最終話 聖女の沈黙
春の野に花弁舞う。陽は天高く行路を照らし、雲をちぎって流し道標とする。風吹く方向、重たげに傾ぐ白花も皆、新天地を示していた。
都外に広がる原野は今の季節だけ花園を成した。光彩を巻き上げて送別とし、旅人の門出を祝福する。
道の上には"ふたつの星"が立つ。元傭兵団"柊の枝"……現在はニブ・ヒムルダの騎士である若者たち、ランディとエトワーレ。戦乱続く無明の夜でなく、平穏で健やかな国においても、彼らの存在は"白雷"、"橙星"の異名と同じく輝かしい。
二人のうち"橙星"……明るい黄赤の髪を持つエトワーレは、自身の相方に小さく声をかけた。
「ランディ……おまえ、本当に行くのか?」
「ああ、俺は旅を続ける。一箇所に留まるつもりはない……全部が終わったらこうするって言ったろ? これが、俺の選んだ道。望んだ使命なんだ。あとの連中のことは任せたぜ、"柊の枝"三代目首領。いや……柊の騎士団か」
「けどよ……もう少しいたっていいんじゃねえの? おまえだってこの国の英雄だ。国中の人たちが慕ってる。それなのに別れも告げねえで行くとか……」
「あの状況でそんなもん言えるかよ。民衆はもちろん、国王陛下と王妃も全力で引き止めてくるなんざ目に見えてんだよ。うぜえことこの上ねえ」
肩をすくめて嘆息するが、灰青の眼光は鋭く王城を遠望する。いざという時の犠牲になることを買って出、代表として担がれた王族の末席……自らの雇用主を思い返す。
記憶にあるワイツの姿に何ら不審な挙動はない。無力な王であるはずなのに……ランディは相対するたびにどこか底知れなさを感じていた。
彼の麗しい風貌から想起するのは、なぜだか暗い夜。ニブ・ヒムルダの再建、いまだ暴虐の念燻る周辺国……不穏の種は其処此処にあるが、大事には至らないだろうと判断し、ランディは白金の髪振って気持ちを切り替える。
長らくともに戦場を駆けた、頼もしくも騒がしい相棒を残していくのだ。あたたかい我が家を手に入れた仲間たち、自由と覚悟を知った民衆の幸福は彼によって守られる。そう信じている。
そして、この地で光る星はひとつでいい。"白雷"は次に流れる場所を決めていた。
進路を得たのは助言あってのことだった。幾度目かも知れない戦勝の催しにて、いい加減中心にいることに飽きた両星は、路地裏へ逃亡を図った。
二人は妖しい風吹く夜を回想する。その時の出会いが、図らずもランディの行く末を変える契機となった。
「英雄に興味ねえってんなら、おまえさんたち"冒険者"にならねえか? 今なら、俺が女王蜂に口きいてやってもいいぜ。それほどの腕がありゃ、すぐ認可が下りる」
「やだ」
「断る。誰がなるかそんなもん」
「まじか……この俺が勧誘するなんて、滅多なことじゃないってのに」
がっくりと面を伏せる老人だが、積年の趣を刻む顔は、さして未練を感じさせない。
ニブ・ヒムルダにて越冬した冒険者は、喧騒外れで英雄たちと出会い、静かに酒を酌み交わす。
「都に来たのは"荷物"を届ける用事もあったが、おまえさんたちに会うことも目的の一つだった。戦いをなくすために戦う傭兵なんざ、この時世に希少な性根じゃねえか。奇襲で潰されんのは惜しい……だから今回の挙兵も知らせてやろうって考えたんだ」
「本当に教えてくれて助かったぜ! おかげで体制整うのも、ワイツ国王からの号令も間に合った。あんたいいじいさんだな!!」
酔いで賑やかしさを増すエトワーレ。親愛を示すためか老人と肩を組もうと寄り、彼から軽くいなされていた。
揺すられる影響で煙管の吐く紫煙が不自然にうねる。
老冒険者は冴え冴えとした白金に目線を合わせ、ひとり冷静な若者に告げる。
「戦場に首突っ込みてえなら、西の大陸へ行ってみな。仲の悪い二つの大国と……そこでしがみついて生きる少数民族がいる。すぐ爆発するとは言わねえが、戦いの火種はいくらでもあるぜ」
「ふうん……で? あんたは俺をどっちに加勢させたいんだ?」
「さあな。いつも通り行って思いのまま戦えばいい。おまえの出す答えが……彼らへの審判となるだろう」
さざめく草花の音が両人の心を現在に引き戻す。冒険者は情報を提示したのみだったが、ランディは新たに目的地を定めた。
ちょうど旅立つには絶好の日だ。風は若き英雄の背を押し、海原も波を押さえて、彼の到来を待っている。
けれども足は重くなる。面倒見の良い彼が、珍しい表情の相方に心響かぬはずもなかった。
「馬鹿か……泣いてんじゃねえよ。いつかはこうなるってわかってたろ。いっしょにいたのは行く道が重なっただけ、目的を達成すりゃ別れるのも必然だ。おまえは泣いてる女や傷ついた子どもを守ってやりたくて戦った。でも……俺の使命は戦場を巡り歩かねえと成し遂げられねえんだよ」
「すかしたこと言ってるけどよ! ランディだって人のこと言えたような顔かよ!!」
涙を振り零し、エトワーレは戦友に掴みかかる。ランディが毅然と前を向き続ける理由など……すでに見切っていた。
二人は揃って目元を朱に染める。互いの顔を笑い、馬鹿にされたと思って揉み合いになる。
そうして怒鳴り、暴れ……最終的に花畑に転がった。
「俺もランディと同じさ。"女守るの止めろ"って言われたって聞くかよ。でも、そうするにはどっかに留まって匿う場所を作らないと始まらねえ。まずは手柄立てて土地貰って……いっそ村ほどの規模でやるんだ。まだ早いけどさ……そこに付ける"名前"も決めてある」
剣手繰ることだけがエトワーレの戦いではなかった。ここまでの経過はすべて前哨だ。ニブ・ヒムルダの英雄になり住処を建てた程度で満足しない。これはただ活動の基盤を得たに過ぎないのだ。
彼の挑戦、生涯懸けた夢の実現はこれから始まる。
"橙星"は暖光振り撒く位置を決めた。
あの人の願いも叶えてやりたい、とエトワーレは切なげに言う。片割れからも同意が囁かれた。
見上げる青空に恩人の姿が描かれる。本来なら引退し、あたたかい安住の地を得るはずだった、若者たちの導き手……
彼らもギラスの最期を耳にした。生存が絶望的であることも理解していた。
「……いい人だったな、ギラスのおっさん。俺の使命を聞いて笑わなかったし、あんな風に"がんばれよ"って肩を叩いてくれた人……ほかにいなかった」
「あの人がいたから俺はもっと強くなれたんだ。これからもそうさ、まだ俺の野望は始まったばかりなんだからな」
「おまえさあ……ずっとそのままのおまえでいろよ。そうすりゃ何があっても、なんとかなる気がする」
「当たり前だろ!」
勢いよく半身を起こし、エトワーレは相方の顔を覗き込んで叫んだ。
言い出さずとも誓いは胸にある。志を認めてくれた人がいる。別の場所で信念を貫き、戦い通す互いの存在も、決して折れぬ支柱となる。
「俺、"あの夜"を絶対に忘れねえから!」
これらは奇跡だ。自身が生まれたこと、人々との出会い、そして今の別れも……きっと。
幸運と呼ぶ以上のめぐり合わせを感じ取り、"橙星"は旅立つ"白雷"に喜びを伝える。
「ランディと、ギラスのおっさんといっしょに火を囲って話した、あの日のことを……!!」
心の在り方は確定していた。"承認"という、優しい祝福を受けた魂たちが、闇に染まることは決してない。
眩しい星の存在は、確かに世に遺されている。
重い身体を引き摺り、男は進む。
行くべき場所などない。自身が何者で、どこを歩んでいるかすらわからない。巡る季節、雪解けから新緑が芽吹く光景も、虚ろな男の目に映らなかった。
握る意味も忘れ、とうに剣は捨てた。何ら目的のない、傷と病だけを得る放浪の時間は、彼が力尽き倒れるまで続いた。
伏してから命の炎が消えるのも時間の問題。人格の残骸が生き続けたとして意味はない。先に死した"心たち"の後を追うように、肉体の生命も尽きるべき……
しかし、彼に触れるあたたかな手があった。消える寸前だった生命の火を守り、死の淵から引き上げる慈愛の御手……
それは"少女"のものだった。
かつて教会だった古いあばら家にて、清輝なる金糸が隙間風に揺れる。
礼拝に訪れる者なくとも、彼女の存在があるだけで、その地は清められる。限りなき優愛は宿る場所を選ばない。今は、名も失った男に"修道女"の無尽の優しさが注がれる。
けれど男が応えることはない。あたたかい寝台、食料と水を与えられても助かった実感なく、ただ息を続けるだけ。
たとえ少女に男を生かす力があっても、彼が望みを言わない以上、救いを与えることはできなかった。
あくる晩、男ははたと夜空を仰いだ。寝台から窓通して一心に見耽ける。曇天にもかかわらず変えぬ姿勢は、何かを待っているようでもある。
修道女はその姿に見覚えがあった。以前、白亜の大聖堂で会った、自身に立ち向かう者たちと同じ瞳だ。
「あなたも、"星"が好きですか?」
自然と、そのようなことを呟く。天にある光について彼女にも少なからず思い入れがあった。
淋しい夜の慰めに、膨大な歳月をほんのわずか紐解いて、語り出す。
「あれは多くの人を導いた、偉大なる魂の記録とも言われています。過去に、未来に続いていく光……ここから見ると小さな粒ですが、闇夜に飲まれず、永遠に輝きを失うことはありません」
少女もまた導かれたと話す。"あの光は何だろう?" と……空に幼い手を伸ばした瞬間から、すべては始まった。
当時見た星々と同じく、命を導く彼女の旅は永久に続いていく。
「私が生まれて間もない頃。空にほとんど星はありませんでした。けれど、今では多くの輝きが灯っております。本当に、数えきれないほど……」
信教の理念でも、聖句でもない。告げるのはただの事実。
「世界は光で満ちつつあります」
ゆえに揺るぎなく、男の亡くした心を打つ。
どんな暗夜に浸っていても、見上げた果てには星がある。雲が天蓋を余さず覆い、闇が世界を埋め尽くそうと、これだけは変わらない。
亡くした記憶であっても、男が若き英雄たちを導いた過去は消えない。最期に闇を見て去った心が、再び瞳に光を灯す。
同時に夜空で清らかな風吹き……暗雲を押し流した。
男は不動に瞬く橙の星を見た。
夜を駆ける白金の流星を見た。
男が口にした"星の名"も少女には理解できない。しかし、彼が救われたことはわかった。
満ち足りて微笑み、瞳閉じゆくのを……修道女は止めなかった。万人の幸福を願う彼女が、ここにある"幸せ"を壊すことなど、できやしない。
男が安らかに眠るまで……
不死者"聖女"は沈黙を守った。