第三十一話 カイザの規範
朦朧とした意識の中でも、ワイツ団長がライナス様を呼ぶのが聞こえました。私への治癒を求め、珍しく声を荒らげていらっしゃるのを。
二つの大規模魔法の衝突。その目測を誤り、衝撃を避けきれなかったのは私の咎にございます。立ち上がらねばと念じますが、貧弱な体は願いを聞き入れてはくれませんでした。気にせず、進軍を続けてほしいと伝えるべきですのに、瞼を上げる力すら残っておりません。
お手間を取らせて申し訳ありませんワイツ団長。ですがこのカイザ、必ずや生を繋いで見せましょう。決してここで力尽きぬよう……魔女様の"次の器候補"があなた様に繰り上がらぬように致します。
かの不死の御方は、美麗な人物の死体を好んで"着る"という特性がございました。私がその第一候補。ワイツ団長は第二候補……
魔女様に殺され、彼女の言う"お召し物"にされるのは不本意なことでしょう。
なので再び目覚めたときは、内心で快哉を唱えました。
移されたのは救護用の分厚い天幕。外からの光も通さず、昼か夜かもわかりません。装備を外され、幾分か軽くなった体には、鈍痛こそ残っているものの、近いうちに過ぎ去る程度だと感じられます。
あとでライナス様にお礼を申し上げねばと思った矢先、天幕の扉が揺れました。
「こんにちは、カイザさん。具合はどう?」
「あら……ネリーさん。ごめんなさいね、お気を使わせて……」
現れたのは老爺と真逆のお姿。ネリーという名前の若い女性……ワイツ団長の幼馴染であり、ライナス様の弟子でいらっしゃったお方でした。
来訪者の予想は外れましたが、私は身を起こし居住まいを正します。ライナス様に言われて、来られたのだと考えましたが、あの老魔術師様は彼女を嫌っていたはず。破門した弟子に患者の様子を見に行かせるとは、人手不足なのでしょうか。
「ううん。カイザさんこそ気にしなくていいのよ。大怪我したんだから、少しは甘えたって許されるわ。私、痛み止めのお薬を持ってきたの。お師匠様みたいに治癒の魔法は使えないけど、薬の調合くらいは習得したのよ」
「ありがとうございます……」
ネリーさんは服から懐紙を取り出し、そこから数粒の錠剤を私の前に並べました。杯を水で満たし、薬を数個投じて差し出します。
ライナス様から医術の知識を伝授されたのは事実でしょう。彼女の衣服からは薬草を擦り、煎じた後の芳香がいたします。
ただしそれは……ワイツ団長から毒草だと教えられた種類のもの。この時期、霜と氷雪で覆われる大地でも際立つ鮮明な緑。あの植物には沈痛の効果などないはず。
どういうつもりか動向を見ようと、私は躊躇なく杯を干しました。飲みやすい錠剤の形であれば、肝心の成分が溶けだすまで猶予はあります。一旦口に含んだ薬を、懐紙で口元を拭うのに隠して吐き出しました。
ネリ―さんの方を見れば、空っぽの器のどこがそんなに嬉しいのか、うまくいったと言わんばかりの笑みを浮かべられました。
「うふふ……私、あなたの様子を見にきたのもあるんだけど、話したいこともあったのよ」
「私に、話が……?」
「あなたがワイツに色目を使ってるのはわかってるわ。こういうやり方でしか生きていく術がないなんて……かつての夜会の花形も堕ちたものね。これまで、彼や兵士たちに媚びを売って生き延びたんでしょう? でも、良かったわね。そのみっともない命も、私がここで終わらせてあげる」
やはりあの薬は、毒薬としての意味で飲ませたかったようです。ネリーさんの群青の瞳は、私が毒で苦しみ、もがきだすのを今か今かと待ち望んでおりました。
「覚えてる? 私、あなたとはお城の回廊で何度かすれ違ったこともあるのよ。今と状況が全然違うからわからないかもしれないけど、あの頃のカイザさんは、なんというか豪華で……ちょっと近寄り難かったわ。こんな風にお話しする日が来るなんて、夢にも思わなかった」
「お話の意図がわからないわ、ネリーさん。あなた……少しお疲れではなくて?」
「思い出したくないからって話題を変えても無駄よ。家柄も、地位の後ろ盾もない今のあなたは、私より格下になったんだから! ……ふふふっ、どう? こんな下級貴族の娘にも逆らえないなんて、悔しい? それはもう腑が煮えくりかえるくらい悔しいわよね、あはははっ! いい気味だわ!!」
本当に意味が分かりません。どういうわけか、彼女は私を殺したいようです。知らぬうちに恨みを買っていたのでしょうか? 私はワイツ団長の教えに従い生きてきたのに……
飲み下した仕草を致しましたが、さすがに死ぬふりのお芝居まではできません。いずれネリーさんも冷静になって考えを改めるかと思い、会話を続けます。
「今だってその身と引き換えに、ワイツに守らせてるんでしょう? 本当に図太い、恥知らずな女なのかしら! それとも牢獄で味をしめた? ねえ、学のない私に教えて? あなたたち一族が逆賊として捕らえられたとき、どんな気持ちだったの? 刑が決まるまでの間……あなたは、どれだけの豚どもと契りを交わしたの?」
そこまで言われてやっと、彼女が私の家の事情について思うところがあるのだと気づきました。確かに以前の私は隆盛を誇った家の生まれ。ニブ・ヒムルダ王家の腹心として信頼を得、政権の中心にありました。当時の私は政略結婚も控えており、未来の高官の妻に相応しい教育を受けておりました。
しかし、あくまでそれは過去の出来事。身を飾るのではなく鎧い、花より剣を手に取った私にはもう、交わることのない世界の話。
「お言葉ではありますが、ネリーさん。そのお話にあるのは私のことではありませんわ」
「はあ? 何言ってんの。こんなわかりきったこと、とぼけようがないでしょう。あなたは負け犬で、卑しい兵らの娼婦じゃない!!」
「それは、前世の私です」
ネリーさんは困惑の大声を発しました。私の、どうか落ち着いてほしいとの思いはあえなくすれ違いました。彼女は次に罵倒を開始します。それも、大変取り乱したご様子……失礼ですが、まるで気でも違えたかとも見受けられます。作った薬が効かないこともまた、彼女の混乱を招いたようです。
仕方ないので、彼女がしっかり理解できるよう一から説明することにしました。
「ネリーさんのおっしゃる通り。私は前回の生で間違いを起こし、死刑を執行されました。私の婚約者であった大臣のご子息とそのお友達が、手ずから罰をお下しになったのです」
「そうよ! あなたは、なんて穢らわしい……そんな恥を晒してまで、よく平気で生きていられるわね」
「恥など感じておりません。あくまでそれは以前の人生なのでございます、今世を生きる私は、過去の失敗を繰り返さぬよう努めていくのみ。ネリーさんがそう思われないとしたら、私の努力が足りぬからでしょう」
理解不能を喚く彼女に、私は前世の記憶を語ります。前回の私が最後を迎えた瞬間を伝えます。
私の生に終止符を打ったのは、若い貴族の殿方たちでした。牢獄にある私を取り囲み、値踏みするように見下ろし、どうせ会うのはこれっきりだから、悔いのないよう好きに味わえとお話しになり、刑が始まったのです。
夜会で見知った顔が、将来を共にはずの婚約者が……私をひどく罵り、代わる代わる衝撃を与えました。泣き喚いて許しと容赦を求めれど、何も効果を為さず……やがて、すべての感覚が閉じていきました。
そうです。それが、前回の私の死に他なりません。
……あら、違うとおっしゃるの? それでしたら、私に教えてくださらない?
正しい"死"とは何ですの? あなたも死んだことがあるというの?
だって、ありえないことでしょう? 私はとても辛く、想像も絶するほど激しい衝撃を受けたのです。あのような目に遭い、生きていられるのはおかしな話ではないですか?
だからこそ、目覚めた時思ったのです。きっと大いなる存在が、私にもう一度人生をやり直す機会を与えてくださったのだと……
同じ過ちを繰り返さぬよう前世の記憶を持たせ、死したのと同じ場所、同じ姿で世にお創りになったのです。あの時の状況からして、考えれば考えるほど合点がいきます。
私は一糸纏わぬ出で立ちで、意味のない無垢な産声ばかりをあげていました。誰しも誕生の際はそのような出で立ちであるはず。全身血と乳色の体液に濡れ……特に股座の湿りが著しいものでしたが、べつに自然なことでございましょう?
だってちょうど、そこは……命が生まれ来る場所なのですから。
「カイザ、いいか?」
ネリーさんの喚声に怯えが混じり、私の正気をしつこく問うものに変わるなかで、涼しげな男性の声が参入しました。こればかりは間違えようのない声……ワイツ団長の呼びかけです。
「……っ!! ワイツ!」
「ネリーもいるのか? 私もカイザの様子を見に来た。今、入っても構わないだろうか?」
「構いませんわ、ワイツ団長。どうぞお入りになって」
感情を乱して答えられない彼女に代わり、返事をします。大きく幕が捲られると同時に、夜風と月明かりが入り込みました。
美しい、冬の夜の景色が見えたのは一瞬のことですが、瘦身の麗しいお姿は、手を伸ばせる距離まで近づきました。
「ネリー。カイザの世話をしてくれたのだな……心遣い感謝する。だが、あまり無茶をさせないでくれ。世間話に花を咲かせるのもいいが、負傷のことを忘れられても困る」
「団長。どうかネリーさんを責めないで。私がおしゃべりに夢中になって、無理に引き止めてしまったのです」
「そうか。気力があるのはいいが、本調子でないことをもっと自覚してくれ。今日はもう休みなさい……ネリー。あとのことは私がやろう。君も寝床に戻るといい」
薄氷の瞳をネリーさんに向ければ、彼女はひいぃ……! と悲鳴をあげられ、天幕から飛び出るように去ってしまいました。ワイツ団長から、彼女の不審な態度を尋ねられましたが、わからないことは答えようがありません。
何かの手違いかもしれませんので、私に毒を飲ませようとしたことは黙っておきました。
彼は私の寝床の隣に座り、体調についての質問をはじめました。ライナス様はこれでもう安心との太鼓判を押されたようですが、ワイツ団長は直に確認しないと信じられなかったご様子。
私はそれらの問いに対し、いたって良好と答えたのち……話題も尽き、ともに天幕の薄闇を見つめ続けました。
「おまえが無事で本当に良かった」
「お気遣い、心に沁みますわ」
しばらくして、彼は本心からの安堵を告げました。あの重傷からよく持ちこたえてくれたな、との礼も告げられましたが、私にはもったいない言葉です。
お礼を言いたいのはこちらの方ですわ。いつだって、あなたは私に規範を示してくれる。新しい人生を歩む私の師として、世界の歩き方を教えてくれる。
前回の私は誤りだらけでした。あの仕打ちも当然の報いなのです。灰色の部屋に閉じ込められたのも、生きる居場所を間違えたからに相違ありません。衣服を剥がされたのも、私が身につけるに相応しからざるものだからでしょう。
伸ばされる手に対し、どのような言の葉を紡げど聞き入れられなかったのは、私の修めた学が、知識が、教養が……どれも見当違いのものだったからです。
信じていたこと、為すことがどれも正しいものでない。だからこそ、殿方は寄って集まり私に罰を与えたのです。
せっかく生まれ変わった今世。次こそは清く正しく生きられるよう、私はワイツ団長に指導を求めました。
はじめて会ったとき……一目見て分かったのです。この方は私と同じだと。同じ道を、私より先に歩んでいるのだと。あれもまた、今日のように月のある夜のことでした。
それから私は彼を人生の師とし、幾度も戦場を奔って参りました。着るもの、口にするもの、戦い方、考え方、感性、判断能力まで……それこそ容姿以外のすべてがワイツ団長に近づくよう、心掛けました。
ともに在り、ともに戦い、ともに生きる……私は正しい方向に歩を進めています。それは疑いようもない事実。ワイツ団長はここまで私を導いてくれた。何も知らぬ私に、世界を教えてくれた……
でもまだ私、わからないことがあります。知りたいことがあるのです。
出会いから幾年経ても……あなたは一度も"笑顔"を見せてくれません。
「治癒は十分だったか? おまえはあまり欲を言わないが、今だけは遠慮なく話してくれ。本当に、欲しいものはないのか?」
「……ひとつだけ、よろしいですか」
「なんだ?」
「あなたの御髪に……触れても、よろしいでしょうか?」
「……ああ」
求めたのは灰髪への接触。頼むのはこれが初めてではありません。
私はこれまであなたを追い、あなたのことを考え、あなただけを見つめてきました。それこそ、あなたに成り変われるくらいに経験を積み重ねてきました。ですのに、この心にはあなたの模倣とは違う感情が生じたのでございます。
彼に触れたい、触れられたいという思い。今も、私の手が触れる一瞬。撫でられるのを覚悟した猫のような表情のあなたを、"愛らしい"と思うのは正しい感情なのでしょうか?
ああ、ワイツ団長。憂い顔はもう見飽きてしまいましたわ。
私はいくらでも尽力します。戦場を万里でも駆け抜けます。あなたの望む最後の瞬間の膳立ても致します。不死者"聖女"という永遠の存在ですら葬ってみせましょう。だから……だから、どうか笑って。
この世界に"喜び"があることを美しい尊顔で示して。"愛しい気持ち"が実在するのを全身で表現して。
でないと私……この胸にある"感情"が何かもわからないの。
どうか私に教えてくださいまし。
"恋"とはどんなものなのかしら?