老齢神父
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「立派な教会ですね」
「所々確かに傷が目立ちますけど、地方や田舎の物に比べればマシですねぇ」
巡礼衣の下からパライアス王国では普通の建築方式である石を積んで作られた教会を見上げる。
正面に両開きの大扉があり、建物自体の高さは装飾である塔まで含めれば十五メートルほどにもなるだろうか。
全て人力で作っているこの時代にしては余程気合いの入った作りだ。
もちろん城や砦なども人力ではあるが、あれらは基本装飾は薄いからな。王の済む城は別として。
「では巡礼を済ませましょうか」
「………本気でやっていくんですねぇ」
「ええ。当たり前です」
若干嫌そうな衛利の手を引き、教会の中へと足を踏み入れる。
重い扉の感触を感じつつ、静かに凛とした気配を漂わせる室内へと入ると奥の教壇で十字が描かれた本………恐らくは聖書を携えた老齢の神父と目が合った。
背筋の伸びた身体にきっちりと黒色のカソックを着込んだその老人は、加齢による白髪を短く刈り込んでおり、見た目の割に老いを感じさせなかった。
軽く見上げ、そっと目礼をすると、一旦椅子へと腰を下ろして小さく祈りの言葉を唱える。
「アガタ、アガタ。随分と人が少ないですねぇ」
「そうですね。これほど大きな教会となればもっと多くてもいいでしょうに」
衛利は察したか。何故俺がわざわざこの教会に来たのかを。
立地は知った。それ故に本来ならば教会にまで実際に訪れる必要はなかったのだが、道中で聞いた男たちの言葉などをみるに、今の教会の現状も知っておいた方が良いと思ったのだ。
心の荒んだ民衆は最後には神になど頼らない。
神がくれるものなど所詮は言葉と教えだけだ。人の営みを都合よく回すにはあった方が良い物ではあるが、生活が苦しくなればなるほどに、そしてその苦しみが人の生活圏全体に蔓延すればするほどに人の心は神から離れ、暴力や略奪という現実的な力に頼るようになる。
しかし、そういった性質は街の中の本質的な現状を知るには実に役に立つ。
この教会に訪れる人間の少なさこそが、今のこの街の縮図だ。
「旅のお方ですかな。ようこそ、メービスの教会へ」
「神父様。ええ、私たちは長い旅を続けてきたものです。………この教会は随分と立派な見た目ですのに、訪れる人があまりいらっしゃらないのですね」
「ほほ、時代が進むにつれ人は神の奇跡よりも医術などに頼るようになりましたからな。教会の力が強いこのパライアスでもその流れには逆らえません」
「………でも神聖術がこの国にはありますよね?」
「それを行えるものは殆どが王都に集められます。大都市ですら、その恩恵にあずかれるものは少ないのですよ」
老齢の神父の目が俺たちをじっと眺める。
「ですが、ここ最近は特に人の減りが顕著ですね。それは事実です」
「なるほど。街に何かあったのでしょうか。戦争などでも始まるのですか?」
「いいえ。戦争の気配は感じませんね。………詳しく知りたいのであれば壁の外のスラム街などを調べれば、或いは」
「そうですか。―――ああ、そうだ。神父様、このあたりで宿屋などの心当たりはありますか?長旅で疲れているので、出来れば静かなところがよいのですが」
「ふむ。静かな宿屋に心当たりはありませんが、もしよければこの教会の奥にある小屋を使うといいでしょう。広くはありませんが布団はありますよ。それでは私はこれで。これから訪問しなければならない家がありますので」
「ありがたく使わせていただきます。神のご加護があらんことを」
深く腰を曲げて礼をした神父は、俺たちを残して扉を開けて出ていった。
………その神父のカソックの首元に、一条鋭い切り傷があるのが見えた。
「スラム街に行けってことですかねぇ?」
「だろうな。………ふ、狸が」
「私たちの正体に気が付いたのでしょうか」
「詳しくは知らんだろうが、ただの信者ではないとは思っていただろう。そうでなければ巡礼者にスラム街など紹介するものか」
恐らくは元軍人、か。
俺たちのような暗殺者とも戦ったことがあるのであれば、経験則から正体を察することも出来るだろう。
これが変装に特化したミリィであったのであれば経験を積んだ軍人を以ってしても正体を看破することはできなかっただろうが、現在の俺の実力では精々ただの兵士や民衆をだます程度だ。
なんにせよ敵対することにはならなくて良かったが。
「いや。軍人として見ても、神父として見ても秘薬の王という存在は邪魔でしかない。敵対する道自体がないか」
ようは何でもいいから始末しろ、というわけだ。使えるものは巧く使う、それだけのことなのだろう。
実にいい考えだ、都合のいい関係というやつである。
互いに干渉しないが、各々の勝手な行動によって結果的に双方が得をする。ああ、個人的にもその方がやり易い。
「行くぞ衛利。もう変装は終わりだ、拠点も手に入った以上自由に動ける」
「やっとですかー!いやあ、窮屈な格好をようやくやめられます」
「街を出るときはまたその格好をするがな」
「………えぇ~」
演技の仮面を被りなおすと、椅子から立ち上がり教会を出る。
「まずは貸して頂いた小屋を見ることにしましょうか」
***
「ほう。意外と広いな。しかもある程度ではあるが手入れされている」
埃溜まり具合的に数か月に一度はきちんと掃除しているのだろう。
狸神父から借りたこの小屋は、教会が持っている敷地の奥にあるものであり、普段は外から見える大教会の陰に隠れてその存在が分からない。
まあ、元より街の入り口の反対、壁の間際にある大教会の奥となれば壁と教会双方の陰に常に隠れていることになるので日差しが当たらず、普段から住むとなれば最悪の環境なのだが、暗殺者がひとまずの拠点とするには最適だ。
………とはいえ。あの神父、この小屋を使ってないのは単純にここには住みたくないからなのではないか。まあ、いい。
「衛利、まだ染料は落とすな。それを付けなおすのは面倒だ」
「はーい。さて、こうして拠点を手に入れたわけですがどうしますか?神父の言う通りスラム街に行きます?それとも―――もう殺しに行きますか?」
「王がどこにいるのかが分からないだろう。今すぐには不可能だ」
「屋敷にいるのでは?」
「………キャラバンサライの地下に秘密裏に通路や基地を作るほどの慎重さだ。屋敷を訪れはするだろうが常にいるとは考えにくい」
今の屋敷の増築は今後ここを拠点に己の国を作る際、目立つ城とするためのものだろう。
即ち居城の製作。しかし、完全に完成し、そして権力全てを己に集めるまでは秘薬の王という人間も所詮は領主などを誑かす罪人でしかない。
勝てば官軍負ければ賊軍。下準備を重ね官軍になるために、今の罪人の立場で裁かれるわけにはいかないと考える筈だ。
ならば普段は別の場所に身を潜めていると考えるのが自然である。
「ということは神父の言うスラム街に潜んでいるのでしょうか?」
「さて。それも考えにくいとは思うが」
スラム街は壁の外だと神父は確かに言っていた。ならば街の屋敷を訪れるには一々街の門を潜らなければならないわけになる。
移動するということは隙を作るということである。
自らを世に露出させればさせるほど、暗殺される可能性は高まるということだ。あの男がそんなことをするかといえば首をかしげるところだろう。
あいつは行動を見るに、どちらかといえば空へと昇る昇竜ではなく地下の好きな土竜だ。何事を為すにもまず潜り込む傾向がある。
………恐らく今回もそういう行動をしているはずだ。
いや、これ以上は考えても無駄だろう。実際に調べた方が速い。小屋に訪れる前に買っておいたパンとワインを袋に詰め込むと、巡礼者の服を脱ぎ去った。
「衛利。今日はここまでだ。これ以上の活動はできない」
「もう休んでいいってことですね?」
「ああ。長旅をしてきた巡礼者が活発に活動をするのは異常だからな」
人間には無尽蔵な体力など存在しない。普通の人間の一日における移動距離は四十キロが限界と言われている以上、長い距離を移動してきた巡礼者が疲れを見せずに活動するのは目立ちすぎるのだ。
よってスラム街に行くのは明日の方が良い。
「分かっているとは思うが外には出るな」
「出ませんよ、面倒ですから」
下着姿になり、肌の染料が落ちていないことを確認する。
この時代の旅人の下着は飾り気のない小さなパンツのみだ。上裸だが衛利しかいないのでいいだろう。
ふむ。見てみるに問題はなさそうだ。
まだこの姿で活動を続けなければならないからな。やれやれ、白い肌で居続ける努力をする日が来るとは思わなかった。
濡れなければ擦れても色は落ちない。邪魔臭い巡礼服はそのまま置いておき、さっさと薄っぺらい布団に包まることにした。
「あれ、もう寝るんですか?」
「寝るわけでは無い。じっとしているだけだ」
「………本当に根っからの暗殺者気質ですねえ。よくそんなに静かにしていられるものです」
俺から言わせればお前ほど隠密に向かない暗殺者もいないと思うがな。
まあその言葉はとりあえず心だけに置いておき、静かに目を閉じた。
………衛利がどこから持ち込んだのかもわからない本の頁をめくる音を聞きながら。