第一話 ワイツの憂鬱
前方で目標を捕捉した瞬間、意識のすべてがそちらを向いた。
堪らず疾走する。行動より一歩遅れて、優先順位が書き換えられる。あまり時間がない。
私と剣を交えた相手は、打ち捨てられたことに対して抗議の声を上げた。仮にも一騎討ちの状況下、他方に目移りするなど、戦士にあるまじき行為というところか。
だが、関係ない。もとより私はこれを目的に来たのだ。彼方の騎士を討つために戦場に立っている。
対象は前線近くを猛進していた。砂塵飛び舞う荒地においても目立つ、大柄な軍将。甲冑にあしらわれた紋章は、探し求めていた人物のみが宿すもの。あれだけ調べつくしたのだから間違いない。
彼は、私の獲物だ。
敵将は今、戦棍を振りかぶって、奔放に跳ねまわる兵卒を追い回している。相手を務めるのは我が国が雇った傭兵の若者だ。当たれば一瞬で挽肉と化す攻撃にも、若い戦士は紙一重でかわし、反撃の隙を窺っている。しかし、この攻防はいつまでも続きはしない。
将でありながら侵攻を配下に手伝わせないのは、単身でも十分だと見切っているから。事実、敵将は巨躯とは思えぬほど俊敏な動作で、傭兵の退路を封じている。鈍重な戦士を翻弄しようという、若者の考えは手痛いしっぺ返しを招いた。
彼の顛末は決まったようなものだ。重量を伴っての一撃に四肢をもがれるか、防具ごと内臓を潰されるか……
そんなことはどうでもいい。私は静止を叫んで、対峙する二人に接近する。進路に塞がる敵兵も武具も目に映らない。下方に携えた剣が地面を擦り、刃を削って火花を散らすことにも構わず、距離を詰める。
彼らの戦いは審判の時を迎えていた。
敵将は必殺の殴打を振るう。痩せた大地を血飛沫に染め上げんと迫る。退けど進めど死地に変わりない。年若い戦士は逃げるのを止め、腹を括って前へ踏み込んだ。
最後の一閃。戦棍が振りかざされ、傭兵の剣が打撃の合間を掻い潜る。
若き戦士は眼前の破滅を見据えても、ただひたすら生の活路を求めた。その先を想像するだけで、私は憂鬱な気分になる。
「退け!!」
耐え切れず発した大声は、傭兵の集中を途切れさせた。
剣の軌道が大きくぶれる。足を絡ませて崩れ、大地に背をつける。私は無様に転んだ若者を飛び越え、将の懐へと身を潜らせた。ここまで来れば剣を振るう必要もない。私は刃を横にし、ただ一点を指し示す。
武器である鋼鉄は持ち主を前方へ推進させた。こちらから動かずとも切っ先は兜の右側、眉庇の隙間を通り抜け……将の眼窩に埋め込まれる。
「彼は、私のものだ」
私の牽制の声も、意志も、傭兵の彼に届いたかはわからない。
巨体の落ちる光景は、それだけ多大な印象と衝撃音を周囲に与えた。
将が倒れて数秒後、軍隊ラッパが響き渡り、魔力の幕による陣形指示が掲示される。魔術師が出す戦場の指揮と号令を映す魔力の光幕。敵陣から瞬くそれは、私たちへの攻撃魔法を描くものではなかった。意図のわからぬ紋様は退却を現すものらしい。彼方を目指し、敵の軍隊が駆けていく。
屍だけを残し、敵兵は潮が引くようにして去っていった。私は足元の獲物と自軍の本部を交互に見る。目標を達したが、軍は私の戦果を承認してくれないらしい。こちらの陣営からも召集の号令がかかっていた。それも、至急を要する軍議の知らせ。
末端とはいえひとつの軍団をまとめる私も、急ぎ本部に戻らねばならない。討伐の証を刈り取る暇もない。
「おい! ここにいたのか間抜け! 功を焦って突っ走りやがって!!」
新たに駆けつけた味方兵が何事か喚くも、無視して剣を納める。今の発言は私に宛てたものではなく、足元で呆ける若き傭兵への叱責だ。戦闘も一段落したところで仲間の無謀を責めに来たらしい。兜も取り去って視界を広げる。
白金の短髪が光を浴びた。
「ランディ、来てくれたのか」
「またその呼び名かよ。はぁ……どうしてこう、どいつもこいつも俺の名前をまともに言わないんだ」
珍しい髪色は数度の瞬きの間、目に残った。彼らが属する傭兵団は、ここより遥か遠くの地にて結成された。団員も世界各地から集めたのだろう。顔合わせの際に代表者数名と会ったのみだが、それでも構成員の容姿に類似はなかった。
彼もまた異国の出身なのだ。私の灰髪も王家のみが持つ希少な色彩と謳われるが、あの傭兵ほど珍しくはあるまい。私の国、ニブ・ヒムルダの民は暗寒色がほとんどだ。限りなく白に近い金髪など、近隣ではまず見かけない。
戦況を見る精悍な顔は私より幾分か若いが、その表情は歴戦の重みを湛えている。戦闘稼業も慣れきったものらしい。刃のほとんど潰れた大剣を背に負い、仲間が身を起こすのを手伝った。
そんな光景を横目に、私は装備の中から短剣を出して獲物に近づく。後方から総司令直属の部下が、わざわざ走ってきて召集の伝令を投げるも、一切応じなかった。優先すべきは別にある。
先に動いたのはしびれを切らした部下でなく、あとから来た異国の傭兵の方だった。彼は私の意図を察し、軽く頷く。
「いいよ、ワイツ団長。あんたがこいつを殺るのは見てた。後始末は俺たちがやる。ここは任せて、総司令のところへ行ってくれ。首級は必ず後で届ける」
「ああ……すまないな。恩にきる」
気が利く申し出に、私は迷わず踵を返す。持っていた短剣は鞘ごと投げ渡した。鈍器じみた剣で斬首は手間だろう。
彼は片手で受け取り、刃先を陽に煌めかす。
「おい! これ、本当にもらってもいいのか? ヒムルダ王家の印が入ってるぞ……使ったら洗って返そうか?」
雷鳴のような声で問われてはじめて、短剣に紋章が彫られていたことを思い出す。雑多な兵士に軽々しく与えるものではないのだろうが、この私から貰ったとしても、とくに価値などない。名誉だと讃えられることもない。
王家の血を引くとはいえ私は忌み子であり、畜生の子なのだ。家畜程度の役にも立たない、野良犬以下の存在だ。
「……返さなくていい。そこの、勇気ある傭兵に渡してくれ。生き残った幸運の証だ」
それ以上は話す気になれず、歩を進める。後ろから私の後を追うように、傭兵二人の会話が聞こえてくるが、気にせず先を急ぐ。
「だってさ、エトワーレ。ほら、おまえのだ。さっさと奴の首刈って来い」
「なんだそりゃ! ランディてめえ、面倒だからって俺に仕事押し付けてんじゃねえよ! ってか、王子様からといえ、生還の記念に宝剣もらっても釈然としねえ!! いったい誰なんだよこのおっさん。こいつの首になんか価値あんのか? やけにおっかなかったが……」
「は!? おまえ、知らねえでこいつと交戦したのか? 甲冑の模様をよく見ろ! 薔薇と剣の紋章は向こうの国の将軍家の家紋……こいつは敵国エレフェルドの大将だ」
うへぇ、マジかよ!? という大きな感嘆符に、近くの兵ら数名が振り返った。続けて私を見る。ワイツ様が将を……と、確認の囁きが周囲に生じた。
「あの団長に感謝するんだな。あれ以上やり合ってたら、おまえ……ただじゃすまなかったぞ」
「そんなこと知ってるさ。でかい図体のくせに素早く動けるなんて詐欺だ。おかげで肝が冷えたぜ……だけどな俺、あの時はいい線いってたんだ。うまくいけば倒せる。そう、思ったんだが……」
そこで、一瞬だけ後ろを見ると目が合った。彼らは会話に高じるさっきと違い、押し黙ってこちらを向いている。一方は感謝だが、片方は訝しげに……
あとから来た傭兵の、曇りがかった青の視線に背を押されながら思う。彼が、あの瞬間を目撃したというのなら、私の行動の意味を察しているかもしれない。
敵の将軍を討て、というのが国王から下された指令だった。王が"私だけ"に求めた行いだ。他者の手によって妨げられるなど、あってはいけない。
国王の命令は絶対だ。彼らの願いを叶えるために、私は生きているのだから。
指令はこの手で成し遂げなくてはならない。だから、あの時私は……傭兵の彼を切り捨てても、将の前に立つつもりだった。向こうが勝手に転んでくれたから、先に殺す手間が省けた。ただ、それだけの話。
あとに残した彼らが何を思い、何を言おうと関係ない。私は、次の命令に従うまでだ。
「……なんて言うか、おまえ。殺されなくてよかったな」
「ああ! あの人は俺の……命の恩人だ」