書簡情報
「戻ったか」
「ああ」
「結局、身は殺さなかったか」
「心は断った。問題ないだろう」
眠ったリナを抱えて、ハーサが家の上から身軽に降りてきた。
脱力した人ひとりを抱えてここまでの軽業を当然のようにこなすとは……。
「ま、依頼は達成さね。あの様子なら、問題ないだろう」
気配的にかなり遠くにいたはずだが、こいつには見えていたのか。
達人のレベルまで言った暗殺者は、とんでもないな。
ややあきれながら、手に持った書簡を投げ渡す。
「……戦利品だ」
「ほう、情報書。いい判断さね」
何事も、情報の有無によって物事の進みやすさが変わってくる。
例えば地図。地形把握によって得られるメリットは、自身の生死を分かつほどのものだ。
そう言った意味で、重要な情報の塊であるあの書簡を持ち帰ったわけだが―――どちらにしても、こいつの目的は最初からこの書簡だろう。
俺は修行という体で雑用を代わりにやらせただけに過ぎない。
「満足か、ハーサ」
「及第点だ。さて、帰ってこれを読み解くとしようか」
「さきにリナを店に戻せ」
「当然さね」
ハーサは、完全な一般人は巻き込まないタイプだ。
それは情的なものでもなんでもなく、一般人という不確定要素を嫌っているだけの話だが。
いつ、どこで、何をするか分からないただの人は、熟練の暗殺者ですらその思考を読み切れなくなる―――らしい。
ハーサからの伝聞だ。まだ実感できているわけではない。
そこまでの経験があるわけでもないしな。
ただ……そう言う思考から、ハーサがリナを仕事に巻き込むことはほとんどないといってもいいだろう。
「……良く寝てるな」
「まあ、普通の人間が寝てる時間に起きてたわけだしな」
「連れ出したのはお前だろう……」
全く悪びれる様子もない。
さて、リナの家の前についたな。
リナをおんぶして、closeの掛札の掛かった木製の扉を開け、中に入る。
鍵はハーサがピッキング済みだ。
入った途端、微かに焼いたパンの芳ばしい香りがした。
そして、そのパンの香りの中に潜む、女の子らしい匂いも、感じる。
「ベッドはこっちか」
簡素な寝台にリナを寝かせる。
周囲を見れば、きちんと片づけられた部屋が見え、奥の店の場所には丁寧に使われているとわかる道具や、寝かせてあるパンの生地が確認できる。
……リナも、新しい人生をきちんと送ることができているようだ。
そっと頭を撫で、立ち去る。
「お。もういいのかね」
「ああ」
「そうか。またしばらくはあえんだろうが」
「問題ない」
「じゃあ、帰るさね」
書簡を手の上で遊ばせながら言うハーサにうなずく。
ともかく、これで殺人試験は終了だ。
及第点は得た。ここまでで問題はない。
……問題があるとすれば、この次だろうな。
***
「あら、お帰りなさい、ハシン。……ハーサ?後でお話があります」
「いやー、私にはないさね」
「…………」(ニッコリ)
「……不可抗力さね」
ミリィの無言の圧力に押され、ハーサはあとでミリィの説教を受けることになったようだ。
ざまあみるがいい。ちょっと胸がスッとする。
「ま、まあ食料は確保したぞ?」
「あら、おいしそうなパンですね」
ハーサが持っている袋の中身は、リナの家から少々多めの駄賃と引き換えに拝借してきたパンだ。
……俺も、リナのパンがどのような味なのか、興味があるしな。
「……が、その前に、確認さね」
パンを置き、書簡を取り出す。
小さな筒状の箱に入っている中身、二枚の紙を取り出し、机の上に広げる。
一枚は、何回か折られてから丸められているらしく、広げてみると意外と大きな紙である。
「……地図か?」
紙に描いてあるものは、いくつかの広大な大陸や、島々。そして、青色の染料で雑把に塗られた海を示す場所。
間違いなく、地図であった。
大陸の配置、国の名前、海の形状など、地球とはずいぶんと違っていたが。
「ミリィ。俺は何処のあたりにいるんだ」
リマーハリシア辺境フルグヘム……その名は覚えているが、地図を見てみると、フルグヘムはかなり広い範囲にまたがって存在しているようだ。
パライラスという国家と触れ合っている面は、全てフルグヘムだ。
……まあ、辺境伯自体が、争っている最中の国や、民族の最前線にある土地を総べる指揮官。
パライラスと接している地域がすべて辺境なのだから、フルグヘムが広いのも当然か。
「……ハーサ、細かく教えていないのですか?」
「忘れてたさね」
「全くもう……。前回も私が少しだけ教えたんですよ……?」
ミリィの気苦労がどんどんたまって行く……。
倒れないか心配なレベルだ。
家事など手伝うことにしよう。
「私たちのこの山があるところは、この地域です」
地図のフルグヘムのうち、砂漠と森林地帯の境目近くにある山に指が置かれた。
「分かりやすく旗でも置いとけ」
針の先に蒼い旗がある、よく作戦会議などで使われているあのマップピンをどこからか取り出し、ハーサが地図に刺した。
「アプリスの街がこちらですね」
リマーハリシアの首都方面へ少しだけ指を動かした場所に、もう一つ旗を指す。
「さて、もう一枚の紙には……ふむ」
「なんだ」
一緒にのぞき込む。
もう一枚は、だいたいA4程度のサイズの羊皮紙だ。
丁寧な文字で、細かく文書が綴られていた。
「納入品……」
「地図のこの線か」
地図に目を落とす。そこには、黒い矢印があり、その始点は先ほどまでいた坑道だ。
その先は、パライラスの首都のほど近い場所まで伸びていた。
……これはつまり、あの地下坑道から、なにかがこの場所へ送られたということだろう。
問題は何が送られたのか、だな。
「……ミリィ。”長老たち”に話を通せ」
「ええ。……これは、国が危ぶまれる事態になりますね……」
「何と書いてあるんだ?」
「…………こちらを」
再び納入品書に目を通す。
そこに綴られているものは――。
「……投薬兵構築資材、二十体分」
尤も目を引いたものは、それだ。
ほかにも、身体強化薬、大量の爆薬、万物融解剤等々……。
「私たちはこの国、リマーハリシアに拠点を持ってはいるが、別にこの国に忠誠があるわけでも何でもないさね。しかしだ」
「暗殺者の仕事は混乱と平穏の狭間にあるもの。大きく国同士のパワーバランスが崩れてしまえば、私たちも仕事を追われ、命すら手放す事態になりかねません」
熟練の暗殺者たちがこれほどまでに真剣になる事態。
……意外と、破滅へつながる、奈落の崖はすぐそばにあるということか。
「ふむ。なるほど―――これを、止めるということか」
「そういうことさね。……この場所から近く、すぐに行けるのは私たちと”毒蛇”だけか。―――ハシン。戦力が足りない。お前にも手伝ってもらうぞ」
「ああ」
それが俺の平穏のために必要ならば。
未熟な腕なれど、手を貸すのは当たり前だ。
ミリィが、珍しくハーサを嗜める言葉がない。
顔を向けてみると、重い表情を作っていた。
「……ハシン。これは、暗殺教団からの正式な依頼となるでしょう。報酬も当然発生しますが――危険度は今までとは比べ物になりません」
「なんせ、私たちも別働しているからな」
「やめても、いいのですよ……?」
「いや。だって――必要だろう?」
「―――……。はい」
普段は暗殺者らしく見えないミリィ。
だが、次に目を開けた時には、冷酷な表情を身にまとった、”長老たち”の名に恥じない威圧を持っていた。
―――”長老たち”も暗殺に参加する、この依頼。
より、慎重に動くことを徹底しなければいけないな。