遁走開始
体術の基礎こそは習っているが、こいつと殺り合えるかといわれればノー……それが現実だ。
現在の多角的方面の攻撃も、普通に攻めに言ったのでは俺の方が自分のナイフで獲られる事態になりかねない。
だが――何度も言うが。
今回……地の利は俺にある……ッ!!
「ふむ。単調な飛び込みじゃあ私には通用しないぞ?」
針を取り出しながら走り始める。
走るというほどの距離もないがな。
暗殺者には短い距離でどれだけ加速できるかという技術も必要になる。それに関しては、前回の潜入などで衛利の動きを見たこともあり、高い水準で獲得できている。
最大限利用するとしよう。俺たちは周囲のすべてが武器なのだから。
ナイフがハーサのもとに巻き戻るまで数秒……。
決定的な一手にするには、その数秒の間に条件を達成しなければならない。
「単調な飛び込み……?阿呆かお前は」
足元をよく見ることだな。
「――なるほど!」
もう少しだけ気付くのが遅かったら、とっくに一手決められていただろうが……流石、頭の回転が速い。
手損の隙など与えてはくれないか。
飛び込みつつ、数回拳を振るう。
取り出した針は投げるのはなく、指間に挟むことで、刺突武器として使用している。
残りは八本、そのうち手に出したて三本。つまり残りは五本……無駄遣いはできない。
「ほら、胴ががら空きになるぞ?」
仮にも傷をつける可能性がある針を持つ拳を、一切の躊躇なく素手で受け流すハーサ。
ナイフで防がなかったのは、ナイフを振るう際の一瞬の隙に針を打ち込まれるのを防ぐためか。
プロほど、そういったギリギリの可能性というのを省こうとするからな。
だが、拳だからと侮ってはいけない。その拳撃、まるで流水の如く……だ。
ハーサの身体の外側に簡単に拳が誘導される。
そのまま流れに身を任せれば、簡単に体勢を崩されてしまう……そうなれば早撃ちのようにナイフを抜かれ、終わりだ。
そのまえに腕を引き戻して対応するが、これは確実に後手に回るか。
舌打ちを一つ。ここで一秒以上も使ってはいられない。
「お前こそ、足元が疎かじゃないのか?」
勢いよくしゃがみ、右足払い。
これは裸足の足裏で、とがった石を掴みながらだ。
当たれば傷を負うため、避けざるを得ないはずだが……。
ガシッ――。
……なに…………!?。
「――ィ……足の筋力も怪物か……!」
ふくらはぎを、足の裏で押さえつけれられた。
体格差の結果、ハーサの足の裏は俺のふくらはぎの半分以上あるとはいえ……普通、そんな掴み方ができるか……!
――いや、落ち着け。
かつての神話の勇士には、足の裏で槍を持ち投擲した英雄もいるという。
前例在り……ならば、この程度で気持ちを揺らすことは許されない。
「お前のナイフが戻るまで、あと三秒ってところだな」
「―――ッ!!」
足の形状的に、力を籠める反対方向へ押さえつけるのは難しい。
本当はここで使いたくなかったが、しかたあるまい。
奥の手……スネアトラップをボルダリングのホールドのように使い、力の軸として俺の身体を回転させる。
ぐるりと百八十度回り、足の拘束からは逃れたが……代償として、ハーサの対して背を向ける形になる。
当然、このままでは殺されるので、貴重な針を投げつける。
この距離ならば、針での対応はできない。時間稼ぎにはなるだろう。
―――ビリッ。
「一つ消えたか……」
握ったスネアトラップが破れた音がした。
草を束ねたスネアトラップは、簡単に作れるブービートラップだが、その強度は意外にもあり、搦め手などに使えば効果は高い。
だが、その強度は草を束ねる繊維の方向のみしか働かず……今回のように、捩じってしまえば破れ散り、ホールドとしての使用もできなくなる。
このホールドの使用は、腕や肩の負担をしっかり気にしておけば、急な行動転換などにも使えるため、この地形での俺の最も強力な武器だったのだが。
これを利用すれば、ハーサに一撃入れることも、理想だけでは終わらなかっただろう。それゆえの足元注意だった。看破されていても、簡単に防げるものではなかったのだから。
―――だが、これで、地の利を失った。
「おっと」
ようやく身体を仰向けにしたが、見えたものは、投げた針を素手で無傷でつかみ取るハーサの姿であった。
横目でナイフの位置も確認する。位置的に、この場所に到達するまで一秒もない。
……失敗だ。
残り一秒で条件……トラップの多重設置による動きの阻害と決定打を与えることは、不可能。
冷静にそう判断する。
これ以上のこの場所での継戦は不可能であり、不効率である。
そうなれば、撤退するだけだ。
周囲に設置しておいた別のスネアトラップをホールドし、横回転の回し蹴り。
残り五本の針から一本を取り出し、牽制して足を掴まれるのを防ぐ。
愉快そうに笑うハーサは素直に距離をとった。
手を撥ね、反動で俺のナイフの方向へ下がり、キャッチする。
「ほら、やっぱりだめだったろ?」
「…………」
――悔しいが、その通り。
ここまでで、俺は貴重な暗器をただ無駄に利用し、手の内を明かしただけであった。
「で。次はどうするさね?」
「……決まっているだろう」
三十六計逃げるに如かず、だ。
足に力を籠め、全力で背後の茂みに飛び込んだ。
「逃すかよ!」
「いいや、逃げるさ」
茂みに隠してある、草の紐を切り落とす。
その紐と連動していた撥ね枝がもとの位置に戻ろうとし……勢いよく追ってくるハーサの元へ殺到した。
攻めに行くならば、逃げの手段を用意しておくのも当たり前のこと。
問題は、これがどこまで通用するか……だ。
事実、二本の撥ね枝はハーサによって一瞬で切り取られ、無力化されていた。
こいつがガンマンの早撃ちをしたならば、トップクラスの実力者であることは間違いあるまい。
それほどの速さだった。
……いや、速さだけではなく、巧さもか。
本当に無駄のない動きである。
「まだまだあるぞ」
追加でもう二本。
……この方向に設置してあるのはこれともう一本だけだ。
もう半分は、反対の方向に作りためてあった。
逃げる方向を増やすことでリスクを分散したつもりだったが……さて。
「甘いッ!」
「―――ク……」
下唇を噛む。
もはや、ナイフで切ることすらしなかった。
設置した撥ね枝のギリギリの長さを把握し――寸でで避けて見せたのだ。
……だが。
俺の下唇を噛むという仕草は、その悔しさから出たものではない。
それは、上手く行ったという歓喜から出たものだ。
「―――ッ!スネアトラップゥ……!」
ああ、ハーサの苛立ちのこもった叫びを初めて聞いたかもしれない。
とてもいい気分だ。
ハーサの足下には、枯草のスネアトラップが。
ハーサにとって脅威にはならない。だが……只々、邪魔である。
一流であるあいつは、スネアトラップに引っかかるといっても、つんのめり転ぶことはない。
その前にナイフで切るか、足で破り捨てるのだ。
―――だが、その際に一瞬だけ、必ず無駄な時間が生じるのである。
その隙に、最後の一つのトラップを切り、退散を続ける。
「……ク。ハッハッハッハ!面白いぞ、ハシン!!」
「―――それはどうも」
戦意に火をつけてしまったか。
まあそれはいい。
空を見る。……そろそろ休み時間というやつだろうさ。
ある程度距離をとったことに少しだけ安心した瞬間――小さな風切り音が聞こえた。
「…………ッ!!」
背後を振り向き、飛んでくるものを確認する。
……これは、ナイフか……!
最後の置き土産といわんばかりの全力の投擲は、俺の太ももの肌を薄く裂き、樹木に深く突き刺さった。
あれでは回収は無理か。
「それよりまずいのは出血……」
これでは――居場所が丸見えになってしまう。
……一瞬たりとも時間を無駄にしていることはできない。
残りのない糸を、血を止めることに使いきり、俺は遁走をつづけた。