第三十話 ネリーの回顧
もう無理。もう限界。……こんな行軍ついていけない。
女神の使徒に攫われ拷問を受け、雷撃の巻き添えになってからは介抱も後回しに転がされ……今もまた無下な扱いは続く。至近距離で大規模魔法が衝突したと周りの兵たちは騒いでいたが、私は知らない。知りたくもない。
一刻も早く森を抜けたいのに、ワイツは"あの人"の重傷を鑑みて頑として進軍を拒否し、先に行きたい不死者と口論までしていた。お師匠様やニブ・ヒムルダ正規軍の兵士が、治療と周囲の警戒に走るなか……私はお情け程度に薬を投げ渡され、打ち捨てられるのみ。
正午前の高い陽が真上から私を照らす。ここは名のある大森林の中腹のはずだった。通常なら生い茂った枝や常葉樹の妨げを受け見えないはずなのに……今、そんなものはない。
全部全部、"魔女"が消し去ってしまったから。
結局、軍は渓流をさかのぼるようにして移動した。ワイツは破壊の影響がなく、天幕の張りやすい場所を休息拠点に設定し、兵たちはそれぞれ見張りや採集、魔女の遊び相手といった役目を交替させていた。
私はその輪に入らず、ひとり隅っこで膝を抱き、震えている。
晴れ渡った空。徐々に高度を増す日輪も心の慰めにはならない。
私には味方が要る。それを求めて参加したのだ。夢を叶えるためにも、ワイツの助力が必要だった。けれど……彼は決して私に心を許さない。
今ならその理由もわかる。司祭の魔法を受けてからの、彼の言動が何よりの証拠だ。私につれなくするのも、申し出を断ったのも……おそらく"彼女"に惑わされたから。
元貴族令嬢、カイザ。謀反の疑いをかけられ、一族もろとも戦場へ送られた悲劇の女性。
家名の復権か、王家への復讐か……どちらにせよ身勝手な望みのためにワイツを誘惑し、利用しているのだ。
だったら……私だってもう、なりふりかまっていられない。ワイツに一刻も早くこんな遠征を止めさせ、正しい道に進ませないといけない。
私はいっしょに説得してくれる人を得ようと、協力者候補の姿を探す。
無頼にしては礼儀正しい……老戦士のもとへ。
「ギラスさん……あの、少しお時間いいかしら……?」
声をかける前から足音を感じていたらしく、大柄な体躯が悠々と振り向く。白いものが混じった茶髪は、毛先に丸い雫を形作っていた。
ちょうど森の湧水で身を清め終わり、武具の手入れに移るところだったのだろう。愛用の具足は几帳面に並べられ、補修の順番を待っている。
「ああ、お嬢さんか。話ならいくらでも構わねえぜ。まあ、あれだ……いろいろと災難だったな。ライナス殿も、あんたにはすこぶる厳しいことで……」
「うん……ごめんなさい。私のせいで、みんなに迷惑かけてしまって……でも、私……あの時は本当に怖くて……」
「わかってるさ、謝らずともいい。戦い慣れない者にとってはきつい体験だ。早いとこ次の集落まで送り届けるから、あとちょっとだけ辛抱してくれ」
言いたいことは山ほどあるけれど、老いて深みのある声が私を包む。傭兵団の長を務めた前歴からなるものか、彼の度量の大きさに胸打たれ、息が続かない。
「うう……ひっ、く……うわああああ! ギラスさあああん!!」
私は盛大に泣き、勢いつけて広大な胸に飛び込む。鍛え抜かれた身体は、叫びも涙も難なく受け止めてくれた。
穢れを知らない少女のように泣きじゃくる。乱れて絡まった群青の髪に、重厚な手のひらが優しく乗せられた。
たどたどしく、それでいてあたたかい動き……
「……落ち着いたか?」
「はい……ありがとう、ございます」
目からこぼれた最後の一筋をそっと拭う。もう涙は必要ない。ギラスさんは隆起した木の根に腰かけて、大切な話を聞く準備ができている。そろそろ本題に入って、事情を話さなければ……
「それで、ネリ―お嬢さんの話ってのはなんだ?」
「その前に……教えて。ギラスさんはどうしてワイツについていくの? いくら報酬目当てでも、命は惜しいはずよ。絶対この任務は失敗する……"不死者"を相手に戦うなんて無謀だもの」
「まあ、確かにな。大それた敵に立ち向かうことになるとは思いもしなかった。だが……俺はワイツに借りがあるんだ。先の戦いで仲間の命を助けてもらった。向こうも俺みたいな老兵を頼ってくれている。期待には応えないとな」
それに、まだ勝機はある……ギラスさんは真剣な表情で語った。この軍には"魔女"もいるし、お師匠様の術式やメイガンの能力を組み合わせれば、聖地の不死者たちに一泡吹かすこともできる。
永遠に滅ぼせるかは不明だけど、うまくいけば撤退くらいはさせられると。
「そこまで考えてくれたのは嬉しいけど……でも、違うの。私の意見はそうじゃない」
「……どういうことなんだ?」
「ねえ……私たち、本当に戦う意味あるの? こんなに危険を冒してまで、"聖女"と"不死の王"を倒さないといけないの? 私、思うの……これはニブ・ヒムルダ王家の傲慢さが招いたことだって。こんなことになるまで、いくらでも和解や共存の道はあったはずよ! でも、どの選択も王族が潰してしまった。ワイツはそんな彼らに利用されてるだけなのよ!!」
「いや……しかし、あんたは信者の本性を知らないから……」
「信者が襲ってくるのは、先に王家が礼を欠いた態度をとったからよ。私たちは彼らの尻拭いしに来てるだけ。私……これ以上、死地に向かうワイツを見ていられないの!」
それでも反論しかけるギラスさんの手を取り、顔を覗き込む。彼は押し黙って私を見つめた。
「お願い……ワイツを助けてあげて! これはギラスさんにしか頼めないの!! ……昔から彼はそうなのよ。王族の命令には絶対服従。どんな酷い事をされようが耐えてきたの。あなたが"王家"じゃなくて"ワイツ個人"の味方なら……彼が幸せになるために、力を貸してくれない?」
「そりゃあ、ワイツは家族から冷遇されたと聞いている。けどそんな……王の命令に対し、盲信的に従ってるようには見えねえが……」
「じゃあ根拠を話すわ。私の知るワイツの過去……彼が昔どんな目に遭って、心を歪ませることになったか……」
私は、ワイツとともに過ごした日々を回顧する。
彼の幼馴染だからこそ知る子供時代。噂話で耳にした、誕生以前のことも……
最初に運命を狂わされたのは彼の母親だろう。市中出身の彼女は踊り子として生計を立て、貧しい糊口を凌いでいた。学もなく、教養もないが……ただひとつだけ眩い才があった。
それは生まれ持った美貌。見目麗しい外見のみが彼女を守り、また非業の結末を招いた要因にもなった。
容姿への賛辞は都まで届き、ある貴族の気を引いた。ただそれは彼女を見染め、愛人として囲うためではない。彼らは王家への叛意を持っていた。彼女を王家の後宮へ送り込み、間諜の役割を課したのだ。
目論見通りに、王は彼女との淫蕩に溺れ、国政への興味を失いかけた。人心は乱れ、貴族たちの国家転覆は目前に迫ったが……革命はなされなかった。
側近か正妃が発したものか……"曹灰の貴石の名が汚れる"という言葉が、王の目を醒まさせた。
王族は自らの一族を宝玉に例え、他者との隔絶を図っていた。選民思考の塊からなる考えだが、高すぎる気位を保つには効果的だった。
たかが容姿だけで、国で最も高貴な人物と最下層の人間が重なった。伝統を重んじ、民を治め土地を守ってきた王も、美女の色欲に屈した俗物だと証明されたようなものだ。
その女をそばに置き続ける限り、汚名の誹りは免れない。ニブ・ヒムルダ史上最大の醜聞だ。
淫夢から覚めた王は彼女への寵愛を一転、醜悪な汚物と断じて憎悪を向けた。女を勧めた貴族たちは、叛意を暴かれ厳罰に処された。王の反乱への激しい敵愾心は、この時構築されたと言っていい。
無論、女と……その間にできた子にもまた、想像を絶する仕打ちが待っていた。
「それは……いったいどんな?」
「まず、ワイツのお母さんは処分されたわ。死因は古くなった家具の下敷きだって公表してたけど……あれは事故じゃない、殺されたんだと思う。それはもうひどい姿だったって……」
あれは伝聞を思い出すだけでも、貧血を起こしかけるほどの凄惨さだった。ただの圧迫死で四肢が散じ、内臓を引き摺り出されるわけがない。
そして、彼女を発見したのは他ならぬワイツ本人だった。この出来事も、彼の歪みの一端となったろう。
次に国王は息子を排除しようとしたが、彼は灰髪という……王家の特徴を受け継いでいた。
自分たちへの従順ささえあれば、まだ何かに使えると考えた家族は、見るもおぞましい手段を実行した。
「私……見たの。ワイツとは同じ教師から学んでいたんだけど……彼、授業の終わりによくいなくなるから、習い事かな? と思って、後をついて行ったことがあるの……」
彼が向かったのは王宮奥の一室。庭先に隠れ、覗いていた私にもわかるくらい、豪奢な寝台が置かれていた。
部屋には待ち人がいた。私は最初、何かの講師かと思ったけど、違った。その男性は、部屋にワイツが入った瞬間……彼の髪を掴み、まだ幼い身体を寝台に投げ、そして……
「ちょっと待て!! おい、それって……つまり……!」
「そう! ……そうなのよ!! それも、王家の命令で……!」
王家にとってはいずれも利のあることだ。"曹灰の貴石"は決して汚れさせてはならない。けれど、彼らのやり方に不満を抱く貴族も少なくなかった。
謀反の気を削ぐために、王はワイツを鬱憤の捌け口とさせた。彼への凌辱を黙認していたのだ。
彼は母親譲りの美貌を備えていたが、麗しい見かけなど父王にとっては汚点の象徴。他者からどのように弄ばれても構わない。
同時に少年の身も心も蹂躙して意思を叩き折り、王家に抵抗できなくなるための躾けとしたのだ。
成長し、"そういうこと"にも利用できなくなってからは戦場に送られ始めた。どうせ彼は消耗品だ。心身ともにすり減るまで酷使してやろう、そんな王家の考えが透けて見える。
それでもワイツは王家に逆らおうとしなかった。ひたすら彼らの命令に従った。家族の言うとおりに戦い続けた。恨みや呪う気持ちはないと、前に彼から聞いている。
命令を遂行する果てに、希望があると信じているのか。家族からの愛が、ほんの一片でも向けられると思っているのか……
「……私にはわからない。ワイツは、何も語ってくれないから。本当はずっとそばにいて、彼が正しい道を進めるよう見守っていたかった……けど、私の力だけじゃ叶わないの」
「想像してのたより、ずっと酷いな。あいつ……昔からそんな扱いを……」
過去を聞いた困惑からか、ギラスさんは苦悩の唸り声をあげた。怒りの矛先はもちろん王家に向かう。
やはり私の思った通り……この人は優しい。義理堅く、持ち前の正義感からでもワイツに同情してくれる。
「だから、どうかお願い。これからもワイツを助けてあげて。彼のために力を貸してあげて欲しいの!!」
「あんたの言いたいことはわかった。ワイツのために、行けるところまで行ってみようと思う。危険は承知だが……俺には家族もねえし、傭兵の仲間たちとも別れを済ませた。後腐れはねえ」
「ありがとう……本当にありがとう、ギラスさん!あなたがいれば安心だわ」
笑顔で何度もお礼を言い、これからの助けを約束させる。
彼に対してはこれで十分だろう。あとは、最低ワイツだけでも進軍をやめさせればいい。
カイザさんの真意を問い質し、彼を王家や彼女の呪縛から解放させる。残りの兵で魔女を聖地へ送り届け、不死者たちの共倒れを願う。
私はワイツの名を使って味方を集め、そして都へ……
「……ネリー」
しわがれた声が私を呼ぶ。
ギラスさんと別れ、湧水地から拠点に向かうさなか、進行方向に暗布が揺れ動く。もう、見たくもないと思っていた暗褐色……
「お師匠様……!!」
いや、この呼び方は誤りだ。私は魔術師の弟子ではない。この老爺も私の師匠ではない。
老魔術師ライナス。今思えば、彼と関わったのは間違いだった。共に過ごした日常にはいい思い出がない。
「いえ、あの……その、私にご用ですか? カイザさんの治療は終わったの? ああそうだ。私もあの人の具合が気になってて……」
「わしはな。おぬしが弟子になりたいと申し出たとき……本当に嬉しかったのじゃ」
その声には、珍しいことに私への敵意が含まれていなかった。出会った頃の、侘しい老人の印象のまま……淡々と過去を回想する。
「王家はわしの研究を廃し、他国が用いる効率重視の戦法を導入しようとしていた。古き伝統の術が途絶える矢先、おぬしが現れた。わしはすべての知識を教え、後継者にしてもいいとすら考えていた」
だが、それは痛恨の誤りだった。またしても吐かれた罵りに、無意識で舌打ちしてしまう。
でも、別にいい。この老人は少なくとも私を傷つけるつもりはないみたいだ。
「支度ならできておる。もう誰とも会わず、日のあるうちにここから去れ。これ以上……わしを失望させるな」
「何がすべての知識ですか!! あなたは私の知りたいこと全然教えてくれなかったじゃないですか! 都でも私を虐めてばっかりで、ここにきてついに殺そうとした!」
これまで押さえつけていた言葉をぶつける。既に私は破門された身、畏る必要なんてない。最初から礼を尽くすべき相手でもない。
「自然神への祈りの魔法なんてくだらない! 何もかも時代遅れなのよ。あなたに師事してもまったく得るものがなかったわ!!」
「当たり前じゃ! おぬしは……わしがどんなに説教をしても下劣な手段を選び続けた! 恥も見境もなく他者を利用し続けた! せめて、皆への被害を食い止めようと監視していたが、ギラス殿までその毒牙にかけるとは……!!」
言いたいことは言った。こちらでの私の用は済んだのだから、さっさと次に移らせてもらう。
老人の隣を通り過ぎ、追ってくる言葉たちにも耳貸さず、歩を急がせる。これからやることがいっぱいだ。
私には夢がある。叶えたい理想がある。
それだけを胸に秘め、まっすぐ前を向いてきた。惜しみなく努力を続け、小さな成功を積み重ねていった。たまに失敗して落ち込むこともあったけど……挑戦するのを諦めなかった。
「ああ、どうしてわからない……! どうしてその心は腐り切っておるのじゃ!! おぬしが秘伝を教えよと"その身体で迫った"とき、わしがどんなに悲しかったか理解できるか!? ……よいか、ニブ・ヒムルダにおける秘術とは、ありのままの自然を認め、世界と対話を図る術……」
夢は、信じ続けるだけでは叶わない。
誰に何を言われても、いつかは思いを遂げてみせる。
「男を誑かすための魔法などない!!」