せってなる。だが、俺には無理だ。喉が渇いたって海水なんか飲みゃ逆効果。皿洗いや農作にも利用できねえ……おっさん、"塩害"って知ってるか?」
「いや……知らねえ」
「塩が濃い水じゃ作物を育てられねぇんだよ。根が詰まってみんな枯れちまう。農村じゃ、雨が少なかったら代わりに水を発現して畑に撒くが、俺が関わったものは土壌もろとも全滅だ。だから俺は村を追い出された。こうやって生きるしかなくなったんだ」
男は手にした器をゆるく回す。空っぽだったそれに、底の方から輝きが満ちていく。水魔法の発現だ。
杯の中で波打つまで増やしてから、一気に逆さに返す。この場では感じようのない……潮の香りが大地に広がった。
「農村じゃ差別されたが、メイガンの兄貴は違った。俺の水質を打ち明けても……"すげえ! 塩作れるじゃねえか!!"って、喜んでた。そうやってできた飯もうまいもんだった……初めてだったぜ。あの魔法があってよかった、なんて思ったのは…………だから、俺はここまで来たんだ」
思わぬところから話は始まり、もとの理由に帰結した。あの異郷の戦士を慕うわけ……テティスのように、メイガンの力に憧れる輩だけでなく、彼のもとに居場所を見出した者もいたのだ。
ただ……今の話を聞いて、根本的な疑問が湧く。
「しかし、なぜ海水だけが発現されるんだ? 普通の水に触れたり、飲んだりした経験はいくらでもあるじゃねえか。なんでまた覚えられない?」
「そう簡単に上書きできりゃ世話ねえよ。"死にかけた出来事"はいつまで経っても拭えねえもんだ。その後の人生が平穏だったとしても、一回心についちまった傷はなくならねえ」
「心の、傷か? じゃあ、おまえの魔法って……まさか……」
ある恐れをもって次句を尋ねる。この世界では過去が魔法となる。経験が魔法となる……なってしまう。
発現の条件は魔力が足りていることと、鮮明な記憶を有していること。慣習的に経験して会得するものもあれば、魂に刻まれた衝撃の出来事を意思に関わらず再現してしまうものもある。彼の場合は後者だ。
「俺……昔、海で溺れたことがあんだよ。そのときの苦しみがどうしても離れねえ。今でも川や池を見ると身が竦む。あのときの思い出を持ち続ける限り、俺の水魔法はこのままだろうな」
いっそ、まるっきり忘れられたらよかったのに……そんな独白をしみじみ述べる。
俺は返事ができなかった。なぜか胸騒ぎがする。酒を飲む気にもなれない。
思い当たるはずがなかった。これまでの経歴からして、該当するような過去はない。けれど俺は、その気持ちを知っている。こいつに同情できる。思いを理解できる。
そうだ、すべてを無くしてしまえばいい。自分を失っても生きていたいのなら……
「……ラス様、ギラス様。どうなさいました?」
「おっさん? おい、どーした?」
「あ……ああ。いや、何でもねえ。少し……酒が回っただけだ……」
呆けた頭脳が現実に焦点を合わせたとき、新参者の姿を認めた。ニブ・ヒムルダの兵士……ライナス殿からの依頼を受け、俺を呼びに来たのだ。
俺の……失った幼少期とやらを取り戻す準備ができたのだ。
「まったくもう、遅いんだから! おじさまったら、すぐに来ないとダメじゃない!!」
「……不死者の嬢ちゃんもいたのか。悪い悪い、遅れてすまんかった」
幕をめくった瞬間、金眼に射抜かれた。不死者"魔女"は簡易寝台に転がり、ぐだぐだしながら俺を見上げる。ライナス殿に、今夜は気が乗らないからまたにしようと持ちかけるつもりが、彼女がいるせいで難易度が著しく上がった。
「まあまあ、魔女殿。深夜まで待たせたわしにも非がある。さて、早速取り掛かるとしようか」
「なあ、ライナス殿。いろいろと俺のために手を尽くしてくれたのは有難いが、ちょっと今夜は……いや、何だよこれ」
「茶じゃ」
話している途中で茶器を渡される。中身は絶対にただの"茶"などではない。成分と原材料を問えども、ライナス殿はいいからいいからとまともに取り合わない。
彼は呪具の布で香炉を持ち、火を灯した。燻された薬葉が甘ったるい匂いを振りまいていく。思考と判断能力を奪う芳香だ。
「これより始めるは"追蹤回帰"の魔法。一種の催眠療法じゃ。自意識を薄め、魂の根底から過去を浚う。本来ならわしほどの魔術師が十人がかりで行う大魔術じゃが、魔女殿がおれば発現に問題はない。その茶を飲んだら開始じゃ……ささ、一息に」
「その……俺のためにここまで手間をかけてもらい、悪いんだが……」
「ねーちょっとおじいちゃん、まだ始まらないの? もうあたし五杯も飲んでるんだけど」
寝台の方から、足をばたつかせる音と少女の澄んだ声が弾む。魔女は不機嫌に俺の行動を急かし、ライナス殿の遅延な手際を責めた。
手順が滞るのは仕方ないだろう。彼は老人で……しかも隻腕となったばかりだ。
「お、お嬢ちゃんも飲んでんのか?」
「当然じゃ。これはいわば心の内面世界で魔法を行使するようなもの。術者が水先案内人として、対象者の意識に踏み込まねばならない。無論わしも同行しよう」
そう静かに話し、同じ液体を啜る。そのまま目を閉じ集中を始めた。どうやら、俺がこれを飲まないと術が発動しないらしい。ためらいの時間は魔女の苛立ちを確実に増やしていった。
彼女が癇癪でも起こせば、俺たち二人ともただでは済まない。命までは奪わないにしても、少しのちょっかいだけで致命傷に繋がりかねない……今のライナス殿は無防備だ。
健やかな少女の手が、暇そうに呪具の布に伸びるのを見て……覚悟を決める。
味など気にせず一気に中身を流し込む。茶器を下に置く動作が詠唱の音頭となった。結果がどうあれ、早く終わればいい。無事に二人で夜を越えられればそれでいい。
液体は意外と飲みやすく、瞬く間に体へと浸透した。それこそ、身の内から心を溶かすと思うほどに……
平衡感覚が消失する。見える光景が夢か現かも判別できない。もがこうとすれど腕は上がらず、息するたびに甘い香りを吸い、理性が支配されていく。意識を薄めると説明されたが、これは前後不覚の奈落に堕とされるようなもの。あの液体を飲んだのなら、今の感覚も三人で共有しているはずだ。
術に魂が絡めとられた。ここでは闇も光も自覚できず、どのような刺激も受け取れない。元の場所へ戻れるならどんな質問でも答えよう……まさしくそういった気分だ。これが催眠というものなのか。
「では、おぬしの深層に問おう。最も古く、最も幼き記憶のことを……」
ライナス殿の声が場に生じた唯一の事象だった。だが、"俺"が持つ答えはこれしかない。念じれば空間は当時の光景を視覚化する。
一番古い記憶は、夜の街道沿いに傷だらけになって立ち、柊の一枝を腕に抱く姿。遠くに荷馬車の一団が見える。こちらに近づいてくる。俺を拾ってくれた行商人たちだ。
その通り伝えようとするも、返答したのは同じ心中にいる"別の人影"の方だった。
あれは……あの、"少年"は誰だ?