貧困層街
***
体温の残る布団を放り、立ち上がる。
寝ている最中、布団に潜り込もうとした阿呆を蹴り飛ばした気がするが、まあ大丈夫だろう。そんな柔な人間ではない。
まだ寝ている衛利をそのままに服を着こむと昨日準備しておいたパンとワインを持ち上げる。
「衛利」
「はーい。おきますよー」
一声かければ衛利もすぐに起きた。
暗殺稼業に手を染めるものとしては当然だがな。衛利はだらしなく修道服を着崩して寝ていたようだが、皺になるだろう、せめて脱いでから寝てほしかった。
確かに代わりに着るものもないが、別段今の俺たちは性別的な問題はないのだから関係もない。
「皺を治しておけよ。そんな状態で出歩くわけにはいかない」
「分かりましたー、面倒ですけどやっておきます。ところでハシン、寝ている時に何かを吹っ飛ばした憶え、ありません?」
両手で袋を持ち、フードを軽く被ると演技の仮面を被って衛利に向き直った。
「さて、私は何も知りません。さあ行きますよ、マルガレア様」
まあ、嘘なのだが。
***
「正門の反対側のスラム………やはり治安が悪いですねぇ」
「それでも神の使徒たる私たちを急に襲ったりする輩は少ないですよ。仮にそういうものがいても最初はきちんと話し合いからにしてくださいね、マルガレア様。実力行使は最終手段です」
「もちろんわかっていますよ、私は心優しい修道女ですから」
この演技を続けている以上、まずは神の偉大な言葉という力とやらで対処することが求められる。
ペンは剣よりも強しという法則があるのも理解はしているが結局のところそれも時と場合によりけりだ。戦争の真っ最中にペン一つ持って敵軍に飛び込んだ所で文字一つ書けずに死ぬだけだろう。
いや、時と場合と所属する勢力によりけり、か。
「あの広間がちょうどいいでしょう。では、慈善活動を開始しますよ」
実際は慈善活動という名の諜報活動なのだが。
名目は大事だ、これによって無理を道理に落とすことが出来るのだから。俺と衛利で分担して持ってきたパンとワインを足元へ降ろし、懐からあの狸神父から借りた小さなベルを取り出す。
なるべく広範囲に聞こえるように高く持ち、数度鳴らすとすぐに仕舞い、これまた借り物である数個の銀製のグラスにワインを注いだ。
「神の御名のもとに、皆様に加護を。これは我らが主からの贈り物です」
少しは柔和な印象というものを与えておいた方が良いだろう。グラスと切り分けたパンを手にして小さく、けれどしっかりと表情が見えるようにスラム街の簡易的な広場のあちらこちらからこちらを覗き見る視線に笑いかけた。
スラム街というものはどこも大して雰囲気に大差はない。そして足りないものにも大差はない。
―――常にこの貧民街には金がなく、食い物がなく、飲み物がない。
喧騒と退廃と堕落と諦念と性病に塗れた、しかし人の集まる土地。
「どうぞ、幼き子。ワインは飲めますか?」
「………ぅ」
警戒心を露わにしつつも欲しい物は欲しい。そういう目をしている子供が俺たちの前に現れ、切り分けたパンを手にした。慎重に口に含むと何度か咀嚼し、銀杯のワインも飲み干すと少しだけ苦そうな表情を浮かべた。
「ふふ、まだ子供には早かったでしょうか」
「………お前も大して変わんねぇだろ………」
「ぷふっ―――いっ!?」
一瞬だけ俺の足がブレて小さく鈍い音が鳴った。このスラム街の子供たちにそれを認識できる目も耳もないだろうがな。
足のあたりを少し気にしている衛利ににっこりと微笑み、問いかける。
「あら、マルガレア様どうしましたか」
「あ、はは。なんでもありませんよ?」
この子供も子供で随分と失礼な口ではあるが、ここは堪えるとしよう。重要な情報源だ。どうでもいいやり取りで他の人間にまでいらぬ警戒心を与えては困る。
時として情報は黄金にも勝るのだ。戦をするならばまず知ることから始めなければな。ほら、孫子も言っていただろう。
敵を知り、己を知れば百戦あやうからず、だったか。
「お友達もご一緒に。流石に一人一切れが限界なのですが」
「神の救いも早い者勝ちですよ~、急いでください」
「………マルガレア様、言葉を控えてください」
「ここで言葉を取り繕っても無意味ですよ、ハ………アガタ。己で救いの手を掴まない限り救いなんて訪れないのですから」
ふむ、それも道理か。
本職の神官でも無し、神についての談義などする気もなかったが確かに神の手も無限では無かろう。
己で掴むことすらしないのであればそれは当然切り捨てられても仕方のないことだ。
「儂にも恵んでくれますかな、幼い修道女様」
「ええ、もちろんです。幼いという言葉は遠慮していただきたいですが」
「これは失礼しました」
足が悪いのか杖を使いながら、半身を引きずるようにして歩いてきた老人にもパンとワインを与えてから、身体を支えつつそういえばという体で質問を投げかけた。
ここからが本題だ。出費はしたのだから、その分意味のある情報を手に入れねばな。
「最近このあたりで何か変わったことはありませんでしたか?何かあれば、ええ。神の光を届けなければなりませんから」
「何か………と言われましても私はこのように足の悪い身ですからな」
「いえ、問い詰めているわけでは無いのです。困っていることがあればお聞きしたいだけですから。私共もあまりこの街に長く滞在はしませんので、そのうちにできることはしたいのです」
「そうでしたか、若いというのに見事な心意気です」
笑顔を弱くし、軽く頭を下げる。
「ふむ、オルア。そういえばお前何か困ったことがあるとか言っていなかったかな」
「んぐ、もぐ………え、なに爺?」
「困ったことだ。何かあって儂の所に来ていたではないか」
オルアという名で呼ばれたのはくすんだ金髪を持つ少年だった。一心不乱に一切れしかないパンを咀嚼すると、水代わりにワインを飲んで喉を潤してからようやくこちらへとやってきた。
スラム街の民への慈善活動を衛利に任せると、爺と呼ばれた老人とオルアに話を聞く。
「困ったことねぇー、あ、そうだよ。なんか最近スラムの東あたりが臭ってくるんだよねぇ」
「東か?スラム街の東には………墓地があるな。なんだ、墓荒らしでも出たのか?」
「墓荒らしですか?」
「いやいや、ただの儂の推測です。スラム街の東………街から見れば北東には街の住民の共同墓地があるのですよ」
「なるほど。スラム街からはそんなに近いのですか?」
「直近にあるわけでは無いですがね。どちらかといえば郊外の連中の方が近いでしょう。………街の中の人間は儂らスラムの人間を嫌っていますから。共同墓地には我らの墓はありません。我らの屍は人知れず消えていくものです」
「………そうですか。つまり共同墓地は街の人間専用の物なのですね。それは悲しいことです、きちんと弔わなければ最後の日に救われることすらできないでしょうに」
それにしても―――この老人、随分と教養があるな。
言葉も滑らかでつまることがない。単純にスラム出身の老人というわけではなさそうだが。
今回の暗殺に関係こそないだろうが、こういう人間がいるというのは勉強になるな。貧者の中に潜む賢者か。これからの暗殺の中でもそういう人間には警戒をしつつ、利用できるタイミングでは利用していくことが必要だろう。
「ゾンビだよゾンビー!死者が生き返ったんだ!」
「そんなことがあるものか。そもそも神に仕える修道女の前で何ということを………申し訳ありません、アガタ様」
「いえ。気にしてはいませんよ。神の教えは大事ですがそれだけではないということを私たちは知っていますから。………それよりオルアさん、なぜその、ゾンビ?だと」
「ゾンビって変な粉で作るんでしょ?なら郊外でそういうの見た!」
「砂糖やら塩ではないのか」
「うーん、分かんない!」
ゾンビ、か。眉唾な話だと笑うには早計が過ぎる。いや、むしろ俺の想定した通りのことを秘薬の王が行っているのであれば、そのように見えることもあるだろう。
―――なるほど、あの狸神父が郊外ではなくスラム街を調べろと言ってきたのはそれが原因か。
街の立地的に共同墓地に行きやすいのは郊外だ。ならば郊外は既に汚染されており、情報を一切開示してくれない可能性の方が高い。
手間を予め排除してくれたのはありがたいがな。益々狸だという印象が深まった。
「なるほど。困っていることは異臭、それだけなのですか?」
「ううん。あとはね、郊外の友達が言ってたんだけど、最近いなくなる人が多いんだって。出かけたまま帰ってこないらしいよ?」
「郊外は商家の連中の土地だ、行商に出かけたのではないのか?」
「それにしても遅いんだってさ。分かんないけどね」
「………分かりました。神父様に掛け合って行方が分からなくなった方々についても探してみましょう。すいません持参した食べ物ももう尽きてしまったようですので、今日はここまでで戻らせていただきますね」
衛利の方を振り返れば、数人の子供に囲まれ、いつも通り悪戯好きそうな笑みを浮かべている姿が見える。
随分と懐かれたようだな。
「マルガレア様。今日はもう」
「はい。そうしましょう。では皆さん、また機会があれば、です」
「え~!もう帰っちゃうの?」
「また明日来るよなー!?」
「どうでしょうか?アガタ、どうですか?」
「何とも言えません。いつ発つかもわからぬ身ですからね」
「ぶぅ~!!」
まだごねる子供の頭を撫でると、手早く銀杯や空になった袋を集める。
「今は我儘を言ってはいけません。強い男になるのでしたら言うタイミングというものがあるのですよ」
「………はーい」
「あはっ!では―――バイバイです」
老人と子供たちに頭を下げ、俺たちはスラム街を後にする。
………収穫は十分だ。