第四十九話 ギラスの追憶
食事の盆をわきに押しやり、陣のはずれで沈みゆく夕日と対する。今も、竈周辺に居座っているだろう濃紺髪の狂犬を、心が落ち着くまでは見たくない。黙らせようと手を出しても、それは奴の言い分を肯定するのと同じだ。
傭兵団"柊の枝"の連中は、テティスみたいな物狂いとは違う。比較するのも侮辱に値する。あいつらが胸に宿した清廉な志を、他ならぬ俺が信じなくてどうするのだ。
冷静になるためこれまでの戦いを追憶する。これは傭兵として最後の戦いとなるはずだった。国土を荒らす他教の信徒を追い払うための遠征。先のエレフェルドとの闘争のような対軍戦もない。気兼ねなく敵を討って帰って、報奨金で余生を穏やかに暮らす……それだけが望みだった。
しかし、俺の予想は逸れに逸れ、進軍の未来は狂い始めた。考えれば考えるほど妙な道行きだ。どうしてこうなった、などと不思議がるまでもない。不死者"魔女"との出会いがすべての元凶だ。
あれはまるで愛らしい少女の形をした狂気。その悪意に当てられるかのように、同行者も次々と変質していった。誰もが女神の使徒討伐の意欲を得、力も強化できているが、人としての何かを投げ捨ている。
「……まともなのは俺だけじゃねえか」
敵もただの強敵じゃない。信者の背後にいたのは女神教の宗主、不死者"聖女"。そればかりか魔女と対立する"不死の王"も聖地に並び立つ……どれも普通なら倒そうとも思わない。
だが、ワイツは行くと言う。二人の不死者がニブ・ヒムルダを脅かすのを憂い、救国のために立ち上がった。俺より一回り下の若者が向かうというのに、戦歴ある俺が逃げるわけにいかない。それに、彼女から頼まれてもいるのだ……
――お願い……ワイツを助けてあげて!
――これはギラスさんにしか頼めないの!!
ネリーというワイツの幼馴染からの懇願。涙ながらに叫んだ姿はいじらしく、語ってくれた彼の昏い過去も相まって、俺は最大級の誓いをもって了承した。
夕焼けは放っていた茜をしまい、夜に居場所を明け渡す。押し寄せる闇が残光と混ざり群青を成した。
この空の下で、今も彼女はワイツの無事を祈っているのだろうか。先に集落に向かったと聞いているが、立ち寄った村にそれらしい姿は見えなかった……
独特な衣擦れの音がし、現実からの逃避は中断となる。近寄る人物は気配を隠す方法も知らず、迷いなき歩調は敵意がないことを示していた。関節を曲げる程度の動きで布が擦れるというのは、この場でたった一人にしか該当しない。
「いやあ、ギラス殿。ここにおったか」
「……ライナス殿。俺に何か用か?」
「まあまあ。少し年寄りの愚痴に付き合っておくれ。なに、あの生意気な"メイガン"のことじゃが……」
俺の精神は静寂を取り戻したが、まだ他人と話せるだけ回復してはいない。滅入ったまま顔を合わせるのに気兼ねするも、この老爺に気づいた素振りはない。夜の訪れにより、世界の色が数を減らすなか、こちらの顔色も明瞭ではないからか。
ライナス殿は断り入れず横に座る。あとから姿勢を正すべく、全身覆う呪具とやらが支えとなって揺れ動く。こうやって身体の均整をとっているのだろう。本来なら戦場に行くのも辛い歳だ。
「まったくあの若造ときたらなんたる不遜か! わしが考えた戦法を残らず却下しおって、不敬極まりない。霧が駄目なら蒸気はどうかと提案したが取り付く島もないわ。まったく……あの"水"を気体で扱えれば、うかつに失う命もなかろうに」
「無理強いは禁物だぜ、ライナス殿。今となってはあいつが攻め手の中心だ。悔しいが機嫌を損ねて離反されちゃ、こっちに勝ち目はない。ただでさえ乏しい勝算だってのに」
陽が地平に飲まれる一瞬を眺める。近くで彼が食い入るよう視線を注ぐも、応える気になれなかった。
「あの魔法は貴重だ。死というものをここまで単純なやり方で実現するなんざ、願ってもねえ能力だ。この情勢において特にな。果たして不死者に効くかは知らんが、同行させるに越したことはない……少なくとも、俺より役に立つんじゃないか?」
「それはない。おぬしが、かの者に劣るなどありえぬ」
言葉の歯切れよさに思わず目を見張る。顔を向ければ、乳白色の視線と交差した。
ライナス殿は全身ほとんどを布で覆っている。髪色すら定かではないが、それでもニブ・ヒムルダの民とは違う。全体的に色素が薄いと、今更ながら感じた。
「……なぜ断言できる? 俺は特殊な術もない。ただ人より長く戦ってきただけだ。それも別に……普通の戦いだ。戦況はとうに俺の予測を飛び越した。信者みたいな敵に効く技も思いつかねえ。ましてや不死者なんぞ……」
「これまで培った技術が通用せぬと? 積年の戦いに意味がなかったと申すか? それこそ世迷言じゃ。ギラス殿は全力で戦い、そのどれもを生き抜いた。誉れある人生の結晶が此度も輝かぬわけはない」
「なんだよそりゃ……慰めか?」
「事実じゃ」
いつか村祭りの日にて、国の伝統を語ったときのように、口調は淀みない。ライナス殿は自信たっぷりに頷き、右手を膝に立て頬杖とする。
「メイガンの能力は確かに驚異じゃ。だがそれは、たかが魔境で生まれ育っただけのこと。生まれながらに有した力を、己がものと誇って威張るなど愚の骨頂。本当の力とは、肉体を死地に置き、命を懸けて掴み取るものじゃろ。わしはそう思い、実行してきた……あくまでも魔術師としてだが」
だからって、これはやりすぎだろ……と、俺は老魔術師の半身を指し警告する。布の下にあるのはとある研究の代償。
"メイガンの水"耐性を得る実験体として用いた左腕は腐蝕され、使い物にならない。
「わかっておる……二度目はない、というか無理じゃ。体が持たん。ワイツ王子からもきつく言われておるしな……」
自省の面持ちとなったライナス殿は、深く嘆息し……あの時は本当に肝が冷えたと、心情を吐露した。彼の暴挙を知ったワイツは、冷静ながらも思いきったやり方で老人を諭し、身を危険に晒す行為を禁じた。
この様子を見るに、十分な効果があったようだ。すっかりしょげて丸くなる姿は可笑しく、あんときゃ俺も驚いたぜと同意を示し、軽口を叩き合った。
ひとしきり笑った後、ライナス殿は居住まいを正し、言う。
「わしはな……ギラス殿。おぬしが心底羨ましい。都にて語ってくれた冒険譚はまことに心躍るものであったぞ。自由に旅をし、仲間たちと浮かれ騒ぐ放浪の日々……そういうものへの憧れも、過去に少なからず持っておった。おぬしといると鮮烈に思い出す。衰え、枯れていくだけだった命に、瑞々しさが蘇る。そんな気になるわい」
「おいおい、大げさだろ。そんなの俺だって同じさ。あなたの博識さにはいつも舌を巻いてばかりだ。まったくここの王家は見る目がねえ。これほどの賢者がないがしろにされてたってのも信じられん。根を張る場所が違えば、大魔術師として大陸に名を馳せたろうに……」
「なんの。わしは人より多くのものを知っているが、実際目の当たりにしたものはほぼない。いずれも書物や先達からの見聞によるもの……生の実感なき、静止した知識よ。ギラス殿が掴んできた戦果こそ、何より尊いもの。しかし…………惜しむらくは、幼少期の欠けか」
陽気さを落とした最後の一文を聞き、喉がひくつく。頼る縁を求めて、目線を彷徨わすも、足元すら闇に覆われている。
そこの事象だけは防ぎも誤魔化しもできない。まるで、底なし沼が心にあるようだ。
馬鹿みたいな話だが……つい最近、俺は過去の一部を失っていることに気がついた。しかもそれを自分だけじゃなく、皆にも起こりうる"普通の出来事"だと捉えていたのだ。
行商人に拾われる以前などない。先に生じた記憶から消失するのは当然の摂理だと……間違いの指摘を受けるまで、微塵も疑わなかった。
傭兵は過去を語らない。かつて渡った戦場が、襲撃した敵営が……隣で剣振る戦士の故郷だったかもしれない。手にかけた兵だってそいつの親兄弟、知人友人の可能性がある。下手に武勇を話して、夜道にぶっ刺されるのは御免だ。
ゆえに酒の入った夜には馬鹿話しかしない。若い連中との剣と、女と、夢の話。
あいつらのなんとも稚拙な、笑われずにはいられない野望……けれど俺には心地よく、そいつを肴にした一献は格別だったことを覚えている。ああいう感傷もまた、自覚なき喪失感から出たものか。
なし崩しに傭兵の道を取ったとはいえ、過去を顧みない環境は俺の誤解を保ち続けた。記憶の瑕疵を知ってからは悩みや戸惑いもあったが、俺の手ではどうしようもない。
だから今も、俺のため心を砕く老人に苦笑し、よせやいとばかり手を振る。
「俺にはもともと必要ねえもんだ。ワイツにも言ったが、今更ガキの頃の記憶がなくったって支障ねえだろ。取り戻す理由なんぞない……それこそ無意味だ」
「だが無縁とは申せまい。ギラス殿が今さっき讃えてくれたように、わしには幅広い医療の知識がある。おぬしが不調であることくらい知っておるぞ」
「……あなたに隠し事はできねえな。困ることがないこともないが、それもたった一つだけだ。昔の記憶がないのを自覚した時から……頭ん中で"声"が聞こえるんだ。今までの過去にない、誰のかも知らねえ……子供の声が」
「して、童は何と?」
その問いに答えるのは、妄想を現実に持ってくるような居心地悪さがある。だが、意味が分からなきゃただの語句だ。俺は気を持ち直し、世迷言を諳んずる。
それは……おそらく少年の、楽し気に弾んだ声。ああ……今も聞こえる。
"今日は早く家に帰らなきゃ!"
"母さんが療養所から戻ってくるんだ!!"
「……ギラス殿!」
「なんだ? どうした、突然」
急に大声を上げ、腕と肩に取りつく彼。真剣にこちらを伺う瞳は、同情と憐憫の気が湛えてあった。触れてきた右手は小刻みに震えていて、動くことのない片方の代わりに、呪具の数本が背を擽った。
「おぬしの記憶……どうかわしに取り戻させておくれ! 戦乱に巻き込まれる前の、穏やかで優しい日々が欠けておるなど哀しくてならない! 戦いに塗りつぶされた年月の底に、在りし日の父母との思い出もあったかもしれぬのに!!」
「おいちょっと待てって! 落ち着け。冷静になれ。五十過ぎの俺にそんなもんあったって仕方ねえだろ」
止めようとした手は空振った。興奮した老人はこうしてはいられない、すぐに準備に取り掛からねば、と使命感に燃え、颯爽と立ちあがる。
「ギラス殿はあの村でわしを叱ってくれた。仲間だと言ってくれた。親族、主君……弟子にすら恵まれなかったこのわしを、心から案じてくれた……ああ、嬉しかったとも。わしはその思いをこのような形でしか返せない。しかし、これは……わしにしかできぬことだ」
「ライナス殿。別に、そこまでしなくたって……」
「いいや! わしもおぬしもいつ果てるかわからぬ身。実行するなら早くがいい。おぬしの安寧は過去に必ずあった! かつての安らぎを失ったまま、傷だけ抱えて朽ちるのは悲しいことじゃろ?」
そう強く押し切られては反論できない。確かに、身の内から響く声は俺の集中を削ぎ、このままだと戦う手が鈍るやもしれない。
あれは"思い出せ"という過去からの呼び声。ライナス殿が取り戻すべきと主張するなら、失った記憶にもそれだけの価値があるのだろう。
「これが成功できればきっと、わしはおぬしにとって……仲間以上の存在になれるのじゃろうな」
自分の天幕に戻る途中、ライナス殿は一度だけ立ち止まって小さく言う。間を空け、俺が真意を読み取ったときにはもう、老人の姿は呼びかけの届かぬところにいた。
顕学な人物かと思いきや、彼にだって気づかぬこともある。
「腕のいい魔術師とはいえ不器用なもんだな。んなことしなくたって、俺たちはもう"友"じゃねえか」
進む先には苦難と命の危機しかないが、生き延びれば実入りが多い。新居を構え、慎ましい生活をし、残りの生を謳歌する。最初の客はあの賢人だ。
そのときにはさすがに前線から退いてるだろう。彼を老学の師として迎え、ともに風月を眺め、互いの知りうるところを語らいたい。
そして……かつて使命を謳った若者たちが、武勲を成すのを風に聞き、その場所からひっそりと祝いたい。
煌々と輝く、夜の大星に……在りし日の光を重ねながら。




