野宿準備
***
―――隊商は道を歩み、夕暮れが近づいてきた。
ここまでの道中はたいした障害もなく、悪天候や気まぐれな砂嵐などに遭遇することもなく順調に進めた。
「……さぁて。ちっと冷えてきたなぁ―――どうすっか」
「……。……」
横で地図を広げ始めたサクル老人。
一緒にその地図をのぞき込みつつ、この後の算段を巡らせる。
……移動に掛けられる時間は、せいぜい多めに見積もっても一日と少し程度だろう。
出発前、あの試験の前にハーサは一日と半分程度時間がかかるといっていたが、先に出立していた以上その言葉は当てにはならない。
故に、少々短めに思って置き、計算をする。
さて、この分だとどうだろうか。そう自問すれば、返って来たのは……間に合うかどうか微妙、と言えるだろうという答えだった。
「…………」
その理由は決して隊商のせいではないが。
単純明快に、俺が道のりを把握できていないためだ。即ちは、経験の不足。
行軍するにあたってここまで知識が必要だとは思わなかったな。
確かに、ただ歩くだけにも膨大な知識がいる。
山を越えるには自らの限界を図ることが必須であるし、危険な箇所やいざという時に身を隠せる場所など、知っておかなければ即座に命を落とすような事象も無数にあるのだから。
旅人は無知であることはあり得ない……ということか。
誰にも助けられず、自らしか頼れない状況では身体は必要な情報を全て取り込もうとする。
それは知識となり、力となり―――己を助けるのだろう。
「っし、決めた。嬢ちゃん、急いでるとこ悪いが、そろそろ野宿の準備に入らせてもらうぜ」
「はい。てつだい、ます」
地図を見ていたのは場所を確認するためだな。
何気なく覗いたサクル老人の地図は、厳密には周辺国家が商人に卸した公認地図ではなく、商人たちが自ら歩いてさらなる情報を継ぎ足した、自作の商用地図だ。
それはただ地名や簡単な道、方角のみが書かれている国の地図よりもずっと細かく情報が書き込まれており、例えば―――どこの場所に盗賊の集団のねぐらがあり、何処で野営するのが一番か、或いは地域ごとの気候特徴からはじき出した、野宿をするときなどの具体的な注意点が記されていたりする。
この地図を商人たちは高値で取引するのだ。
道を知るということは、生命を繋ぐこと。一つの林檎よりも情報に金を積むのは、旅をする行商人の性である。
「そりゃ助かる。……さて」
一息置くと、サクル老人は胸元にぶら下がっている大きめの笛を取り、二回、吹き鳴らした。
高い、鳥の声のような遠くまで響く音が後続の隊商まで合図を伝える。
そして、先頭の荷車……つまり俺たちが乗る荷車は徐々に速度を落とし、隊商全体動きが緩やかになっていく。
「まあ、ここなら良いだろうな」
「丘の、下。はい、守り、堅いです」
「嬢ちゃんのお墨付きなら安心だな」
野宿のしやすい地形……つまり、背後を取られにくく、風を除けられ、敵を発見しやすい場所を探して進むこと十数分程度。
サクル老人が納得できる場所を見つけると、もう一度笛を加え、また二回吹き鳴らす。
もともと緩やかだった隊商の歩み。それがさらに遅くなり、先頭荷車が停止すると、一緒にすべての荷車が停止した。
「よし、じゃあ手伝ってくれや。―――ハバル!火を熾せ!!」
「了解、親爺!」
ゆっくりと荷車を降りたサクル老人に続いて、俺も荷車を降りる。
その前に、ちらりと荷車の中の台の上に置かれたままの地図に目を向ける。
……リマーハリシア辺境から続く主要な道が、この周辺辺りで切れていた。
それも当然だ。
なぜなら、この先は―――パライアス王国の領域になるのだから。
「……戦争中、でした、ね」
この時代、国と国の境目には道は作られにくい。
商用地図を見るに、パライアス王国は首都周辺から周辺都市への街道整備は行き届いているようだが……それでも敵国との境にまで道を整備しようとは思わないだろう。
道の整備はもちろん、その維持に至るまで莫大な金がかかるためだ。
「つまり、野宿するには、ここが、限界、距離……です、か」
――俺のために隊商を速めに動かしてくれているのだろう。
口には出していないが、鑑識眼を持つサクル老人は、俺が急いでいることを見抜いている。
故に、この位置で野宿することを許容してくれたのだ。
国と国の境目は、戦時最前線である、軍事境界線でもない限りは双方の自治の届きにくい場所。
つまり、治安は最低だ。街もなく、軍隊もほとんど通らず、歩むのは旅人ばかり―――そして、そこを狙うのは、ハイエナの如き盗賊たち。
まさに危険地帯だが、それでもこの周辺を夜に進むよりは、まだ野宿した方がいい。
夜の行軍は、生きる者少ない砂漠だからこそできること。人の住まうことのできる土地では、夜に隊商が進めば獲物が寄ってきたようなものだ。
「仕事は、果たし、ます」
何もないことが一番だが、さて。
そう上手くはいかないということはこのセカイに来て嫌というほど身に染みている。
精々与えられた仕事を果たすとしよう。
なに……正当防衛なら全力で殺しに行けるからな。大分気が楽というものだ。
この思考自体がまさにフラグ、だが得てして現実というものはそう言うものだしな。
「テント設置、手伝い、ましょう、か」
サクル老人にあまり重い物を持たせては悪い。
あれほどの傑物なれど、俺よりもずっと年上の翁であることは事実だ。
早く手伝わなければな。
やや駆け足でサクル老人たちの元へと向かったのだった。
―――腰の得物、クファンジャルを確認しつつ。
***
「……なんで、調理。私、している、のです、か」
ハバルの熾した焚火の上に、数本の鉄棒を組んで積み上げた鍋がぶら下がっていた。
俺はその鍋に味付けをして、かき混ぜ焦げないようにし、またつまみ食いするものがいないかを見張る役を担っていた。
……この見た目故か、テント設営を手伝おうとしたら全力で断られたのだ。
マキシムとは全く別の方向性だが、完全に女扱いされたのはなんだかんだで久しぶりである。
ハーサは俺の元が男であるということは知っているし、ミリィは俺が女扱いされるのを苦手に思っていることを察して、性別云々の前にまず暗殺者として扱ってくれている。
リナとは友人関係であるし……衛利は。
―――衛利はまあ、性別自体感じるような仲でもない。
とまあ、久々のこの扱いは、俺の精神面を短時間ではあるがそれなりに波立たせたのだ。
それでも仕事はする。ミリィから叩き込まれた調理技術を、状況に応じて使用して、最適なものを作り出す。
「ちょっと味見してもいいかしら?」
「……。つまみ食い、だめ、です」
「あら、残念。おいしそうな香りだったから」
先ほどから、背後から感じていた視線。
それは、昼間から何気なく隊商に紛れ込んでいた二人組のうちの一人……女性の吟遊詩人であった。
声はやや高く透き通っており――確かに、詠えば良い声になるのだろう。
生憎と歌に対しての理解は少ないため詳しくは分からないが。
「私もみんなを手伝おうとしたんだけど、断られちゃって。こっち見てやれって言われてきたの」
「そう、ですか。確かに女性、あの荷物は、大変、思う、です」
「アレドロの方は……あ、芸人の男なんだけどね。彼はいろんなところに駆り出されているわ。彼、器用だから」
芸人の方はアレドロという名前なのか。
……さっきからずっと背後を見られていたために、ややこの女性に対して警戒をしているが――敵意は一切感じない。
そもそも俺を見ている時だってまるわかり……というより、振り向けばすぐ見える距離で見続けられていただけだ。
よって、戦闘面では何も恐ろしくないが……この女性には俺の苦手そうな気配を感じている。
なるべくは近くにいてほしくないのだがな。
そう思うも虚しく、女性は俺の隣に座り始めた。
「ハシンちゃんっていうのね。私はイーリア。吟遊詩人をやっているの――よろしくね?」
「…………。ええ。短い期間、ですが。よろしく、です」