第二十九話 ワイツの合唱
教えが届かぬと思い知り、信者は葛藤の淵に降りた。さすがの聖職者も私たちを導きあぐねたようだ。他者を愛せよという女神の言葉を実行するには、難のある連中だと。
のっぺりとした顔に滲む恐怖、迷い、敵意……若者がどう思っているかは知らないが、私たちは倒すべき邪悪でいい。女神に従しない、討つべき悪鬼との認識で間違いない。
私は救いなど求めていないのだ。ただ早く先に進みたい。"聖女"と"不死の王"に会い、裁きを下されたい。私という穢れた存在の浄化には、それくらいの神罰が必要だ。
「……そういや、その高そうな靴と服の足元、よく見てみろよ。それ……泥跳ねじゃねえぜ。おまえが今、踏んでいるぬかるみも、さっきまで信者だったモノだ……悪いな。おまえの仲間を水っぽくしちまってよ。衣装の洗濯代ならニブ・ヒムルダ王家にでも請求してくれ」
メイガンがとどめとばかりに放った台詞。信者の注意を逸らす最後の一言だ。目論見通りに、彼の意識は他所へ向き、地につけた手を眼前に持っていく。
掌に赤黒く付着した、かつての仲間を呆然と眺め……
その左手を、襲いくる氷刃への盾とした。
「があ……っ!」
「ちっ、おいじじい。仕損じたぞ」
「……むう」
メイガンの水に濡れ、ライナスの魔力で氷結した暗布は、信者の急所を狙って飛んだ。隠密に遣わした攻撃は、信仰を弱めた彼の首刎ねるに十分。だが、氷刃は肉貫く前に、片手を犠牲とし受け止められた。
通常の攻撃なら、手傷を与えた程度で終了となる。しかし、今の刃は毒を含むよりたちが悪い。他の信者の例に漏れず、メイガンの水は若者にも強酸の効果を発動した。体温に触れ氷が溶け、元の液体となって脈に流される。じきに臓腑から溶解し、倒れる。そのはずなのだが……
「浸透が遅い。心に女神の教えが残っているな。まだ、私たちを"救おう"と考えている」
「おいおい、しっかりしろよじじい。この俺がせっかく気を引いてやったのにこのざまか。しかし、ここまでされても諦めねえとは、こいつ相当狂ってんな……狂信者か」
「まったくだ」
メイガンに同意を示し、カイザより差し出された剣を受け取る。痛苦を受けての対抗心から加護が増したものの、女神の力は水の侵攻を防ぐのに使われている。武装解除に気をやることはできず、私たちが再び武器持つのを阻止できない。
奮起される前に討ち取ろうと奔る。距離的には私が一番彼に近い。
即刻、引導を渡そう。ここまで私たちを案じてくれた礼だ。迅速に首を刈れば、迷いも断ち切れよう。
「皆様は……本当に憐れです」
「……っ!」
がきん、と硬い壁に当たり、剣の疾走は止まる。同時に、死角から刺突を繰り出したカイザもまた、透明な壁に阻まれた。
斬りかかろうとしたメイガンや、ライナスの暗布も一旦退いて戦略を練り直す。
「私は哀しい。皆さまが憐れでならない……そのような考えに至るまで、誰も皆様に手を差し伸べなかった、助けようとしなかった! 救済も諦め、心が頑なになるまで救いを得られなかったのですね! ああ。もっと早く出会っていればと悔やんでなりません。その魂が絶望に染まる前にお会いしたかった。女神様の言葉をお伝えしたかった……!!」
「君が優しいのはよくわかった。こうまでされても私たちを救おうとしているのも……だが、何度も言うが私たちに気遣いは無用だ。私が欲しいのは憐みではない……君の死体だけなんだ」
「そうよ。いい加減進ませてくれない? 王様があたしのことを待ってるの。早く行かなきゃ待ち合わせに遅れちゃう」
膠着状態を意に介せず、魔女が私たちの間にひょいと割り込む。明るい笑みは金眼の輝きをさらに補色した。
「ねえ、あなたどうしてどかないの? その程度の重傷でも痛いし苦しいはずよ。聖女に助けを求めないの? ここにいるのはあなたの敵ばかりだってわかったでしょ? それになにより……あたしが"誰"だか知ってるわよね?」
「誰に対そうと私の役目は変わりません。以前、私の国で大戦が巻き起った際、命を命と思わない非道な行いをいくつも見てきました。人理に失望し、自暴自棄になった村人を……女神様は諭してくれた。そして、他者もまた同じ過ちを繰り返さないように、偉大な力と警鐘の役割を与えてくださった! 私たちはあの方の代弁者たるべく選ばれたのです!!」
剣を防ぐ力の硬度は増すばかりだった。彼の信念は折れることを知らず、教えを受け入れぬ十数人と不死者に殺意を向けられようが動じない。
「あの時私は……女神様の愛を胸に刻み、世界に希望の光を灯すと誓いました! 今も決意は変わりません。この地に遣わされた"聖ムルナ"の一員として! あの方の御心に尽くすのみ!!」
信者は立ち上がった。再び清浄な光が満ちる。一同はどよめき、カイザさえ剣を退いたが……私は前進した。
敵すら愛せという女神の言葉と、邪心持つ者らを彼女に近づけさせたくないとの思い。若者は二つの思想の間で惑っていたが、ようやく答えを定めたようだ。命題を提示した側として、彼の証明を聞き届ける責務がある。
「残念ながら、皆様を聖地に行かせるわけにはいきません。邪な心を持ったまま、この世界に長居させるわけにも……」
「では、どうするというのだ?」
彼は開眼した。なだらかな顔に浮かぶ微笑みは、すべての事象を許し受け入れるかのよう。
慈愛のこもった眼差しで、息吸う。
「――――"御手を伸べて女神よ、我らの前に"」
聞きなじみのない唱和が身体を突き抜ける。信者の口から迸った音が、確かに意味のあるものと気づいた時には吹き飛ばされていた。
はじめに受けた突風の……何倍もの衝撃が大地を削る。焦土を薙ぎ払い、森全体をしならせる。まさしく魔力の暴風雨だ。美しい天地を拓く前の下準備。漂う混沌を一掃せんと光が放たれる。
後方に弾かれた私をギラスの厚い胸板が支えた。地に剣を刺し、その場に踏みとどまっている。見れば全員がそのような体勢だった。
「なんだ!? 魔法の詠唱か?」
「否! 違う、あれは……!!」
何ら有効な対策もとれず、ただ状況の説明を求める怒鳴り声のみ発され、力に流されていく。
困惑を叫ぶ仲間のなか、私の頭上から老戦士の正答が降りてきた。
「あいつ……歌って、やがるのか?」
「そうそう! これよ!! 思い出したわ。村を焼き尽くした二人の信者も、追い詰めたらこんな状態になったの。おかげで"前の肉体"が壊れちゃって大変だったのよー」
魔女の余裕はこんな時でも揺らがなかった。漆黒の傘を嵐に向け、少々歩き辛そうに前進する。凄まじい脅威を受けても、ちょっと今日は風が強い、とでも言いたげな対応だ。
あの状態の信者に、こちらの攻撃が一切通じないことは明らか。不死者の証言が本当なら、彼女と出会ったあの村は彼らの"歌"の力により焼け焦げたのだ。先に金の魔眼を嵌めていた器も、その時消失したとのこと。
「それもそのはず。今、あやつの頭には女神への祈りしかない。あの"聖歌"は他者へ教えを伝えるためのもの。すべて信仰を呼びかける内容の歌詞じゃ! 歌い続ける限り、女神の力を最大限まで引き出せる……!! そして、最後には……」
「歌いきったらどうなるってんだ?」
恐れ慄きつつ老魔術師は語る。生唾を飲む音すら流され、耳に届いた。
「……歌詞の最終句。教えのために身を捧げる……"殉教しても悔いはない"という文言が、魔法として発現……そこまで歌えば辺り一面灰燼に帰す!! あやつはわしらを道連れに自爆する気じゃ!!」
「はあ!? それは真かライナス殿? ……冗談じゃねえ! こんなところでくたばってなるか!!」
「くっそ! 俺の"水"も届かねえ。こんなのありかよ……!! おい、じじい! てめえ魔術師だろ、なんか障壁とか出して守れよ! じじい!?」
メイガンが呼びかけた先に高位の魔術師の姿はなく、ただ暗褐色の布の塊が置いてあった。体を丸め完全防備の姿勢をとっている。攻撃を受けても耐え切れるよう、すでに治癒の文言を唱えていた。
「ずるいぞ! 自分だけ助かろうってのか!!」
「なあ"魔女"! この場をなんとかできるのはお嬢ちゃんしかいない!! 頼むから守護の魔法を使ってくれ」
「えー。あたしそういうの苦手なの」
今は一人だけだから耐えられるし、と魔女は静観の構えを崩さない。味方陣営から焦りと懇願の声が生じるも、大して気に留める風もない。
私もまた、満ちゆく輝きと静かに向かい合った。これが、あの若者の答えなのだ。教えも説けず救い難いが、私たちを見捨てるわけにいかない。ならば自分も一緒に果てることで、穢れた魂を正しい方向へ導き、慰撫しようと考えたのだ。
彼は本当に慈悲深い。この規模、この光輝の量……私の存在を滅するに申し分ない。ずっと追い求めてきた魔撃が、今ここに降り注がれる。これまでの戦いから信者の力に見切りをつけていたが撤回しよう。
なんだ。やればできるではないか。
「……どうやら、ここまでのようだな」
「じゃあねワイツ。短い間だったけど、楽しかったわよ」
魔女からの別れの言葉を浴びながら、私は墓標を建てるが如く、剣を強く地に穿って瞑目する。必要なら防具を外すことも考えたが、この威力なら私を仕損じることはあるまい。
いよいよ待ちに待った瞬間が来る。これまで長かった。穢れを世界に撒き散らす生も、やっと絶える。純白な閃光が、私という汚泥を浄化してくれる。
「同志たちよ。これが、今生での別れになろう。君たちの働き……本当に感謝する。共に戦えたことを誇りに思う」
「ちょ……いかん! ワイツ、おまえ……完全に諦めてるじゃねえか!!」
諦めるも何も、これが私の当初からの望み。
朗々と聖歌は続く。聖句の内容に共感はできないが、心地いい調べに思う。周囲に鳴る光の起こり、力の唸りが天地を震撼させ、壮大な合唱と化している。私の終焉を讃える歌唱だ。
「ええい、魔女! じゃあせめて冥土の土産に見せてくれ!!」
安らかなる寂滅の境地に、ギラスの声が轟いた。
「あんたの"王様"はこんなときどうやって対処するんだ!?」
「え……王様だったら?」
不穏な気を感じて、そっと目を開ければ……珍しく真顔となった魔女がいた。
「あたしの王様は、こんなとき……」
私が声を発するより早く……魔女は傘を捨て、大きく前方へ跳躍した。純白の源に真黒の影差す。際限なく広がる光に、小さいながらも拭えぬ闇が映る。
「同じくらいの魔法をぶつけるのよ!!」
聖歌は少女の無邪気な声に破られた。
最後の聖句が呪言と被さる。
「――――"この身捧げます"」
「"炎王の剣舞"!!」
意識が明滅する。世界と接続せし力の前では、私たちの生命など木っ端も同然だ。
全身に浴びた瓦礫と土砂を押しやり、ギラスは呻く。魔女の背後にいた兵は、強大魔法を相殺したおかげで生き延びられた。若者は影も形もない。清き魂のまま楽園へと旅立ったようだ。
私は不本意ながらも生存していた。実に遺憾である。
「"不死者"ってやつは……なんて、大雑把な連中なんだ……」
「だが、おかげで助かったぜ……"柊の"おっさん」
傭兵二人は軋む身を起こした。メイガンは惨状に舌打ちし、呪具から顔を出したライナスを苛立ち紛れに蹴りつける。
魔女の魔法には本気も手加減もない。私たちの存在も歯牙にかけず、自分のやりたい術をやりたい時に撃ち放つ。ただ、今の魔法は本当に素晴らしかった。
浄化の光と、魔女が顕現させた焔の大剣の衝突。全貌を把握しきれぬまま激震に打たれ、気を飛ばしたのが悔やまれる。
今度同じような状況になったら迷わず駆け込もう。
被害状況を見る限り、大体の者は生き残っていた。あのテティスすら例外でなく、びっくりしたなぁ、などと語彙の足りない感想を述べる。
動けるようなら予定通り進もうと、指示しかけたその時…………視界の片隅で藤色が大きく傾いだ。
「カイ、ザ……?」
破壊の色濃い地に、美麗な蒼銀と藤花が散る。位置が悪かったか……彼女は魔法の余波を背に受けた。立つまではよかったが、そこで力尽き倒れたのだ。
「カイザ!!」
急ぎ駆け寄り、傷の具合を確認する。焼け爆ぜた傷痕が、彼女を死の瀬戸際にまで追いやったことを物語る。血の気のない顔は、私の名を呼びかけて……沈黙に飲まれた。
「……っ、ライナス! ライナス来てくれ、早くカイザに治癒を!! 頼む……絶対に死なせるな!!」
自分の呪具に躓きかける軍医とともに、元凶である不死者が何事か呟くのを見た。唇の形だけで意味が理解できてしまう。予想した通り、カイザの重傷を惜しむ内容……
魔女は彼女の容姿を羨ましいと話していた。今の身体が壊れたら変わりが必要となる。不死の魂を宿らせる肉体、カイザがその第一希望だと……
「だめだ! だめだ、カイザ! 死ぬな!!」
淑女の身体を掻き抱いて、魔術師に助けを叫ぶ。彼女を失うと考えただけで目の前が暗くなる思いだ。
頼むから死なないでくれ。
おまえが死んだら、私が次の"魔女の器"にされてしまう。




