暗殺対象
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「さて」
身に纏った奴隷服を放り捨てる。
ただの奴隷を演じるために一度川で身を清めたにせよ、結局は長い帰りの道でじっとりと汗をかいてしまっているからな、ゆっくりと汗を流したい。
考え事をするにも最適な時間となるだろう。
机の上に、暗殺衣と共に置いてある幾つかの書類と薬品。それを見ながら、俺は簡素な風呂場へと向かった。
「どう取り掛かるか」
攻め筋をどうするか、まずはそこからだ。
今回の仕事で戦争の火種は消すことができたが、根本そのものをどうにかできたわけではない。
……恐らく、このまま放っておけば必ずまたどこかで同じようなことが発生するだろうな。
大本となっている原因を排除しない限りは永遠に繰り返す。故に、俺はこの仕事はまだ終わっていないと定義する。
フェアガーゼン・キングス。その名を持つ組織をこの世から消滅させなければならない。
否、名前だけではない。その理念、その意志、その在り方。そして蓄えた知識まで含めた何もかも。
「誰を、何を殺すのか―――か」
暗殺者にとっての暗殺対象は常に一定ではない。時と場合によって変動するのだ。
当然それは、金を多く払われたから最初の依頼者の方を殺す、などと言ったくだらない意味ではなく、自身の立ち位置を以って殺す殺さないを判別しなければならないという事である。
ちなみに、依頼者の乗り換えや報酬の二重受け取りは暗殺者の中において最低の行為とされ、もしもそれが発覚すれば他の暗殺者からの忍び寄る手が襲い掛かることになる。
まあ、そもそもとしてそんな暗殺者は仕事がもらえず、稼ぐ手段を失うのだから自然消滅するのだが。
裏切りが一度でもあった人間を完全に信用することなど有り得るか、ということだ。
単純に身の潔白を証明できず死んだ者もまあ、少なくはなさそうだがな。
「俺の立ち位置は、ただの一介の暗殺者。しかし……波乱を、火種を放置しておくことはできないか」
それすら放置し、放棄したのであれば暗殺者とはただの殺しだけが取り柄の無法者になってしまう。
歪なものであっても、暗殺者は自らに課した規則だけは守らねばらならないのだ。
いや、こればかりは暗殺者だけではないか。全ての人間は、自らの定めたルールによって生きているのだから。
それを破っても人でいられるかどうかの、そうだな―――”遊び”が多いかどうかである。
騎士であっても暗殺者であっても、そして忍者であっても、命を奪うものは普通の人間よりもその遊びが非常に少ない。当たり前ではあるが。
「ん。……ん」
―――忍者。
そして、隊商……?
冷たい水が肌を滑る。その冷たさに思考もよく回ったのだろうか、一ついい方法が思い浮かんだ。
真に殺すべき相手を突き止め、そして戦力も手に入る一石二鳥の手段を。
「やはり風呂場はいい。思考が冴える」
ま鏡に映った自分の姿を否応にも見てしまう、という欠陥はあるがな。
まあ、今更か。この身体にも慣れてきた。
***
「フェアガーゼンの薬学書、ですか」
「少々前の本らしい。何の本かといえば、面白いことに見本書ときた」
つまり、取り扱っている薬品の一覧。
これはあの坑道の奥で投薬兵の攻撃を掻い潜りつつ手に入れてきた物品の一つなのだが、長い事置いてあったのだろうか土を被り、埃で汚れていた。
キャラバンサライのあの隠し坑道は、ここ最近作られたものではなかった。あの場所自体は古くからあったのだ。
何のためか。まさかただの隊商宿のシェルターなどというわけでもないだろう。
……鉄格子に、あまりにも整えられた環境。あれらを作るには相当な時間と労力、そして権力が必要になるはずだ。
地下に広がる、秘密の薬品製造工場。その正体はさらに他の物品を見れば判別することができる。
「フェアガーゼンの納品書……この宛先がパライアス王国の国軍ときた」
「おや、書体が違いますね。そもそも名前自体が異なりますし。……フェアガーゼンと、フェアガーゼン・キングス―――成程」
「は、組織の離反とかまさに阿呆さね」
ハーサのその言葉が、正体そのものだった。
そう、かつての組織、フェアガーゼンそのものは、ただのパライアス王国の傘下組織―――しかし、長い時間が経ったのだろう、徐々に組織の中に独立志向が芽生え始め、それを御する気すらなかったのか、或いはこの組織に望んでいた結果はとっくに達成されていて放棄していたのか……いずれにせよ、この組織は名前を変え、かつての親組織に牙を剥いた。
否、その牙は親だけではなく、全ての対象に対して威嚇をしていたのだが。
「パライアス王国の地下組織だった時代に積み重ねたノウハウと人員を扇動して戦争の火種となった愚か者ども。それこそが、今回の暗殺対象というわけだ」
「少なくとも人を煽り立てる才能だけは本物さね。ハ、下らん」
やる気がなくなったのかハーサは床に寝ころぶと、自分はもう関係ないとばかりに机を足で押しのけた。
……おい、机を押すな、阿呆。
「ハーサ、放っておいていいわけがないでしょう。またやりますよ、この馬鹿者どもは。―――どうやらこのフェアガーゼン・キングスの組織人員はその殆どがフィグラウド公国の人間らしいですから」
「ほう?どれ……」
ミリィが差し出し、開いたのは日記だった。
キャラバンサライの兵士のものではなく、地下坑道のものである。
俺が自分で持ってきた物品だが、これは日記だったのか。俺には読めない文字であったため何かの暗号かと思っていたが。
「いやまて。フィグラウド公国とは?」
「ハシンは知らないでしょうね。今はもうこの世に存在しない国ですから」
「公用語も失われているからな、この言語を主体にして使う人間もほとんどいないさね」
そんな言語を簡単に読んでいる風なのは、流石”長老たち”というべきか。
「国を失い、土地を失い、人権を失った、単なる巨大な一民族という訳か。なるほど、それは―――厄介だな」
有体にいえば、彼らは何をするかわからない。
……しかも国家という枠組みが存在しないため、それを咎めることもできない。
彼らにとってはそれがいいことなのかどうかは別として。
「ま、どちらにしても私にはどうでもいい事さね。放っておけば傭兵になるか移民として他の国家に溶けるかだからな」
「そうなるのは何百年後の話だと思っている。そうして消えるまで、また同じように利用され続け、その尻拭いを何度もする羽目になるのだぞ」
「それが答えだろう、ハシン?今回の黒幕を排しても、二匹目三匹目が生まれるだけさね。どうやっても火種は生まれる、ならここで始末しようが放っておこうが大差はない」
成程。それも一つの真理か。業腹だが、納得もできる。……だが。
「火種が大火になるのは流石に放っておけない」
なにせ、そこまで膨れ上がった炎は―――手で振り払えないからな。
まだ降りかかる火の粉であるうちに消しておくに限る。
「そう思うのならば、そう動けばいいさね。それが暗殺者だ」
「言われなくてもそうするつもりだ」
薄く笑うハーサに真顔で返す。
この問答もこいつの掌の上か。まあいい、乗ってやろう。
どちらにせよ俺がする行動は変わらないのだから。
「では私も―――」
「ミリィ。新しい仕事さね」
「……は?貴女一人で行けば……ああ、なるほど」
そんなやり取りを尻目に、準備を整える。
なに、最早特別な装備も準備も不要だ。ただ殺しに行く、それだけでいい。
「誰を、何を殺すのか。殺すべきなのか。理解したか、ハシン」
「ああ」
背中に投げかけられた言葉にそう返し、家を後にする。
短い帰省だったが、身体は休まり、情報も整理できた。気力体力共に十分だろう。
さて、では。まずはあそこに向かうとするか。……俺が殺すべき敵を仕留めるために。
―――さあ、最後の締めと行こう。