第四十四話 テティスの喜悦
昔、母さんが僕に話してくれたんだ。
いつも笑顔でいなさい、テティス。だって生きていることは楽しいんだから。今は苦しくても、前向きに生きて笑ってさえいれば、必ず運が向いてくるって……僕はその言葉をちょっとだけ信じてみようって思うんだ。
まあ、そう言った母さんは人生に絶望して首括っちゃったから、あんまり説得力ないんだけど。
僕の生まれた町は結構な都会だったけど、両親は賑やかな暮らしに飽きて、田舎へ引っ越すことにしたんだ。
農村はいいところだったよ。豊かな森に囲まれて、自然の恵みであふれてて、空気も水も絶品! 当たり前のように毎年豊作だし、いつだって食べるものに困らない。飢えるなんて考えられないって、そのときは思ったんだ。
あと、何より女の子たちがかわいい! 都会にも負けないくらいの粒ぞろいさ! 僕と年が近い子も、ちょっとお姉さんも、だいぶ大人のお姐さんも全員いい体つき。隣を歩ける、同じ空気を吸える……美女たちといっしょに生活できるって素晴らしいよね。そこが人生で一番大事なことだと思うんだ…………え、違う?
まあ、君にはわかんないかもしれないけど、僕にとっては死活問題なんだよ。
村は本当に素敵な場所だったんだ……
一つだけ欠点があるとしたら、僕の家族は壮絶な村八分にあってたってことかな。
僕の朝は近所の人に土下座して食べ物をもらうことから始まる。一応、両親はその家の仕事を手伝っていたから、賃金は支給はされるはずだったんだけど、難癖つけて出し渋られててね。
地に頭を擦りつけ頼み込んで、向こうが満足するまで殴られてから、放り出された食料を集めてうちに帰る。
「嫌ああ! もう嫌、こんな生活!! 戻りたい、町に戻りたいの……!」
ただいまの声も母さんに届かず、とりあえず持ってきた食べ物は目につく場所に置いておく。最初のころはお礼らしきものを言われたけど、このころになると目も合わせてくれず、僕の分を考える余裕もない。
「何が快適な田舎暮らしよ!! あなたのせいよ! あなたがこんな村に来たいって言い出したから、毎日毎日酷い目に遭わされてるのよ!! ……こんな陰湿な村ったらないわ! この前だって石段から突き落とされたり、仔馬に蹴られかけたり……もう、嫌なのよおおお!!」
「な、なにからなにまでこっちのせいにしやがって! おまえがっ、近所といつまでたっても馴染めねえから、俺まで……!」
「あー……父さん、母さん。それ終わったら、ちゃんとご飯にしてね。じゃあ僕、学校に行ってくるから……」
「うるさい! うるさああああい!! テティス! あんた、親に対して何様のつもり!?」
「……っ、うぐっ……やめてやめて! あだだだ!」
そんな感じの流れでとばっちりを受けることもしばしばだった。母さんまで僕を殴るのは意外だったかい? でも、よくある話だろう。両親にとって僕は"枕"といっしょさ。
いいことがあった日は抱いて眠るけど、そうでない日は殴って憂さ晴らしをするだろう?
学校でもそんな扱いさ。みんなの鬱憤が僕に集まる。いくつもの拳や蹴り、文房具や本も武器としてぶつけてくる。理由なんて考えてもちっぽけなものばかり。家族や友人と喧嘩した、試験でいい点が取れなかった、わけもなくむしゃくしゃしていた……などなど。
そこはやっぱり、閉鎖的な小村だったからね。限られた人間関係のなか、行き詰まっていく村民の心。食料だけは安定して取れるから、命の危機とかにはならない。そういう環境だと毎日似たり寄ったりの生活になる。
いつか誰かが爆発してもおかしくない。実際、僕たちが引っ越してくる前まで、村の人たちは派閥に分かれて、双方へ嫌がらせしてたり……問題は多かったらしいよ。
同じ村人でいがみ合い、潰し合っていた手は格好の標的を得た。親しい縁者もなく、都会出身を鼻にかける嫌な態度。農作業の経験もなく、集団生活の役に立たない穀潰し一家。
満場一致で僕ら家族は攻撃対象に認定された。やつあたりを受ける役を一手に引き受けたんだ。
「うわ、痛った! あたっ……!」
「はははは! 見ろよ、なんて面だ! おい、おまえらもこっちきて加われ」
「うっわ、こいつ本当にきめぇ!」
「やめてよ! 話せばわかる……たぶん! 話せ……ぐばっ!」
「あはははっ! おっかしい、なんて馬鹿なの!」
ぼろぼろになっていく僕をみんなは笑った。人の輪から出たきれいな声をたどり、ある少女の姿を求める。
新緑の艶やかな髪を持つ女の子。同世代で最も発育のいい胸。庇護と支配欲と、その他言葉に表せない衝動を掻き立てる彼女。一度も言葉を交わしたことはないけれど、当時の僕はひそやかにその子を想っていた。
授業開始の鐘が鳴り、生徒たちが楽しげに立ち去っていく。ひとり放置されてから考える。彼らの充足は僕がいたからこそ得られたものだ。彼女の笑顔の理由は僕なんだ。
そう確信したとき、まるで世界の中心にいるような気分になれたんだ。
僕が毎日近所から餌を貰い、学校へ行けたのも……何かしら未来に期待を向けていたからかな。
どんなに辛くたって、教室の女子たちへのいやらしい妄想をやめなかった。場所を変え手法を変えて、相手は座席順に周回を繰り返した。もうだめだと思っても、どこかで青姦おっぱじめる人はいないかと、森をさまよい歩くのをやめなかった。
これが唯一の生きがい、とまではいかないけど……せめて、童貞のまま死にたくないよね?
生きることに対して目標は持っていた方がいいよね。君もそう思うだろ? そうでなかった両親は、村人の仕打ちに耐えきれなくなって自殺しちゃったんだし。
学校から帰ってきた僕を、二人とも宙吊りで出迎えてくれた時なんか、人生のうちでこんなに衝撃的な"おかえり"は絶対ないと思ったね。
普通に悲しかったし……今度こそ僕も終わりだと思った。ろくに体力もなく、家畜、番犬より役に立たないだろうって自負はある。両親の残したなけなしの財も、家も村長さんに没収されて……僕は飢え死にか、よくて奴隷市行きかなって思った。実際、そういう提案もあったんだ。
だけど、実行はされなかった。
隣国との戦争が始まったんだ。
村にも召集令が下された。各集落から最低一人は兵士を差し出すようにって。けど、みんな自分の大事な働き手を失いたくないから……代役を探したんだ。
それはもちろんこの僕。村にとっては願ってもない人材だった。これ以上の適役はいないって、太鼓判を押されるほどにね。
役目ができたから、憂さ晴らしの相手役を卒業できたのかって? うん……誰も僕に暴力は振るわなくなったよ。間違って死んじゃったりしたら、自分が戦場に行くことになるからね。
……でも、違うんだ。君が言うほど、これはいい事なんかじゃない。
誰も……僕を見てくれなくなったんだ。
兵役が決まってから、僕に話しかける人はいなかった。みんながみんな黙殺を決め込んだ。村は僕ら家族のいない毎日に戻っただけなんだ。切り替えが早いんだよ、きっと。あるいは飽きたのかもしれない。こっちにしてみれば身勝手な話だけど。
それまでは殴られる僕を中心に、教室は沸いていた。熱狂していたと言っていい。笑いの絶えない学び舎だった。全員が笑顔だった。僕の好きだったあの子も……
体の痛みなんて大したことないよ。人体は意外と丈夫で、暴行されてもそのうち治まって消えていく。けれど、あの寂しさは本当に堪えた。
誰も僕の名前を呼んでくれないと、そのうち僕まで忘れてしまう。僕はテティス。ここにいる。ちゃんと存在している。そう……何度も確認しないとやっていけないほどにね。
こんなことなら前の方がよかった。みんなの前で殴られていたかった。
殴られて、蹴られてれば注目を浴びれた! あの子の笑顔の理由になれたのに……両親だってそうさ!
死んじゃうくらいなら僕を叩けばいい。それで気が収まるんなら、いくらでも頬を差し出した。
人生の転機がやってきたのは……教室のど真ん中で下半身露出しても反応されないんじゃないか、なんて想像するくらい追い詰められた時だった。
「おい。なんだ、あんたら……旅人か?」
午後の授業までの休憩時間のこと。学校の入り口付近で騒ぎがあった。見知らぬ男がこっちを覗き込んでいるって。様子を見に行く生徒や教師たちについていくと、見慣れない容姿の人物が建物を物色していたんだ。
「困りますねえ、旅の方。この村は旅人や冒険者たちとは交易しない決まりになって……」
一見してまだ若く、長い外套を身につけた旅装束の男。
彼は、迷惑そうに追い返しにかかる教師を一瞥し……
「うぜえ」
という一言と共に、外套から鉈くらいの長さの刃物を出し、教師の首を切り裂いた。
寸秒で逆手に持ち替え、今度は心臓を貫く。みんなが状況を正しく理解したのは、男が同じような死体を周りに二、三作ってからだった。
叫び、走り出す同輩たちと反対に、僕は男の姿に目が離せないでいた。彼の……鮮烈な紫の眼光に、その場に縫い止められたかのように動けない。
旅人ではない、盗賊だ。逃げなければ殺される……という危機感よりも、恐ろしくも眩い瞳が"僕を見ている"という事実に、胸が高鳴った。
足元に広がる赤は、今までいた世界ではあり得なかったもの。彼はあの一撃で日常を壊してみせた。常識はひび割れ、その先に未来が見えてくる……
「兄貴! 首尾よくいきましたぜ。村人は全員長の家に収容しました」
「手筈通りやったんだろうな? これはてめえらのための予行演習だぞ。あとで包囲に抜けがあったら……覚悟しておけ」
「は、はい!!」
後からやってきた彼の配下が、念を押され委縮する。僕の心臓はそれよりずっと縮み上がっているけど、なぜか逃げる気にならなかった。
未来にはきっといいことがある……絶体絶命の危機においても、僕の希望的観測は揺らがない。村人を捕まえたと聞いて、無抵抗なら殺さないのではと楽観の声が心に生じる。
「見張りを残し、家屋から食料と値打ちのあるもん集めてこい。俺が戻るまで捕虜を逃すな。いなくなった村人の数だけ四肢を斬り落としてやる……俺の手下でいたきゃ、このくらい言われずともやれ」
「はい直ちに……! あれ? 兄貴は、どこ行くんで?」
「俺はここで時間を潰している。いいか? 戻るまでに撤収の用意をしておけ」
そう言ったのを皮切りに、ついに彼は僕だけに注意を注いだ。なんだこいつ、と言いたげに眉を吊り上げ……
「何見てやがる」
目にも留まらぬ速さで、久方ぶりの衝撃が顔面にやってきた。待ち遠しすぎて、痛みに喜悦すら覚える。
これだこれだ。僕はこうでなくっちゃいけない。こうされてなきゃ、自分の意味を保てない。