第二十四話 メイガンの指標
「おのれ……」
年老いて細く、しわくちゃな肢体が怒りに慄く。呪具とかいう布を幾重にも巻いているから重量があるように見えるのだ。着膨れの要因である暗い色の帯どもは、宿主の憤怒に同調しうねうねと蠢く。
「おのれおのれ! 女神の使徒め!! よくも熊神を傷つけおって!!」
俺の闘争への意欲は尽きたが、信者に殺されてやる気は微塵もない。味方兵が固まる場所へ参入してはみたが、各人の態度の差に呆れて果て、ものを言う気にもなれない。
魔術師のじじいはじめ、ニブ・ヒムルダの兵は熊を傷つけられた怒りで戦意を増し、豪炎を放つ信者の攻撃を果敢に防いでいる。敵の魔法はこちらに効くが、人語を解さぬ獣に対しては"女神の力"も発動しない。
なので応戦は手負いの熊に任せ、俺たちはたまに矢を射る程度。あとはひたすら、信者からの魔法の範囲外を維持している。
巨体に炎の魔法が燃え移り、獣は叫び転がる。刺さった矢が折れ、鏃がより深く埋め込まれようとも、俺たちは手を出さない。熊を神獣と崇めるじじいすら、悲痛な目で眺めるのみだ。
こういう場合は助けないらしい。本当にニブ・ヒムルダの風習は独特過ぎてよくわかんねえ。
「まあ、ひどい」
「外道の行いだな」
「おまえら……」
攻撃されるのは最初に手を出した者の責任。では、こいつらも何らかの咎を負うのが筋ではないか?
熊に突き刺さった矢は王子の矢筒に余っていたものと完全に一致していた。今、奴の背にそれは掛かっておらず、真偽を確かめるすべはない。抜かりなく証拠隠滅しやがって。
おそらくこいつは偵察の途中信者の群れを発見し、その辺をうろついていた熊を射掛けてけしかけたのだ。その癖に涼しい顔して信者と熊の戦闘を眺め、怒りに喚くじじいに合わせて異教徒を非難する。同行していた女戦士のカイザもまた知らぬ信ぜぬを通していた。
俺は手下に静観を呼びかけつつ、どうすれば軍から離脱できるか考え始めた。もう聖地や神の力とかどうでもいい。この国とはことごとく気風が合わねえ。さっさと出国したい。
「ああ……森が怒っておる。このままでは熊神も怒り狂ってわしらを襲うじゃろう。じきに、自然神の裁きが下る……いや、"緑の王"の手を煩わすまでもない。代わりにこのわしが過ちを正そう」
「あっれー? おかしいわね。あたしちゃんと"人避け"の魔法はかけてたわよ? 内部から手を出さない限り、誰も寄ってこないはずなのに……」
熊に乗って魔女がのしのしと近づく。そういや、不死者は人が来ないよう呪いをかけていた。呟きから察するに、内側の者が招かなければ敵は訪れなかったということ。
だったら窮地だぞ王子。ここで俺が目撃したことを話せば、味方からの信頼を失うだろう。そうだ、構うものか。女神の使徒討伐などめちゃくちゃになればいい……
「メイガン」
口火を切ろうとした矢先、王子の冷え冷えとした視線と声が大気を裂く。
こいつらに"その名"を呼ぶなと伝えていなかった。慌てて吐く言葉を変え、その澄ました面に詰め寄りかける。
「そういえばずっと姿が見えなかったが、どこに行っていた?」
「はっ……?」
意味が掴めなかったのは一瞬。
次に、周囲の視線が俺に刺さる。皆の眼光には元凶を見つけ、行いを責める意思があった。
「はああああ!?」
冗談じゃねえ! この場、この状況すべてが馬鹿げてやがる! よりによってこいつらは、俺が魔法を破ったと疑いをかけているのだ!
俺はすぐさま否定したが、驚愕の挙動を悪さがバレたことへの動揺と断じられた。周囲の空気が白けていく。濡れ衣をしっかり着込んだ俺の言い分は滑稽にしか映らない。
「まったくおぬしという奴は。戦力にならぬうえ敵を呼び寄せるとは……なんじゃ? わしに言われたことが悔しくて、ひとりで女神の使徒討伐に出かけたのか?」
「もしかしてくまさんを襲いに行ったの? 昼間、この子たちを食べたいとか言ってたわよねー。きっとこのもふもふを独り占めしたかったのよ」
「ちょっと待て! 全然違えよ、俺は……」
「違うと言うなら、いったいどこにいたんだ?」
「ぐっ……」
痛い腹を探られるとはこのことだ。数時間前の自失から未だ立ち直れないというのに、時間はより傷口をほじってくる。この状態で実行犯はおまえじゃねえかと言っても絶対信じられないし、見苦しいことこの上ない。
熱気を受け木々が倒壊していくのに、この王子ときたらどこまでも美麗な容貌を崩さない。炎の赤が髪に肌に透過し、見るも鮮やかだ。
とっとと出ていくつもりだったがなしだ。その顔、無残に変えるまで付きまとってやる。
「メイガンさんを疑うのはやめてください!」
さっそく実行に移そうとすれば、今度はガキの若い声が邪魔をした。
「なんで信じてくれないんですか! ギラスのおじさんも言ってたとおり、この人はずっとむこうで落ち込んでたんです!! それはもう打ちのめされて、身動きとかできないくらいのありさまでした。あの状態で敵を探しに出歩くなんて考えられない!」
「おいやめろ!! 言うんじゃねえよ、テティス!! てめえ殺されたいのか!?」
味方かと思ったらまぎれもなき伏兵だった。
一番の問題発言をかまされ、無防備な背を刺されるような衝撃を受けた。急ぎその口塞ごうと掴みかかる。
「えっ? だって、本当のことじゃないですか! 安心してください、メイガンさんの身の潔白は僕が証明し……」
「余計なことしやがって! おまえが一番うるせえんだよ、この馬鹿が!!」
「ぎぃやああああ!!」
「きゃあああああ!!」
殴りつけたガキの悲鳴が別の何かと被さった。ひどい不協和音を聞かされ、頭が痛くなる。
「放してっ! ワイツ、ワイツ助けて!!」
「ネリ―!」
見れば"柊の"おっさんが戦う一団近く、腕引かれ助けを求める女の姿。あれはじじいの弟子……いや弟子だった女だ。
師匠は曲がりなりにも戦力となる魔術師だが、こっちは相当の足手まとい。自らの本領発揮とがてら、無力に引き摺られていく。
「ちっ、騒ぐな! くそが」
「こいつは人質だ。連れていけ。おい動くんじゃねーぞ貴様ら! この女が見えねえのか!?」
あらかた獣を片付け終わった信者だが、消耗の色が濃い。俺たちの追い討ちを案じ、女を盾に退いていく。
付近を守っていた柊のおっさんが救助に走りかけたが、敵の発現した火柱に足止めされ……灰を出して潰し消す頃にはもう、奴らの姿はなかった。
「あらー。さらわれちゃったわね、あの子」
「すまねえ、ワイツ。ライナス殿。俺が近くにいながら……」
駆けつけたおっさんはしゅんと項垂れ、王子らに謝罪する。こういうところは騎士でもないくせに愚直というか、律儀面してむかつく。雇い主からの信頼と実績が俺より圧倒的に勝っているのも不快だ。
「いや、これでよい。ネリーは探知用の呪具を身につけておる。これでやつらの巣がわかるぞ。群れごとまとめて始末してくれる」
「ああ。策が整い次第、全員で殲滅に向かおう。今のはさほど信仰のない連中だったが、気を抜くな。"信仰心で空を歩ける者"はこの近くにいるのだ」
旧知の女が連れさらわれたのに、この王子に焦るそぶりはない。それとも、攻め手に転じる判断がこいつの決意の現れか。
指令には"全員で"とあった。こちらにも蒼氷色の目配せがくる。戦いの支度をせよと。
無論、俺も追従する。恥をかかされて引き下がる者は"メイガン"失格はもちろん、ひとりの戦士としても駄目だ。
失った己を少しでもよく見せようと配下を怒鳴りつける。けれど目先の怒りで戦っても、敵を討ち滅ぼせたとしても……どこか空虚だ。
名前が欲しい。
将来を生きるための指標が。
鼯の如く木から降下し……見張りの口を塞ぎ、喉笛を搔き切る。あらぬ方向へ首を捻り、吹き出す血も他所へ流す。
俺の着地音も短剣の一閃も、近場の流水音に飲み込まれ、信者の耳に届かない。
渓流の隣に布陣していると聞いたときは奴らの正気を疑った。闇討ちしてくれと言わんばかりの環境。自ら退路を塞ぐという判断。おまえら何しに来たかと高らかに問いたい。渓流釣りか。
背後の仲間に首尾よし、行けと合図する。共に戦う以上、手下には地形ごとの攻め方を叩き込んである。そのために練習がてら敵方の集落を積極的に襲ったし、逃げ道に罠を張る方法も教えた。今も敵陣包囲は抜かりない。これなら一人も逃さず全滅できる。
だが、これはあくまで信者を無力化できた時のみ有効だと知らされた。魔術師じじいの先手が成功したのちの追撃策。掃討の役目だ。
不満はあるが信者の技量が未知数な以上、慎重にならざるを得ない。
「それで? いつ始める?」
「まあ、焦りなさるな王子。あと、もう少し……ネリーを囲む輪が狭まってからですぞ」
隣の茂みから王子とじじいの会話が聞こえた。兵らが配置についたことを確認し、計画の実行を急かしている。早く済ませたいのは俺も同じだ。
女が心配だ。助けたいからという思いではなく、あの役立たずときたら……
「いやっ、いやあああああ!! 離してっ、痛い! 痛い! ……は、はいっ! そうです、団長は……この国の第四王子で…………街道に別隊を残しましたが、こちらが本隊です……そんなっ、本当です! 嘘なんか言ってません。信じてください!!」
「……おい、まだ爪の一枚めくっただけだぞ。なんだこの軟弱さは」
暗がりからでもわかる、尋問を受ける女の図。しかもあいつはよほど堪え性がないのか、機密をべらべら喋りやがる。わざわざ戦力を分散したのに意味がない。これでは奇襲がし辛くなる。
情報が広まる前に殲滅せねばならない。俺たちのことまで話されて、離脱後に追手を向けられるのは御免だ。
遠間の見張りは全員潰した。あとはあの女を囲む人員で最後。
これを片付けたらとんずらしよう。