変装試練 下
「ふむ。やはり金は何かと入用だな」
飯を食うにも宿を取るにも、こうして何かを買うためには常に金を使う。
当然といえば当然だ、いまさら何をという話であるが―――なに、それは当然の如く暗殺にも適用される。
金は使われ循環するもの、それが正しい流れであるにせよ、大掛かりな仕掛けには大金を使う必要が出てくるというのは厄介なものだ。
今回の試練の場合はそこまでの金は使わないにせよ、その後の暗殺の仕掛けには一体いくらかかるのかと考えるだけで億劫になる。
俺は商人では無い。金を効率よく回すことは不得手だ。新しく稼ぐ手段を見つけるだけでも難しく、今こうして使っている金の類いも前回の仕事の折、支払われていたものを崩して使っている。
雀の涙ほどの賃金だがな。まあ、考えうる最低の身分である奴隷で金を貰えるだけマシかもしれないが。この世界の奴隷はローマとは違い、本当にただの消耗品なのだから。
「もう昼だ。一日が経過、そして残り六日………いや、五日と半日」
試練の期限は一週間だ。悠長にしている時間はない。
獣を狩るために罠をかける際には、人間の匂いが消えるまで獣は寄り付かず、それ故に時間が掛かるというが、人間が人間を相手にするのであればその心配は不要の物。
ただ頭を回し、仕掛けを回し、動くべき時に動き、そして相手を動かすことこそが必要である。
拠点と決めた安宿の中で購入した道具や食料を並べる。監視の視線は今もまだ首筋を焼いていた。
「………ふむ」
―――ここからは言葉を口に出すのも気を付けねばな。
さて。昨日は朝から露店を歩き、或いは店に入り、雑多なものを購入した。殆どは食糧の類いだが、道具も揃えてはある。
例えば肥料となる堆肥。少量であるのとこの地域が乾燥していることもあり、隊商によって外から輸入されたであろうそれは随分と乾燥していた。品質に問題はないようだが。
ついでといってはなんだが、これらを購入した際に商人や露天商の肌を小さく、気が付かれないようにひっかき、変装では無いことを確認している。
仕掛けを作ろうとしている際にその目論見を目の前で認識されていたのでは話にならない。外部から監視されている程度ならば何とでもできようが、あの心理すら操る変装の達人に正面から射すくめられては心情を曝け出さんという確証はない。
相手が相手だ、慎重に事を進めるだけ悪い方向には働かない。
「これら、俺の手の届く範囲に影はなし」
ひとりごとだ。
そして事実の再認識でもある。―――そうだ。視界内にいるものかよ。
変装の最大の利用法は相手にから認識されないこと。現実においては特定の誰かになるのではなく、その他大勢に紛れる事が一番の変装となり得る。皆言う通り、木を隠すならば森の中、だ。
だが。例えば現代の地球を舞台とした場合、わざわざ変装者が相手の視界内に入って相手を観察するか。答えは否だ、電子機器の発達した現代であれば本人がターゲットの背を追う必要はなく、仮に肉眼で認識する必要があったとしても率先して近づく筈も無い。
要は行動が見えていればそれでいい。無用な接近はただのリスクでしかない。
………まあ、相手は変装の達人だ。このセオリーは常なるものではないが、少なくとも今回に限ってはミリィも近づいては来ないだろう。
単純な話だ、視界内に捕らえられてしまえば、変装を変えないという制約上どうしても目につく。自ら答えを晒しに来るような、そんな都合のいい話はあるまい。
今回の試練の正攻法は、街の地形、人の動きを利用しながら監視者の行動を制御し、移動範囲や顔、服装といった認識可能な情報を集め、そこから変装しているであろう存在を推理して見つけ出すというものだ。勿論、この方法ではあまりに時間が掛かる。俺の力量とレベルから考えてギリギリだろう。
では、どうするか―――まず前提として、ミリィは変装しており、俺の視界内には入らないものの、逆に常に俺を視界内に置いている。そして、その状況からつい忘れそうになるが、彼女は決して俺から遠ざかることは無い。
監視はするが逃げはしない。隠れはするが、離れはしない。これが試練であるため、そういった本来の暗殺状況では発生しない歪な環境になっている。
これは存分に利用すべきものだ。なに、要は間違えず、声をかけず、そして手に触れキーワードを口に出せばそれでよい。
「さて。やるか」
そういって、安宿の窓に布をかけた。
***
「目隠しですか」
変わらず注がれる誰かの視線。
………それは、宿の中で休んでいた少年の姿に化けたハシンを見ていた。いや、つい先ほどまでは、という注釈がいるだろうか。
今は既に窓に日除け用の布が掛けられ、中の様子を確認することは出来ない。
「まあ、普通の人では、ですが」
訓練された暗殺者の眼を、あのような薄い布で遮ることは出来ない。
無論実際に見えているわけでは無いが、理解できるのだ。分厚い要塞の壁ならばいざ知らず、街中に溢れる構造物程度なら伝わる音や気配、熱気等で何人いるのか、何をしているのかが分かってしまう。
そして、こと街の中において”百面”程に人間の動きを認識できる暗殺者はいない。
視界………いや、認識可能領域内に収めているならば、幾つの壁に遮られようとも相手を認識することが可能である。
「変わらず一人。竈に火………調理ですか」
剛胆なものだと思う。
命の危険が迫っているというのに彼女は一切慌てた様子もなく、冷静に動き続けていた。
考えていないわけではないだろう。恐らく、常に考え続けている結果、視線と思考が冷え切ってしまっている。
最初からそのようだったのか、ハーサと出会ったせいでそうなったのか、そこまでは分からないが………やはり、天性の素質とでも呼ぶべきものは備わっていたのだろう。
結局、それを無理やりに引き出し、人の進む道を壊したのはハーサであることに間違いはないだろうが。まあ、悪いことと言い切ることも出来ない。奴隷として使い潰される道から、彼女が外れたことは事実だ。
「熱気が籠ってきましたね」
熱も感知法の一つだ。幾つもの情報を継ぎ合わせ、対象を認識する以上、なるべく失いたくないが竈を利用している以上は仕方がない。
他の情報でハシンの行動を監視する。それら補う手段を持ち合わせ、瞬時に使い分けるのも技術である。この程度できなくては、変装の達人を名乗れるものか。一応、この称号にはそれなりの自負と責任を抱いている。
「―――おや」
竈の火が消えた。さらに窓の布が外される。
その窓の隙間から熱気が逃げ、つい先ほど失われた情報が再び伝わってくる。
嗅覚には香辛料を振りかけ、焼かれた肉の匂い………串に刺さっていることからケバブのようなものを自作したのだろう。確かに先日、肉や香辛料も購入していた。
それを持ったまま、彼女は宿を出る。無造作に、いつも通りに。
………微かに、彼女の口角が上がっているように見えた。
「もう?いや。まさか」
見つかってはいない。認識されてはいない。
だが、少しだけ嫌な予感がした。
………嫌な予感?私が?
この試練を開き、監視者を行っている私が。実戦でもないこの状況で、嫌な予感を感じた?
暗殺者の直感は従うべきものだ。だが、此度は試練のせいでそれに従うことは出来ない。
「教えるというのも………成程、難しいものです」
そういって、”誰か”は肉の刺さった串を頬張りながら歩くハシンを追う。どうでもいい情報だが、もう一つの串には焼き林檎が刺さっていた。
ああ、まったく。あの辺りの行動が本当に、ハーサに似ている。不遜というべきか―――或いは、常在戦場の心構え故なのか。
まあ、結局は。………蛙の子は蛙、なのだろう。