試練終了
「………熱源感知は封じたと思ったが、音か。やはり耳がいい」
腕先から血が垂れる。致命傷ではない、また毒もない。ただの手傷だ、問題はないが―――確実に無傷で達成できると考え、行動したにもかかわらず、個人の技量の差で覆された。
言葉を囁く瞬間、振るわれた冷刃は首には届かず、しかし腕を薄く切り裂いていたのだ。不慣れな硬気功とはいえ、それがなければ恐らくは治癒に時間のかかる傷にはなっていただろう。
………さて。目的は果たした訳だが、問題はこの勝利をミリィが認めるかどうかだ。視線を向ければ、段々と家の床に積もり始めている俺の放った煙幕を指先で触り、確認している彼女の姿が見えた。
「熱………成程、この煙幕の配合量は、今までのものとは随分と差がありますね。わざとですか」
「ああ。長老を相手にすれば、一度見た手は通用しない」
一度手の内を見せれば解析され、推測され、対策される。関連した手を打つのも悪手だ。似た手の繰り返しでは”長老たち”の思考を上回ることは出来ない。
故に、見せることで罠に嵌めた。最後に使った煙幕とそれまでの煙幕では配合してある小麦粉の量が違う。これらは購入したものだが、たとえ購入したという事実を認識し、煙幕の中に使われていると理解したところで、煙幕にどれだけの量をそれぞれ詰め込んでいるかなど分かるものか。
同じ弾丸、しかし中の火薬は別の物―――たとえ専門家でも、破裂するまでは火薬の種類など分かりはしない。
二回目までは、小麦粉の量を抑え、後は細かい砂を混ぜ込んだ煙幕を用いた。しかし、最後の煙幕に関しては、小麦粉と共に金属粉末を配合した。つまりは、簡単なことなのだ。
「微小透明体。ようは小麦粉や金属粉末、粉塵の類いは当然、熱を遮断する」
工場利用向けに、鉄板の温度上昇を防ぐための塗料がある。しかし、この塗料はその表面に細かい塵や汚れが付くことで、遮熱作用を衰えさせていく―――大気に細かく散った粉塵というのは太陽光すら乱反射させるのだ、勿論のこと熱にも影響がある。
幾ら人外相当に感覚が研ぎ澄まされているとはいえ、二回目までの道具の性質を知ったうえで最後の金属粉末入り煙幕に周囲を包まれてしまえば、数瞬の間ならば熱の感知が出来なくなる。
人間の感覚は存外に繊細であり、そして敏感なのだ。学習能力も高いのが厄介だが。
「まあ、次は通じないだろうがな」
「ええ。この条件下の熱量感覚を覚えましたので」
「それで。俺は合格か、否か」
手は打ち切った。もう残弾はない。
どうなのかと視線を向ければ、口元に手を当てたミリィが一つ頷いた後に言葉を発した。
「一つ確認がしたいのですが」
「なんだ」
「そこで寝ていらっしゃるこの家の住人。家の中に入った時、私の耳には彼の音しか聞こえなかったのです。それは何故か―――教えてもらえますか」
「………ふむ」
恐らく確信はあるだろうに、それでも訊いておきたいことなのか。まあいい、隠すようなことでもない。二人いる家に一人分の音しか聞こえなかった理由、それも別段難しい話ではないのだから。
「隠れているとなれば、余計な音も出さないからな。心音と呼吸音を完全に同調させた」
「やはり、そうでしたか」
心音、つまり鼓動。そして息継ぎや息を吐くタイミング。基本はその二つを予測し、その通りに自分の身体を操ればいい。稀に起こる他の動きに関してはそれを予測し、同じ動きをすればいい。
個人的にいえば、最後のタイミングで男が早めに飛び出し、ミリィの元に突撃していったのはありがたい限りだった。呼吸と鼓動を真似るのは難しくはないが、失敗できない状況というのは―――なに、心臓に悪い。
「まさかこの私を誘き出すとは思いませんでしたよ、ハシン。ふふ、本当に………師弟は似るものです」
「偶発的なものだ。条件が揃わなければこのような攻略法、出来るものか。………あいつと似ているというのは、褒め言葉にならないが」
「あら。暗殺者としては最上位の褒め言葉では?さて。それが分かっているならば結構です。そして、ええ。技術も問題はないでしょう。そしてなにより、私自身が決めた決着のルールを違えるわけにはいきませんから」
ミリィの表情が和らぐ。そしてその指先が俺の頬に触れた。
「次は、このような方法を用いてはいけませんよ。こればかりは私の”百面”としての矜持が傷つきますから。きっと、またやったのであればその時は殺してしまいます」
「………ああ、分かっている」
どちらにせよ、二度目はないのだ。
”長老”あいてに二度同じ手は通用しない。誘き出すという作戦自体、次は採用する事など出来はしないのだから。
「試練は終了です。では、後片付けをして帰るとしましょうか」
ミリィの言葉に頷き、まずは床で寝ている男を手作りの感触溢れる、簡易なベッドの上に放り投げた。木窓を開けておけば粉塵の類いは勝手に消える。風通りが良すぎるのはスラムの家の基本構造だ。
これら道具の残骸も、どうせ直ぐにこの街の周囲に広がる砂漠に落ち、砂と同化して溶け落ちる。俺自身が世界の中に溶け、全く別の男の音と同化したように。
それにしても、全くもって”長老たち”とは恐ろしいものだ。本来、単純な戦闘には不向きであると自称する”百面”の長老ですら、俺では相手にならない。隙を突き、罠を張り巡らせ、不意を狙って手を伸ばす。そこまでしてようやく有効打。
更にはこの世界には、そんな”長老たち”とも対等に戦うことのできる怪物もいる。頭を使わずに生きていくことは死に直結するだろう。
「………仕方ない」
死にたくはない。かといって、尊厳を捨てて生きるつもりもない。俺が暗殺者になった時、その思いを抱いてこの道に立った。今更変えるつもりもなく、変えることのできる道ではない。
まずは、今回も生き延びた。それを噛みしめ、そして今回の試練を基に学習し、生かす。それだけだ。
勿論、次のためにな。
「さあ、本番だ」
***
馬車が駆ける。人が進む。
その全てが一度巨大な城門の前で立ち止まり、兵士たちの検問を受けていた。
入る者は厳格に。出る者には容赦なく。それが今のシストスの規律だった。
「我らの更生、粛清は武力だ。殺戮と鋼鉄の意思は平和とは対極にある。恐らく私は多くの暗殺者共に狙われていることだろう」
「………貴殿の身に刃が届くことはあるまい。その全ては、我ら同盟者が全て受け止める」
街への通行者を見下ろすことが出来る監視塔に静かに立つ男の背後から聞こえてくるのは、低い女性の声だ。良く聞けば、声と同時に金属が擦れる音も響いているのが分かる。
「レジスタンス共の動きはどうだ」
「最近は随分と穏やかだ。奴ら、とっくに薪が尽きている。今更何も出来ん」
「奴らだけならば、そうだろう。だが」
「―――リマーハリシア本国にパライアスの狂人共、そして暗殺者。火をくべるものは多い、か」
「完膚なきまでに殺し尽くさねばならん。ダイエグルの支援も永遠とは言えん。このシストスはまだ、一介の都市でしかない。国家二つを同時に敵に回すのは時期が早い。例えいつか、双方ともに滅ぼすにせよ、まだ無理だ」
「………ノスガルデイも信用に足らんがな。ノスガル種の馬でも寄越せばよいものを、奴ら武具を受け取るばかりではないか」
「金は得ているだろう。奴らも豊かな国ではない、頼りすぎるのは無意味だ。第一に、あれらもいずれは切り捨てる」
男の長い軍服が揺れた。風が靡き、何もない左腕の袖もまた、風に泳ぐ。
「我らを使い捨てた、腐ったリマーハリシアを許しはしない。敵国であり、我らの仇でもあるパライアス王国も必ず滅ぼす。我ら誓い集った同盟者の意思は鋼鉄であり、殺戮を以て事を成す。変わりなど何もない。まずは、一歩を踏み出さねばな」
軍靴の音が響き、男が女性の脇を通り過ぎ、そして立ち止まった。
「―――これまで以上に街の通行者には気を配れ。そろそろもう一波乱ありそうだ」
「と、いうと?」
「黒い嵐が来る。黒羽の嵐だ………仮面の暗殺者共の匂いがする」
それだけを言うと、軍服の男は監視塔を去る。
女性が通行者の群れを眺め、静かに呟いた。
「”暗殺教団”。伝説といわれる、凄腕の暗殺者共の群れ、か」
―――女性の金の髪が一瞬陽光を反射し、その残光を残して彼女もまた、監視塔から消えた。