変革試練
歩く。歩く。歩く。
普段と何も変わらずに。心音一つ揺らさずに。
―――だが、これから俺が行うことはルール違反すれすれの大博打に近しいものだ。
勿論勝ちの眼はある。博打であっても一か八かなどいった状況など作り上げるものか。そのための準備であり、仕掛けであり、道具である。
それでも、命を懸けることに変わりはない。
「………ふむ」
とはいえ、それも今更ではある。この大博打をやらなかったとしても、期限までにミリィを見つけることが出来なければ結局、俺は殺されるのだから。今更命の危険など、動きを鈍らせる要因になどなるものか。
恐怖を抱くことは悪ではない。暗殺者であっても、生死のやり取りをするのであれば寧ろ恐怖は抱いている方が良い。恐怖は慎重さを身に宿させ、思考することを肉体に強制する。
大事なのは恐怖に飲み込まれないこと。委縮するのではなく、恐怖を前に進むために利用する。それこそが人間が行ってきた歩みそのものだ。
………俺の場合、別段そういった感情を抱けないのはただ余裕がないだけなのだろうが。
「一歩一歩、前に進むだけだ。そんなものを感じている暇はない」
それこそ今更なことだったか。さて、思考を切り替えよう。
ケバブの肉を喰い終わり、舌触り柔らかな焼き林檎を頬ばって。そんなことをしているうちに、俺はアプリスの街の繁華街へと移動していた。
繁華街というだけあり、街の中心近くにあるこの場所は多くの店が立ち並び人通りも活発だ。俺の背丈では人の中に埋もれているだろうに、しっかりと首筋に視線を感じているあたり流石としか言いようがない。
林檎を完全に食べ終わり、芯を捨てる。そして、串を捨てて………直後、適当な人間の手を取った。
―――さあ。ここからは速度が命だ。相手に気取られるな、認識されるな、見破られるな。
だがしかし、見せつけろ、理解させろ………即ち、錯覚させろ。
俺が、間違ったという事実を植え付けろ。
「―――、―――」
「………えっと、なんですか?」
口を動かす。口だけを、動かす。掌からの脱却、手中から逃げ出すためには正攻法では不可能なのだ。
搦め手だけでも足りん。盤をひっくり返す手段と度胸。大事なのはそれであり、そしてひっくり返した後の算段を予め用意しておくことが命を繋ぐ糸となる。
………背筋に氷が落ちる。いや、錯覚だ。そんなことは無い。
ただ、冷たい殺意を注がれただけに過ぎない。つまり、問題はない。問題などあるものか。
「残念です、ハシン」
「そうか。………さて、そうかな」
相手は彼方の如き格上。こちらは遥か格下。
力量の差は火を見るよりも明らかだが、それは単純な戦闘や能力比べに陥った時に最も際立つ問題だ。
………仕事を効率化するためには複雑な手段を簡略化することが多い。動きを減らし、手順を減らす。場所のランダム性を排し、同じ場所、同じ動きをすることが出来るようになれば、身体はその場所を認識し、覚え、身体が場所を理解してまるで機械のように動き始める。
戦闘や能力比べはそういった考え方で表せば、最も複雑な手順といえるだろう。これに持ち込まれると俺はミリィに勝つことは出来ない。
故に、簡略化した。大事なのは、場所と位置と、そして行動を錯覚させること。喰っていたものを放り投げ、それを見た人の動きを支配し、更に付近にいた人の手を取って言葉の無い、口の動きだけの囁きを行うことで直接、その人の行動を制限する。やがては、周囲の環境全てを制御する。
そうした結果、俺のような凡夫でも、達人と呼ばれる人間の動きを見ることは出来ずとも予測することは可能になるのだ。
条件および環境を設定した結果出来上がった、未来予知にも等しい精度での行動予測。これによって、ミリィは俺の推測した通りの位置とタイミングで、俺の背後に現れた。
唸る空気の音に反応し、踊るように身体を振る。ミリィの振るった掌の中にすっぽりと納まる小さな暗器型ナイフが、俺の首の薄皮一枚を裂いていった。
「見つけたぞ、ミリィ。だが………」
ここでは、分が悪い。
「だが―――」
故に。場を乱し、彼女の掌から転がり出る。
「次は、お前が俺を追いかける番だ」
懐から小さな球を取り出す。ペイントボールに近いだろうか。いや、あれよりもさらに小さい。
中に収められているものも大したことのないものだ。ただの乾燥し、飛び散りやすくなった堆肥と石灰、そして―――大金をかけて買い集めた香辛料を磨り潰したもの。
これは即席の煙幕である。唐辛子も胡椒も、刺激の在るものであれば何かと利用法があるものだ。
力の流動を利用し、渾身の力でその煙幕弾を地面に叩きつける。ミリィは致死とした一撃を俺如きに躱され、一瞬の思考及び行動停止に陥っている。動くならこの一手番だけしかない。
いや。この一手番を作るためだけに、俺は一日を費やしたのだ。それを無駄になどするものか。
「………ハシン………!」
「ふ」
笑む。小さく、微笑みに似た笑みを。
―――彼女は、スラムの子供の姿であった。普段見るミリィよりも背が小さいように見えるが、きっと何か特殊な道具が技術を用いているのだろう。シャーロックホームズもやっていたのだ、暗殺の達人であるミリィも当然、行えると判断していい。
これは正攻法では見つけられなかったかもしれん。思考の外を責められていた。
だが、もう関係などあるものか。
煙幕は広がる。一手番に一瞬だけ広がったそれはしかし、ミリィの思考の空白を突いて、俺を彼女の認識の外へと弾き出した。
「掌からは出た。さあ、次だ」
走る、繁華街を抜け、雑多な住居渦巻くスラム近くの低階級住民居住区へ。
手段は用いた。手を打ち、努力もした。結果、外へ出た。条件と状況の外に。故に、ここからは俺の実力勝負だ。
相手は”百面”の名を冠する暗殺教団の長老。こと街中に於いて無敵とすら言われる変装の達人、都市における殺人の支配者。
そんな存在を相手にしては、街の中で隠れられるわけもなく、生きていられるわけもない。
………逃げに徹すれば、詰む。
ならばどうするのが正解か。それは、逃げながら攻める、それだけだ。進展ある後退という矛盾を押し通り、初めてこの一瞬だけミリィを超えられる。
「首筋に殺気。もう見つかったか」
街の広大な地形を瞬時に把握し、更には遠方からでも関係なく標的の位置関係を把握できる。
天性の才とでもいうべき地形把握能力と人間の思考を極限まで研究し、更には実戦において触れ、見知ったことによる行動予測。
それに加えて暗殺教団で身に付けた暗殺術の数々―――それら目に見えぬ武装によって”百面”という暗殺者は成り立っているのだろう。本当に街中に於いてあの暗殺者を敵に回すことの恐ろしさ、その一端が理解できるというものである。
だからといって易々と殺されてやるつもりもないが。折角ようやく土俵をこちらに引っ張ってきたのだ。それを無駄に使い潰すなど有り得ない。
「そうだ。近づいてこい―――俺を殺しに来い」
そうすれば。益々土俵に引きずり込める。
土俵というより蟻地獄の間違いかもしれんが、どうでもいいことか。
―――都市暗殺から、戦闘殺害へ状況をシフトさせる。最初で最後の一手番を使い終えた今、俺が命を繋ぐには………その状況を作り出すしかないのだから。
故に、走った。生きるために、勝つために。
変装試練は終わった。否、変えた。ここから始まるのは掌からの脱却によって引き起こされた、変革試練である。もっとも、やることは、何一つとして変わらないがな。