第二十一話 ワイツの正論
光の斑点が装備に張り付く。兵たちは枝葉が編んだ揃いの模様を身につけ、森奥目指し進んでいく。
木漏れ日の獣道を進んでしばらく経つが、信者からの炎は降ってこなかった。森林ごと燻されることも想定していたが、ここから先には渓流がある。火矢の爆撃を受けても、水を巻き上げ進めば防げるだろうと考えていた。
落ち葉を踏む音に乗じて、老魔術師の詠唱が滔々と響く。森の入り口で馬車は置いてきた。ライナスはギラスに背負われて、私のすぐ後ろをついてくる。
大規模な障壁魔法は噴煙と同時に解除した。今、老人は自軍に施した迷彩の魔法のみに集中していた。
「ライナス殿……本当に大丈夫なのか? もう休んではどうだ」
「……を重ねよ"。"今生統べる緑の王よ。兵ら踏む大地にいと高き豊穣の幻影を重ねよ"…………ギラス殿。わしに、休めとな? ……否、魔法を絶やすわけにいかぬ。まだ、信者の仲間が街道にいるかもしれぬ。兵たちを、隠さねば……」
強がってはいるが、昨日からの連戦は心身に堪えている。何より彼は高齢なのだ。治癒魔法も会得していても、他の魔法との同時かけはできない。
普段は身体の一部のように扱う呪具の布も、魔力を流す余裕がないのか垂れ下がったままだ。止血のみ施した剥き出しの腕が痛々しい。ああやって術式を身に刻んでいるにも関わらず、詠唱は止まない。唱えていなければ意識を保てないのだろう。
明らかに無理をしすぎた。不死者の魔力は確かに強大だが、扱える者がライナスしかいなければ攻撃手段が限られてくる。魔術師と軍医を兼ねる能力は貴重だが、倒れでもすれば進軍は終了。私たちは信者に追い立てられ、みっともなく果てて終わりだ。
魔女は徒歩移動を強いられたにもかかわらず、上機嫌に落ち葉を舞いあげ、傭兵たちに吹き付けて遊んでいる。私の髪にも枯葉が積もっていく。やめてほしい。
そう思ったとき、顔の横を白い指がさっと通り過ぎた。隣を見れば、藤色の頭に葉を乗せたカイザが、私の灰髪から枯葉を払っていた。
「ワイツ団長、髪の毛に落ち葉が……」
おまえだってそうだ。
何度目かの落ち葉の洪水を浴びたとき、茶色吹雪の向こうに動くものを見た。
信者の伏兵かと身構えたが……何のことはない。ただの野生動物だ。
「熊だ!! 熊が出たぞ!」
黒色の巨体を前に、メイガンら傭兵たちは武器を手に取り囲んだ。完全に戦闘陣形を取っている。私の構うな、進めという声にも返答すらしない。
「こんなでかい熊は初めて見るぜ。毛皮を剥ぐ時間はねえな……食うのに必要な部位だけ削ぐか。どけよ、おまえら! 俺が一撃で仕留める」
「やめよ! "熊神"を攻撃するでない!!」
剣を手に躍りかかろうとしたメイガンを、ライナスが一喝した。私も他の傭兵たちを宥め、むやみに刺激しないよう呼びかける。
この地域に生息する熊たちは人を恐れ、または襲ってくることは少ない。なぜなら……
「ニブ・ヒムルダにおいて熊は神聖な生き物なのじゃ。狩猟などもってのほか! 自然神からの怒りが降るぞ」
「はあ? おまえら熊食わないのか? 肉はクセがあるがわりといけるぞ。肝は薬として重宝する。高く売れるんだが……」
紫眼に抗議の色を湛え、メイガンは狩猟の必要性を訴える。軍の食料状況を鑑みて、貴重な食料として確保したいとのこと。だが異国の傭兵の考えは、ニブ・ヒムルダ正規兵から強い非難を浴びた。一応、私も国を代表して説明する。
「メイガン、今ばかりはこちらの意見に納得してくれ。他国にとって熊は狩りの対象かもしれないが、この国では"緑の王"に仕える高位の神獣と伝わっている。"熊神"と呼び、手厚く保護しているのだ。広範囲の森に多くいるが、こちらから仕掛けない限り襲ってはこない。だから手は出すな。敵とみなされれば襲われ、進行に支障が出る」
「おい、まじかよ……こういうのがうじゃうじゃいるってことか」
これを聞いてメイガンは諦めたように尖った短髪を振り、剣を納めた。獣がこちらに興味を失い、去っていくのを名残惜し気に見送る。
このような関係性も、熊神とニブ・ヒムルダ国民の間で何百年にわたり作り上げた共存の形というもの。
無論、襲いかかれば厄介な敵と化すことは言うまでもない。
ただ……不死者にだけは常識が通じなかった。
「わあい、くまさんだ! かわいい!!」
黄色い歓声をあげ、魔女は豊満な毛皮に飛びつく。ぬいぐるみを抱きかかえる少女の要領で、不死者"魔女"は獰猛な獣の首に腕を回した。
黒色の獣も、彼女の無邪気な仕草に心動かされたか、あるいは膨大な魔力による呪縛か、魔眼で直視され精神が支配されたのか……詳しい原因は知らないが、おとなしく少女に従った。
「うふふふ、いい子ね。決めたわ! あたし、今からこの子に乗せてもらうわ」
「ほほう。さすが魔女殿、熊神をも瞬時に手なずけるとは……いや、これは自然神が遣わしてくれた御使いやもしれぬな」
「……なんにせよこれで森を抜けられそうだな。この分なら他の熊たちも、私たちのために道を開けてくれるだろう」
適当に話を合わせ、老人が喜ぶような言葉をかけてやる。続けて、もういい頃合いだから迷彩の魔法を解くことを進言し、治癒と休息を命じた。
では、お言葉に甘えて……とライナスは目を閉じる。
彼は偏屈で狭量な老人だが、今後とも役に立つ魔術師だ。終焉の場に行く私を手伝ってくれるならなんでもいい。付近の傭兵二人の会話も聞かなくていい。
「……おい、"柊の"。さっきの見えたか?」
「ああ……熊の首が変な方向に回ったな」
いつでも燻し殺すことができるわりに火を放たないのは、仲間の存在を考慮した可能性が高い。すでに仲間が森に入り罠を張っているか、伏兵を配置したとも考えられる。
この場でわずかとなったニブ・ヒムルダ正規兵は地理に疎い傭兵に方角を教え、警戒しながら進んでいく。
そんな状況のなか私は、老魔術師が寝静まったのを確認し、小声で幹部の招集を命じた。ギラス、メイガン、カイザ……いつもの面々に加え、今回はネリーも手招きする。不死者は熊を撫でさするのに夢中で応じなかった。
今もギラスはライナスを背に負っているので、会話も小音で行う。
「見ての通りライナス殿の衰弱が激しい。この調子で身体を酷使しては命に関わる。彼と不死者の魔法中心に戦略を考えていたが、改める必要がある」
「しかし、他に手段がありましょうか?」
ひそひそと、カイザが皆の疑問を代弁した。最初の戦闘で快勝を成してからというもの、戦闘におけるライナスへの依存は高まるばかりだ。この状況に本人は喜んでいるが、私は不十分に感じる。
「疲労で倒れられれば元も子もない。彼への負担を減らすべく、私たちも技能を尽くして戦う必要がある。例えばこの場所……身を隠し戦うには都合がいい。先の経験上、奇襲戦は信者にも通じる。メイガン、仲間を連れての潜伏戦は可能か?」
「……たりめーだろ。俺を誰だと思ってやがる」
やっと出番が来たぜ、と異郷の傭兵は大戦の予感に笑う。そのかわり報酬は倍を約束するよう迫ったが、私はすぐに了承した。
もちろん私は、最初に提示した金額も、上乗せ分も払ってやる気は毛頭ない。もとより彼らに報酬は必要ない。どうせ聖地につけば皆死ぬのだから。
「随分と強気だが、おまえら本当に戦えるのか? さっき信者の力見たろ。あれと渡り合おうというんだぜ?」
「う、うるせぇよおっさん! 口出しすんじゃねえ! 俺は……俺だって信者くらい殺れる。信じらんねえならかかってこいよ。てめえの体で証明してやろうじゃねえか!!」
「……ぅ、ぐ」
「しっ……メイガン、もっと小さな声で話してくれ、ライナス殿に聞こえる」
虚勢からなるメイガンのがなり声にライナスが反応した。せっかく休眠した老人を起こすのは忍びない。ギラスは若き戦士をたしなめ、やや距離をとって歩いた。
「人員が減ったのだ、小回りは利くようになったが、信者を討つには全員が協力して対処しなければならない。まずは現実的な対策を話してくれ。やり方に応じて不死者からの魔力提供や魔法で支援をする。必要なら私の兵を指揮することも許そう」
私の正論に皆は同意して頷く。真意は最期まで心の内に秘めておくが、それまでは協力し、できるだけ信者を減らしておきたい。そう、だからこそ……
「ネリーも力を貸してくれ」
「えっ……私も?」
「君はライナス殿の弟子だ。私たちより術式に精通しているはず……彼が今のようになったら、変わりに魔法を発現してくれないか? 魔力不足の心配ならいらない。私から魔女に頼んでおく」
「そんなこと無理よ! あの、あまり期待しないで。私、才能ないから……お師匠様も言ってたでしょ? 私はできの悪い弟子だって……」
話を振って助力を仰いだが、ネリーはひたすら自身の無力を主張し、群青の目を泳がせる。
すがるように杖を両手で握りしめる姿は、昨夜私の寝所を訪れ、変革せよと喚いた人物とは思えない。
「では何の魔法ならできるんだ? 役に立つかたたないかは私が判断する。まったく駄目なわけではないだろう。ライナス殿から多少は手ほどきを受けたはずだ」
「やめて! やめてよ!! ワイツ……あなた、私に戦わせる気!? そんなひどいこと言わないで!」
周囲の訝しげな視線に負けじと、ネリーは声を荒らげる。
「私は戦わないし、戦えないの!! こんな時に使える魔法なんてひとつも知らないし……第一、私にこんな役目があるなんて聞いてないわよ!? 私はあくまでお手伝いなの。もっとこう……兵站の確認とかお料理とか、地味で平和な作業のためにいるのよ!」
「は? 女、ふざけてんのか? 戦えねえってんなら、いったい何しに来たんだ。戦場にそんな生温い仕事なんかねーよ。戦力にならないなら、せめて俺たちの"夜の相手"くらいしたらどうだ」
「……これだから低俗な男は嫌なのよ。学も地位もない野蛮人のくせに、私に話しかけないで! いい? 私への卑猥な要求も、無理やり戦わせるのもなしよ! べつに、私はなりたくてお師匠様の弟子になったんじゃないんだから!!」
髪に編まれた金輪と飾り紐を揺らし、ネリーは狼藉者から逃げるが如く私の背に隠れる。
湿っぽい声で名を呼ぶが、振り向く気にもなれなかった。彼女はまだ未熟な魔術師とは聞いていたが、ここまで戦闘への覚悟がないとは……
今にも泣き出しそうな彼女を引き剥がそうとしたその時、憤怒の唸りが沸き起こった。
ギラスの背後で暗布が蠢く。鋭く伸ばされた一本を老戦士は咄嗟に掴んだ。ネリーに向かい飛ばされたそれには……明確な殺意が込められていた。
「こんの……小娘が……!!」
「ライナス殿!? 落ち着いてくれ、傷口が開くぞ!」
「きゃああ! なに……お師匠様、いつから……起きて……?」
「黙れ! 貴様という女はどこまで性根が捻じ曲がっているのじゃ!! できる魔法が一つも思い浮かばんだと? ええ? 股だけでなく頭までゆるかったというのか!?」
ネリーの悲鳴じみた声と発言の内容は、ライナスへの過剰な刺激となった。あまりの剣幕に誰も対抗できない。寝ぼけ眼に不鮮明な覚醒のため、私たちには彼の言動の意味が正しく掴めない。
どの要素が彼にとっての逆鱗なのか知らないが、怒りのあまり呪具すら扱えず、代わりに言葉で攻撃する。
「ああそうとも。そうだとも! おぬしに期待したわしが間違っておった。ほんの少しでも思いをかけたわしが愚かじゃったわい! 矯正しようと手を尽くしたのに、いまだこのざまとは嘆かわしい。ここまで救いようのない性悪だとは思いもしなかった!!」
「お師匠様! ひどいわ……いくら私に才能がないからって、ここまで言うことはないじゃないですか!! 私だって一生懸命努力したのに!!」
「才能以前の問題じゃ馬鹿者!! ネリ―よ、貴様は破門じゃ! こんな女がわしの弟子だっただと、知られるだけで恥。後釜になるなど虫唾が走る。おぬしは見るだけで害悪をもたらす存在じゃ!! こうなれば責任を取り、わしがこの手で……!」
いかん、逃げろとギラスが呼びかけ、ネリーは脱兎の勢いで走り去った。しかし、まだライナスの憤りは収まらない。
自身が侮られたと誤解したまま、怒りの矛先を私たちに向ける。
「あんなものに頼るなど以ての外! 年寄りと思って舐めるなよ若造ども! ……わしはまだ戦える。此度の戦闘もみな一手に引き受けよう。戦いはわしに任せておけばいいのじゃ! そちらの"メイガン"と名乗る狂犬にも、決して我が晴れの舞台は渡さぬぞ!」
「んだと、じじい……!! 勝手なことほざいてんじゃねえ! 俺があんな奴らより弱いっていうのか!?」
挑発じみた主張に対し、メイガンは真っ先に噛み付いた。これまで実力を見せられなかった戦闘狂は、武器に手を掛け老人ににじり寄る。
彼の足となるギラスがいくら静止を叫べど効果がない。やむなく後ずさり、距離を取るのみ。
「当然じゃ。信者はおぬしでどうにかなる相手でない。先ほどだって逃げ惑うことしかできなかったくせに。まったく……"メイガン"という名は戦場において最高の兵たる証と聞いていたが、とんだ期待外れじゃわい。おぬしらが讃える"聖なる泉"の伝承とやらも、誇張に過ぎんようじゃな」
「てめえ、よくも……よくも、俺の郷まで馬鹿にしやがって……!!」
髪を逆立て、怒りで青筋立つ様子は……以前休憩した折に、彼とギラスとの口論で見たことがある。
"メイガン"。旅の戦人を指す名は、この傭兵にとって何より誇らしく、侵されざる聖域を表す。だからこそライナスの侮辱に退かず、敵意を剥き出しに向かい合う。
「やめろ、来るなメイガン! ライナス殿もおかしいぞ、なぜそんな煽り立てて……」
「この、くそじじい!! 殺す! 八つ裂きにしてやる! 聖泉を愚弄した罪を思い知れ!!」
仲裁虚しく、彼は気合を放って抜刀した。もはや血を見る以外に決着はない。私はカイザとギラスに目配せし、力ずくでも止めようと隙を待つ。
だが……私たちの挙動とメイガンの一閃よりも早く、ライナスの言葉が先手を取った。
「わからぬか愚か者め。故郷を大事大事と謳っているが、その名を汚しているのは他ならぬおぬし自身ではないか! ろくな成果一つあげず、情けなく怒鳴り散らす醜態が何よりの証拠じゃ!!」
「なっ……! あ、ああ……!!」
それだけで呪術として成立したのか……メイガンの疾走は半歩で挫けた。震えで剣も握れず取り落とす。紫の瞳に闘志の光はない。魂に致命傷を受けたかのような反応に、かけるべき言葉も見つからない。
「反論するなら、他者より優れたることを証明して見せよ…………ふふん、その表情ではできぬらしいな? 何が"メイガン"じゃ! 何が至高の戦士じゃ! どうせ自称に過ぎぬのじゃろ? この贋作! できそこない!! のう、ギラス殿もそう思っておるよな?」
「ライナス殿、頼むから気を鎮めてくれ。今のあなたはまともに見えない……先ほどから何を苛立っているんだ? 私たちは、あなたをないがしろにしようとしているのではない。ただその負担を減らしたいだけだ」
心の底から宥めるように話してはじめて、老人の気に柔さが生じた。自身の不安定な心情を見極めんと、私の顔を覗き込む。荒々しさは鳴りを潜めたが、こちらの思いを汲み取ろうという表情ではない。
「うん……おぬしはいったい……? その灰髪…………これはこれは陛下。ご機嫌麗しゅう……またわしに難癖つけ、閑職へ追いやろうというのですな」
「……陛下だと? 何を言っている」
もはやこれは錯乱の域だ。ライナスは寝起きから覚めず、あろうことか私を父王だと誤認している。
資金援助を断たれた悪感情から、刺々しい物言いでなじり始めた。もう説得も煩わしい。すでに、彼を止める方法が"殴る"以外に思いつかなくなってきた。
「……まったく陛下は、意に沿わぬ者に対して実に手厳しい……しかし、もうご心配なく。わしに不死者の助力さえあれば必勝は確実。ああ、信者を嬲る戦法が脳髄から溢れて止まらん。全ての戦果は……栄光は……わしだけのものなのじゃ!」
「ちょっと! あなたたちさっきからうるさいわよ!!」
轟、と耳鳴りがした。
透き通った少女の声。視線を向ける姿も幼く、愛らしいもの。だが、不機嫌に歪んだ黄金の魔眼は私たちに服従を強いる。殴られたような衝撃のあと、全身に不可視の力が襲いくる。
「がっ……!」
「っあ……」
見えない力の正体は、ただの魔力の放出。信者が使うのを体感したことはあるが、その何倍もの圧力が身体を軋ませる。まるで幾万もの手で地に押さえつけられるような感覚。騒音への仕置にしては、なんと横暴な……
重圧は喉を抑え、声を潰した。苦痛を呻きで表すこともできず……皆、残らず捻じ伏せられた。
「これからみんなで聖女たち虐殺するんだから、ちゃんと仲良くしなさい!!」
薄れゆく意識のなか、魔女の正論が頭上を流れた。