第二十三話 メイガンの郷愁
考えてもみてくれ。
空から水が降ってくるというのは、不思議なことじゃないか?
あれは剣の稽古帰りのこと。当時ガキだった俺は、急に降ってきた雨を浴び、同じ年かさの仲間数名に問いかけた。おかしいのはおまえだ、とでも言いたげな視線を無視して、長年の疑問を次々に打ち明ける。
なんで降ったり降らなかったりするんだ? どうしてあんなに広い範囲を濡らせるのか? 別に雫の形で降る必要もないだろう。一箇所だけ滝のように降ったり、人の頭ほどの大玉で落ちてきてもおもしろい。蒸発して気体になった水が降るというなら、聖泉の雫も雲となって他所に落ちるのだろうか……
考えを話していくうちに、仲間もまた疑問に染まっていった。子どもならではのふざけた話し合いは、雨の降り方から雪に連想していき…………最終的に聖泉の"水"でできた氷柱針を雨のように降らせるのが最強、という結論に至った。
俺が魔法で出していた水が、聖泉の一滴でなく"雨"だと言われたのは、それから間もなくのことだった。そんなもの特殊でも何でもない。世界に広く、分け隔てなく降るただの水だ。
選ばれし民である俺たちの使命は、聖なる泉の一滴を覚え、魔法として発現し……末代まで永続させること。清らかな青を手にできなかった俺には……"メイガン"となる資格はない。
けれども、その時の俺に水の違いなんてわかるはずもない。まだ、郷の外にも出たことがなかったのだ。
「……はっ、ぁ」
夢とも言えぬ短い回想。目を開け、瞬きを幾度もし……すぐに覚醒したことが嫌になる。
気絶前の記憶が無情にも押し寄せ、心を苛む。この国に来てからずっとこうだ。年下の傭兵に負けた悔しさ、同行する不死者にびびりながらの進軍、まともに立ち向かえぬ敵、とどめに魔術師じじいからの核心を突いた一言……
あれを受けて胸に生じたのは、落ち込むとか悩むといった生易しい感情じゃねえ。自死を選びかねないほどの絶望が身の内を暴れ回る。再起など不可能。亀裂が入った魂は、ここにきてついに崩壊を遂げた。
故郷を、"メイガン"の名を汚しているのは……他の誰でもない、俺自身だ。
なぜだ……どうしてこうなった。何がいけない? 俺は、どこから間違えた?
女神の使徒討伐に参加した時から? 村長が止めるのを聞かず、外界に飛び出した時から? ガキだったころ……降り出す雨に関心を抱いた時から……?
聖泉に愛されなかったのも無理はない。俺はかの湧水以外の事象に心を許し、これまでの旅でも多くの景色に感銘を受けてしまった。
もう俺は"メイガン"ではない。そう名乗ることが、すでに故郷への侮辱となる。
ならば……
ならば……俺はいったい"誰"なんだ?
「あっ、おはよ。あなたが一番の早起きさんね」
「魔女……!」
視界に弾むゆる巻きの黒髪。心の深層を照らし暴く黄金の目。形だけは愛らしい少女だが、中身は狂気と妄執しか詰まっていない。この悪夢を擬人化したかのような存在……不死者"魔女"。
寝転がる俺の真上から、こちらを覗き込む。
辺りの状況を見れば、先ほど口論した場所から移動していた。横たわっていたのが地面でなく、ござの上なことを自覚し、すぐさま飛び退いて狂人から距離を置く。
他の面々はまだ気を失っていた。安全な地に逃げ去ろうにも魔女は俺を追い、柊のおっさんの胴体を飛び越え近づく。誘うように可愛らしく首を傾ける。
「みんなが起きたらカードやらない? あなたとはまだ遊んだことなかったわね。やり方がわからなかったら教えるわ……さ、そこ座って」
冷や汗流し、何のつもりだと問えば、ずっと同じ相手と遊ぶのは飽きたと言う。
「やっぱり大勢でやると楽しいじゃない。一人の相手を嬲り殺しにするのもいいけど、たまには大軍の虐殺も爽快よね。あたしはちょうどそんな気分なの。あなたも戦士やってるならわかるわよね?」
「……否定はしねえが、今の俺はそんな気分じゃねえ」
もう何も聞きたくない。喋りたくない。ただ息をし、存在するだけでも……俺にとっては苦痛なのだ。
今だって理性と感情の残り滓を集めて返答しているに過ぎない。ここにいるのは誰でもなく、何にもなれない男がひとり。かつての名は故郷に置いてきた。禁を犯し、二度と足を踏み入れられない場所に。
意外にも魔女はそれ以上誘ってこなかった。きっと今の俺は狂人すら同情するほどの、酷い面をしているんだろう。
こうなってはなりふり構っていられない。もがくようにその場を離れる。どこにも行くあてはないが、ここにはいたくない。
「ねえ……あなた、なんで"メイガン"になったの?」
突然吐き出された問いが、足を掴んで場に縫い止める。幼い顔にあるのは、哀れみではなく純粋な興味。だが、今の物言いは……俺の、胸の中で燃える炎を気づかせた。
こいつは"メイガン"の名に聞き覚えがある。
不死者が俺たちを知っているという意味。それは、先祖の思念が世界に根付いたということ……
「あなたたち"メイガン"は数百年前から突然現れたわ。強い者を求めて戦い歩く武人たち。不死者に好んで喧嘩売るのはあなたたちくらいよ……変なの。いい機会だわ。なんでこんなことを始めたの?」
「……てめえにはわかんねえだろうな、"不死者"。何を求めてそうなったかは知らねえが、俺たちには死んでも失くしたくないものがあったんだ」
故郷から得るべきは"水"だけではない。俺に特別の証拠たる力はないが、先達から受け継いだ意志だけは、どんな状況だろうと貫き通す。
「どんなに強かろうと死ねば終わりだ。英雄と呼ばれ、伝説になったとしても……死んでしまえば過去でしかない。世界をどうこうできるのは今を生きている者だけだ。だから、俺たちは……"メイガン"を不死の概念として掲げることにしたんだ」
魔女の金眼が歪んだ。笑みを消し、不機嫌に俺を眺める。そんな様子に対し、不思議と恐れはない。語り終わったあと、彼女の不興を買ったとして殺されてもいい。不快に思わせた。耳を汚したという事実を記憶させたかった。
永遠の魂に俺の爪痕を残す。それはとても小気味いい経験だ。
「俺たちは世界の蹂躙者たるべく育てられた。一族はみな聖泉から分かれた一滴。ひとりが死んでも流れを絶やさないよう、同じ名を受け継いで意志と思いを伝承させる。強者たる贄を狩って、泉に捧げ続けよう。そうすれば……"メイガン"の名は未来永劫この世に残る。いつか世界の英雄譚も、古今の伝説も……全部全部、俺たちの武勲で塗り替えてやる」
力も、名も……すべてを失った今ならわかる。
この胸に燃え盛る意志は、確かに"誇り"というものだった。
「"俺たち"はな、永遠になりたいんだ」
その言葉を不死者に贈ることが、俺の"メイガン"としての役割だったかもしれない。
話の最後、魔女が俺に向けた瞳には対抗心の光があった。悔し気な表情で……あたしだって負けてないんだから、との一言を放つ。これら言動の意味は謎だが、あの顔が見れただけでも溜飲が下がる。
胸の炎は最後のうねりを見せたあと、虚しく潰えていった。残ったのは燃え滓。抜け殻。何事も成せなかった負け犬たる自身のみ。
言葉も失くし、亡者のように彷徨う。放心状態において体は好き勝手な行動を取る……俺の場合それが、ひたすら飯を作ることで表された。手下どもを殴って簡易窯に陣取り、夜食を作ってテティスに押し付ける。
俺を案じて話しかける奴らには、すべて拳で答えた。気が済むまで料理したあとは人気のない場所を探す。心沈め、眠り……そのまま目覚めなければいい。いっそのこと、自ら埋まる穴を掘ろうかとも思った。
……どれほど経っただろうか。
いつまでたっても意識は明瞭で、誰でもなくなった俺を忘れさせてくれない。目が冴えていれば嫌でも今後を考えてしまう。
女神の使徒との戦いは? ここまで連れてきた手下をどうする? 明日からどの面下げて生きればいい?
この夜が明けなければいい。空昇る火輪が新しい日を刻もうと関係ない……俺に未来はないのだ。
だが、やはり近々の刺激には反応せざるを得ない。こちらへ進む人の気配を感じて、木の上へ退避する。こんな夜更けに何かと思えば、草場を分ける二人の影……
「カイザ、"熊神"は女神教の信者となり得るだろうか?」
「存じ上げません」
「そうか。私もだ」
誰かと思えば俺の雇い主だ。ワイツ王子と女戦士のカイザ……並外れた容姿を持つ男女だが、武器持つ装いから見て、逢引きというには物々しすぎる。
どこぞで鍛錬か、軽く戦闘でもこなしてきたかの風貌。王子が肩にかけるのは矢筒か。主として黒、先端のみが白色という矢羽が見える。信者相手に弓を使ったところは見かけなかったが、使える武器は多いに越したことはない。
さすがに魔女も夜は休むのか……カード遊びと言っても、朝まで続けるわけではなさそうだ。
「自然神"緑の王"か……念のため聞いておくが、おまえは信心深い方か?」
「いいえ」
ふいに足を止め、髪の藤色を夜風に流す光景は……月に照らされずとも神々しく、女の麗しさを痛感させた。思わず目を見張る。虚ろな俺の心にも響くものがあったかと……珍妙な気分に浸る。
息も飲まず、平然と見据える男の態度が信じられない。なぜだ、奴も見目良いからか。
「私が信じるのは、ワイツ団長ただひとりにございます」
「ならよかった」
「……何なんだ、あいつら」
二人が宿場へ歩き去り、気配も絶えてから呟く。一瞬見惚れたのはもとより、存在に気づかれた様子もなくやり過ごせた。どのみち朝が来れば顔を合わすことになるのだが、もう少し猶予が欲しい。
それにしてもあの王子、弓も使えたのか。出で立ちから見て、おそらくは二人だけで哨戒に出向いたんだろう。両人とも、王子と貴族令嬢という肩書きを持つとは思えぬほどの働きぶりだ。
本当にあいつらよくやるぜ。俺だって一時は『願い』を叶えるために、聖女を討ち"神の力"を得ようと考えたこともあった。何のために使うかは言うまでもない。
もう何もいらない。力も、名声も……出来損ないの俺に得られるはずもなかった。
怒り、虚しさ、悲哀……正しい順番は知らないが、ろくでもない感情だけが巡りくる。
最も強かった思いは胸を突いて出、言葉と化す。俺の本当の願い……許されるならば、これだけは叶ってほしかったもの。
それは心の底からの、真の望み……
「……帰りたい」
故郷の懐かしい……あの青が見たい。
「ああっ、ここにいたんですか! めちゃくちゃ探しましたよ!!」
完全に油断していた。郷愁の思いを振り払って乱暴に顔を擦り、気を引き締める。声の主は間違えるはずもない、あの変なガキだ。
こいつの前だと弱気に振る舞えない。今も、絶望していたなどと気取られるよう、木から降りてわざと近づいてやる。
「テティスか……何の用だ?」
「あっ、お夜食ありがとうございます! みんなおいしいって好評でしたよ、あと……あなたのこと心配してます。魔術師のおじいさんも反省してましたから、きっと次の戦闘では思う存分戦えますよ。そうそう! 今度はいっしょにカードしようって魔女さんが……」
「誰がするか!! 命がいくらあっても足りねえ! どうせろくでもねえもん賭けるんだろ……てか、殺されるかもしれねえのに、なんで平気なんだてめえ」
「え? だって、美少女に殺されるなんてご褒美じゃないですか、っ……!」
しまりのない顔がにやけるのを、気持ち悪いと思う前に手が出た。
テティスは、ぐふっと仰け反って二歩後退しぱたりと倒れる。つい癖で殴ってしまったがこいつが悪い。自業自得だ。
「でも……いつもより痛くない」
復活して立ち上がるまで早かった。こいつは仲間からもよくぶちのめされてるが、異様に打たれ強い。
俺は打撃の弱さを指摘され、顔を逸らしてしまう。
「メイガンさん、大丈夫ですか? まだ元気になれないんですか? ……おじいさんの言ったこと、引きずってるんですね」
そうだ……まだこいつらは"その名"で俺を呼ぶ。
反射的にかぶりを振って否定する。恥の上塗りなど耐えられない。俺のために名を使うことで、故郷を汚されたような気分になる。
「違う……! じじいの言うことは事実なんだ。もう、俺は……"メイガン"じゃない。てめえも分かってんだろ。俺は故郷の恥晒し。出来損ないなんだ……その名を背負う資格はねえ……!」
「いいえ! そんなことはありません!」
逸らせた視線の先に暗緑色が入り込む。テティスが俺の正面に躍り出たのだ。
「メイガンさんはメイガンさんです。あのっ、僕は……誰が何を言おうが、どんなに時が経ったとしても、あなたのことをずっとすごいって言い続けます!! 僕の気持ちは変わりませんから! 忘れろって言ってもダメです、一生覚えてます!」
「……テティス」
「メイガンさんは僕の憧れです。あなたのようになりたくて、あの村から飛び出してきたんです」
喚くこいつの目に虚偽や妄想は入っていない。力も誇りも持たなかった俺が、勝手に騙った"メイガン"を信じきっている。
ガキの馬鹿さ加減に口元が綻ぶ。こんな状態でも笑えるもんだな、と砕けた心の片隅でそっと思った。
「俺は、おまえの村を襲ったんだぞ」
「はい! その節はどうもありがとうございました! って、……あばっ!」
「おまっ……本当にどうしようもねえな」
誰でもない俺を受け入れた。これから生きていけるかもしれない……という気分になれた。
だが、こいつが気持ち悪い奴であることに変わりはない。
ガキが立ち上がり、またふざけたことを言おうと口を開いた瞬間……付近の空が朱に染まった。下品な冗談に代わり悲鳴がこぼれる。
「うわあああああ!! え、なに……火柱!?」
「ちっ、信者の襲撃かよ」
光に続き、敵襲を叫ぶ大声。魔女の人避けの魔法も信者には効かなかったというのか。俺はさっきまで身を預けていた木の枝に戻り、高地から敵の流れを見る。
大きく光源が灯り、森を広く照らしている。ここからさらに奥から照り返すのは清水の流れか。王子たちから、近くに渓流があるとの説明を聞いている。
敵が現れたのは陣の外れ。しかし、攻め込むというわりに無計画だ。まるで、走り回ってるうちに偶然行き当たったような動き……
その理由はすぐにわかった。信者を追って、繁みから尻に矢が刺さった熊が続く。さては獣を仕留めんと射かけ、群れを呼び寄せたのだ。
……にしても数が多い。ニブ・ヒムルダでは熊が神聖な生き物だとほざくが、どんだけ飼いこんでいるんだか。
信者の強さは信仰心に比例するという。さすがの女神の使徒でも熊相手に布教はできねえ。奴らが逃げ惑う様子から見て……話を聞けない相手に"女神の力"は発動しないようだ。
熊が刺さった矢を振り落とさんと身を捩る。巨躯の中でしなる矢羽は、黒を主として一つまみの白が映える……どっかで見たような柄だった。