夜街回帰
心の内ですら、お前に礼などいってやらない。
やや顔を背けながら、ハーサの後を追っていった。
***
それはそれとして、走り出してからまたしばらくたったわけだが。
街は遠いのだろうか。
もし街に何かあったりした際に、対応しやすくするためにもどれほどの距離なのかは知っておく必要がある。
「ハーサ、距離は」
「半刻ほどさね」
おおよそ三十分。
走ってということは、実際はもっと時間がかかるわけか。
後ろを振り返る。
今俺たちが走っている場所は、背の低い草と樹がまばらに茂る場所だ。
もっとそのさらに奥、つまり先ほど通り抜けてきた”道”は、完全に山の中になっている。
つまり、今まで俺たちがいた場所は俺が思うよりもさらに山奥であったということだ。
鬱蒼とした森が茂るような山が砂漠近くに存在しているというのには驚きだが、魔法……いや、魔術や呪いといったものがあるらしいこのセカイでは、異常ではないのかもしれないな。
植物ですら、普通の生態系としては考えられないような特殊な進化をした個体が多数存在している。
おそらくだが、あの山の樹が乾燥に強く、密集する性質でも持っているのだろう。
これだけ強靭な生命力を持つ植物が豊富なこのセカイなら、星の砂漠化なんてもの気にする必要すらないのだろうな。
「ところでハシン。ちょっと気になったことがあるさね」
「なんだ。隣に来るんじゃない、走りにくいだろうが」
「訓練さね。話や立ち振る舞いを見るに、お前はもともと男なんだろう?」
「ああ。それがどうした」
この体になっても、立ち振る舞いを変える必要性は一切感じない。
ジェンダー論からすれば異常なのかもしれないが、俺の知ったことではない。
もし女子の振る舞いが必要なら演じるが、あくまで演じるだけだ。
「ふむ、性処理はどうしているのかが聞きたくてな」
「……生理はない」
俺の正確な年齢は一切わからないが、少なくとも子供であることは事実。
そして、一か月以上過ごしているが、生理と呼ばれるものはまだ来ていない。
……まあ、保健体育の教科書レベルの知識しかない以上、詳しいことは言えないがな。
「媚薬つかったろ。なにもいじらなかったのか?」
「もともと性欲には薄い質だ」
「薄いというか、セーブできているだけさね。まあ、生理がないなら良いことだ」
旅をするうえでも、女性の月経はかなり気にするものであるらしい。
それが暗殺者という、闇に潜んで敵を殺すという、慎重さと精確さを求められる職であるなら、なおさらだ。
「……それにしてもお前、女の身体もって、一度も弄ってないのか?どんな神経してるさね」
「自分の欲情などしない。ナルシストじゃない。……一応異性にそんな質問するな」
「ククク……お前は奴隷になるほどか弱い女の子だろ?何言ってるさね」
「………………殺すぞ」
無言で針を射掛けた。
笑ったまま叩き落とすこいつが憎い。
「ほら、そろそろ街につくさね。あれが、お前が売られた街―――――アプリスだ」
「……アプリス」
この世界に来てから一か月と少し。
ようやく普通に街に普通に出れるのか。
普通の生活を送るのにこんなに時間がかかるとはな。
いや、異世界にいる以上、普通なんてものは今までの常識では図ることはできないか。
――――そうして、俺はアプリスの街へと、足を踏み入れた。
***
「で、この格好は何だ」
「そりゃ、奴隷印丸出しなんだから、お前は私の奴隷さね」
「…………奴隷扱いをするな……」
「まあ、この街ではこの方が動きやすいさね」
薄い黒色の、頑丈な首輪。
重さはないが、動きはそれなりに阻害される、鎖のみの足枷。
……やはり、奴隷印が邪魔をするな。
もはや一生付き合うものになってしまっているが……何とかしたいところだ。
「基本的に、人と会うときは内気で暗い感じの女の子って印象を持たせるようにしろよ」
「……ああ」
今まで知っていたものと違う、急激な印象の差があると、人は人を認識できなくなる。
このアプリスが家に最も近い街である以上、俺たちの生活基盤はこの街が主体になる。
暗殺者であり、印象を消せるハーサや顔を変えられるミリィと違い、顔や印象を強く覚えられてしまうわけにはいかない俺は、せめて印象を変えるくらいのことはしないといけない。
「ほら、今からさね。お前の演技力、期待してるぞ?」
「…………はい……」
―――――演技をしながら街を探索するという、奇妙な状況が始まった。
***
「おや、そこの姐さん。女の奴隷を従えてるなんて、珍しいねぇ。同性好きか?」
「いえいえ、ただの召使ですよ。同性の方がいろいろ役立つのでね」
……こうしてみると、やはりハーサは巧い。
表情や雰囲気に、特徴がないのだ。きっと、いまここで話している店の男は、ハーサの顔を思い出そうとすることすらなく、やがては忘れていくのだろう。
「おい、ちょっと顔見せてみろ」
「…………ん……………………」
内気、そして暗い……それを意識して…………。
胸の奥に、しずくが落ちるような感覚の後、意識が冴えていき。
俺の中で、パチッとスイッチが切り替わった。
「…………あ……の………………」
「へえ、髪で隠れて分かりづれぇが、かわいい顔してんじゃないの」
「……ありがとう……ございます…………」
「姐さん、こいつ一発いくらだ?」
「残念ですが、身内だけでしてね」
……身内だけでも体を預けるなんてさせないが。
むしろ、ハーサに預ける方がずっと不安になる。
「そりゃ残念だ……こんな遅くに出歩かせてるからそっち用なのかと思ったよ」
「…………う」
演技の一環として、ハーサの後ろに下がり、腰あたりにそっと抱き着く。
そして、やや上目遣いで店の男を見上げた。
…………我ながら気持ちが悪いな。
「女だからいろいろあるんですよ。あ、これもらっていきますね」
「ハイよ、毎度あり」
金貨を数枚渡したハーサは、袋いっぱいに詰まった肉を店の男より受け取るとそのまま俺に投げ渡した。
奴隷である俺は、ここで荷物持ちをやらなくてはいけない。
……キャラを守ったままということを厳守して。
わざと受け取りミスし、地面に一回落としてから拾い上げる。
そして、俺が今まで見てきた奴隷がよくやるように、荷物を頭の上に乗せ、歩き出したハーサのやや後ろをついていく。
「なかなかうまくやるじゃないか。下手したらミリィと同格か」
「…………ありがとうございます」
「……ふむ、調子狂うさね」
演技しろって言ったのはお前だろうが。
「もはやお前のは自己暗示に近いな。いや、そのレベルまで行くとは驚きさね」
「…………そう……なのです、か?」
「なかなか面白いスキルを持っている。これは成長が楽しみさ……さて」
「ここ……は」
ハーサが立ち止まった先。
アプリスの街、中心地からやや入口寄りという場所に構えられている店の名前は、”影色の眸”。
今の時間帯は当然のごとく準備中であり、closeの掛け看板がされていた。
「パン屋”影色の眸”。命名は私さね。そして店長は――――」
「ハシンちゃん!」
呼び鈴のついた木製の扉を大きく揺らしながら開け放ち、飛び出してきたのは。
「リナ!」
「ハシンちゃぁん……!」
数日ぶりに顔を合わせたリナだった。