第四十三話 ワイツの矜持
肉体を裏返しに着た信者は、もはや声も出せず、荒野を這いずり続けている。大量の血肉と共に剥がれるのは服飾類。肉片ごと落ち、身じろぎに合わせ振って散る。靴を満たすだけの体積も失い、両足のあった箇所から体液が滲み出、行路を赤く強調させる。
人の内側は、どうしてこうも醜いのだろうか。
戦いの場にあれば、切り切られて嫌でも目にするあの赤。深手にちらちらと映える白骨、腹部からは艶めいた薄紅が求めずとも噴き出てくる。
皮膚の上からでしか美醜を判断できない私たちにとって、彼らの容姿は不快極まる。最も恐ろしい真実は、あの泥とおがくずと同じものが、この身にも詰まっていることだ。
「……カイザ。無理に見ずともいい」
「ご心配なく。私は見慣れておりますわ。女ですから」
私の心情を慮ったのか、彼女は珍しく冗談を口にした。藤色の姫騎士は、信者が自分の臓物に足を滑らせるのにも、長雨を憂うような表情で見つめる。
結局、私は剣を抜く気にもならなかった。一刻も早くこの場を去りたい。あのように見せつけられずとも、人の内面の悍ましさはとうに見知っている。幼き日より何度も確かめさせられてきたのだ。
今は監督役の責務から見ているに過ぎない。指示しようにも部下に攻めかかれと言えない。すでに十分すぎるほど血は流れた。
「違うんだ……! 俺は、こんな光景のために戦ってきたんじゃねえ!! こんなことがしたくて力を求めたんじゃねえ……!!」
この事態の元凶……メイガンは濃紺の髪を掻き毟って吠えた。自らの水魔法が成した演出だが、大層気に食わなかったらしい。激しい拒絶の思いに言葉が追い付かず、切れ切れに吐き出す。
「メイガンさん……」
「見るな。おまえは見ないでくれ、カイザ。違う……さっき話したろ? 故郷の泉は確かに偉大だ。強大な力を秘めた青の深淵だ。だが……こうまでとは知らなかった。正直こういう活用法もまったく思いつかねえ」
猛り立つ兵の面影もなくし、メイガンは拳を震わせ現状を不服とする。その驚愕に染まった風貌から、私の中でいくつか疑問が沸き起こった。
あれほど維持していた魔法を、許可なく切った理由についても。
「しかし、メイガン。これは……君が夢見たものではないのか? 目指していた境地ではないのか?」
話しかければ、彼の紫眼が私を仰ぐ。
こちらへ合わさった瞳には、教示を求める飢えた光があった。
「自身が強者であることを認めさせたかったのだろう? 故郷である泉の威光を世に知らしめ、一族の名"メイガン"を不朽のものにする……今こそ格好の宣伝の場だ。量りしれぬ規模の破壊を成せた。この場にいる兵たちも、君の力に対し畏怖をおぼえたろう」
「……黙れ」
「こちらに損害は出さず、見ているだけで敵は勝手に死んでいく。この方がより多くの敵を殺せるな。ただ武器持って戦うより非常に効率的だ。実に素晴らしい能力だ。君たちの一族が誇り、尊ぶのも頷ける……」
「やめろ! おまえがそれを言うな!!」
耐え切れなくなったのか、メイガンは私の肩を掴み言葉を止めさせる。これ以上喋るな、と首振って呻く。あの青を持つおまえが……などと囁かれたが何の主張か。
「"メイガン"はいいように使われる水瓶なんかじゃねえ! 兵器や道具でもない……俺は戦士なんだ!! 先祖が泉に託した高潔な意志は、こんな不細工な戦闘のために使うべきじゃない」
「おい……」
「喋んなつったろ!! いいか、ワイツ。俺がおまえらといっしょに戦ってやるのは、泉に至高の贄を捧げるためだ。俺の場合はより強大じゃないと帰れねえ……それこそ神の力を持った"聖女"くらいのな。今も討伐に向かう過程だ。だが、こうじゃない。こんなもんじゃ納得できない。俺の戦いには一点の曇りもあっちゃいけねえ」
突き放すように手を引き、メイガンは武装を整え始める。すでに壊滅しきった敵軍に斬りかかろうというのだ。
誰の目から見ても討伐は完了している。信者は唱える聖句も失くし、死を待ち蠢くだけの幽鬼。敵としても不足だ。
それなのに彼は往く。児戯にも満たぬ行いのために、いらぬ危機に身を投じるのだ。
「部下に手を出すなと伝えろ。これは俺の"戦い"だ。これも……これからのも、俺たちの誇りに適う殺り方でいかせてもらう」
野営地の中心に立っても見向きもされない。メイガンが万全の殺気を伴い出陣しようと、信者は誰も注意を向けない。原型を崩しつつ前進し、素通りしていく。
だから無意味と言ったのだ。耳肉が血泡とはじけているのに、具足の音が届くはずもない。
私は部下を退かせ、一ヶ所に集めて帰り支度をする。彼らに負傷はなく、装備に欠けもない。しかし、精神の消耗が激しい。今も嘔吐しうずくまる兵の背を、カイザが擦ってあたためている。本当に我らに"霧"の害がないのかと問う声を、強く肯定するのが私のもっぱらの仕事だ。
広野に目をやり、早く戻って来いとメイガンへ念じる。流れる白霞はだんだんと薄まり、異郷の傭兵の髪色は遠間からでも色濃く見える。彼は強敵と対するよう武器を抜いた。
そうして声を張り上げる。思えば、彼は周囲に肉塊が寄るのを待っていたのだ。
「おい"女神の使徒"! 不死者"聖女"を祀る司祭ども!! 説法はどうした? 腕も何もどろどろに溶かしやがって、救いの御手が聞いて呆れるぜ。なんだそのざまは。のたうって喚くしかできねえのかてめえらは! そのまま心臓が溶け切るまで這いずる気か!? ええ!?」
私は焦燥をもって彼方を臨む。瀕死の敵に引導を渡すだけならまだいい。しかし、付近にて呼びかけするとは何事か。
彼らは曲がりなりにも聖女の洗礼を受けた信者。救い、改心させるべき相手を得れば、いくらでも力を引き出し、迎え撃ってくる。
「わかんねえだろうから教えてやるよ。てめえらがそのざまになったのも、死にかけてるのも全部俺の力によるものだ! 俺たち"メイガン"に流れる水脈の効果だ!! 憎いだろ、許せねえだろ……なら、かかってこいよ!! その息も、命も、苦痛も、全部俺がこの手で断ってやる。さあ、どうした。来いよ。てめえらの神敵はここだ!!」
不穏な面持ちの部下に倣い、私もメイガンを非難するよう眺める。彼の大声は死にかけた信者の感覚をも響かせた。目論見通り、彼らは元凶に報復せんと集まる。ただ死を待つだけの身体にした相手に、一矢報いたいと思うのは想像に難くない。
信者には不可視の力もある。天にそびえ立つ火柱も呼び出せる。けれど、メイガンは無防備だ。"水"も使わず、圧倒的な魔力の前に剣一本で立ち塞がった。
大罪人を囲むよう聖徒が集う。救いの炎を降り注がんと、模索の手が伸びる。
メイガンはそれらの反撃に対して、持ちうる技巧の全力を解き放った。
変わり果てた信者の抵抗は、あまりにもささやかで……肉芽が生え立つ程度のものでしかなかった。思うだけ、念じるだけで発動する力も見当たらない。騒音の方向へ身を転がし、一刀に斬られるのみ。
あの様子からして、信者の心はとうに折れていたのかもしれない。恐ろしい現象を身に受け、じわじわと音を立てて溶解していく己を諦めている。救いをもたらすのではなく、聖女以外の者からそれを求めてしまった。
蠢く彼らの思いはただ一つ……
"死にたい"
「……ああ。殺してやる」
そっと唇を震わせてから、泉の戦士は出し惜しみなく技量を振る舞う。不浄なる血を浴び続ける……あれは返礼だ。
メイガンの紫眼に侮りの色はない。溶けて爛れた彼らを、自身と同じ命の入った杯として扱うことにした。今も他者と打ち合わせ、音を鳴らす。これこそ対等な戦いだ、と。
道中たまたま出会った、老練な魔術師と不死者の手を借りた魔法で殲滅できたとしても、一族の矜持は満たされない。私も話に聞いている……勇ましい先達たちと同様に、試練は自らの手で成さねばならない。
いつか、彼の旅路が……不滅の武勇伝となるために。
霧の効果はすでに切ってあった。信者も完全にただの物体と化し、霜立つ野に打ち捨てられている。今度こそ戦闘は幕となった。メイガンは勇ましい戦いの締めに……舞うように剣振って残心、納刀する。
私は戻ってきた彼に布を投げ渡し、出来栄えを問う。
「これで満足できたのか?」
「まあな。だが……この術、じじいには失敗だったと伝えろ。二度とするな。別に……おまえたちに協力はするぜ。"水"だって提供する。ただ、殺るときは直に殺れ……今みたいな使い方すんな」
提示された条件にも善処しよう、と返すしかない。彼の力は非常に役に立つ。それに、あの水を気体として使う場合の、士気の減退具合は見過ごせない。聖地への道を切り開くだけなら、他の手段でも有効だろう。
そんなことを考慮しているうちに、見張りの兵士たちが騒ぎ出す。高らかに報じるのは新手の到来について……
「ワイツ団長! 西方より信者の別働隊が現れました!!」
「いいぞ! いい時に来た!! これでやっと、ちゃんとした殺し合いができる……!」
狂喜するメイガンをカイザに引き留めさせ、私は報告の続きを促す。
信者たちはこの地で仲間と合流予定だったのだろう。立ち込めた霧を警戒し、遠巻きで見つめていたのだ。今のところ、こちらに気づいた様子はない。同胞たちの成れの果てを発見し、正気を欠いた悲鳴が広がっていく。
「後方より援軍を呼べ。霧も晴れた、傭兵たちもこれで動けよう。全員での出撃を命じる……伝令後、おまえたちは休んでいい」
「……はっ! 御心遣い、ありがとうございます」
「離せよ! ちっ……怪我なんかねえよ。いいから触んな……手、汚れんぞ」
「いいえ。お怪我はなくともお疲れのはず。加勢が来るまで休んでくださいまし」
カイザはメイガンに付いた血糊を目につく箇所から拭い、本人に傷がないか確認している。不貞腐れたように話す彼だが、大人しく彼女の手にされるがままの状態だ。
「ひとまずここは様子見といこう。もう水の効力もないのだ。私たちの戦力だけでは心もとない」
「俺がいる! 聖泉の支流がここに……!!」
「わかっている。だからこそ失うには惜しいのだ。先ほどの戦いも、最後まで見届けさせてもらった。私も……彼女も」
「……なんだよ、おまえら」
見て、いたのか……と彼は神妙に呟き、身体から力を抜いた。私は心なしか重くなった腕をとり、撤退を図る。
これからの戦略について思いを馳せる前に、先ほどの彼の戦闘が追憶された。
私には誇りがなく、ここへ来たのも聖地へ行くのも、国王からの命令のためだ。戦うのもただの作業。けれど、メイガンにとっては悲願へ通じる道となる……
「そうまでして崇める君の故郷は、その聖泉とやらは……きっと、美しいのだろうな」
「ええ。そうですね」
この見解にカイザも同意を示した。藤色の瞳を伏せて頷く。その隣を歩くメイガンも、故郷を思い出したのか、切なげな表情をとっていた。
「ワイツ団長が美しいと思う、その光景。私も見てみとうございます」
「ああ。見せてやってもいい……おまえになら」
漂う水滴が朝日に煌めく。朝焼けが霧を追い立てる。禍々しくも清浄な水は、光を残して消えていく。幻想的に散りばめられた色は蜃気楼を形成するように見えた。光が結びゆくは……ある泉の光景だ。
幾人もの"メイガン"が祈りを捧げる地。そのほとりが幻視できそうな気がして、私たちは薄靄に目を凝らす。