変装講座
変装術。
そう呼ばれるものは数多のフィクションに登場し、多くの達人たちが姿を欺いて対象を騙してきた。
例えば探偵たちの祖とされるシャーロック・ホームズは変装の達人であり、怪盗アルセーヌ・リュパンもまた、巧みな演技を用いて己の正体を隠していた。
「必要なのは観察力と演技力です。これは変装術の基礎で教えた通りですが、”長老たち”クラスの変装術となれば求められるその力は並大抵のものではありません」
場所は山を下ったアプリスの街の一角、一目につかない………いや、人の意識の外側にある石造りの部屋の中。
小さな炎が音を立てながら燃え上がり、光源の蝋燭が焦げる匂いがする。
ミリィの姿はその薄暗い部屋の隅から隅までを歩き、端までつくと折り返す。そして、指を掲げながら椅子に胡坐をかいて座る俺に対して変装術の講義を行っていた。
「特に、”百面”の暗殺者は身に宿す暗殺術は演技力のみ。故にこそ、その演技力―――そして、逆に演技を見抜くという力においては誰に劣ることは出来ないのです」
「劣れば、すぐさま死ぬということか」
「ええ。変装を行うものは私たちのような暗殺者だけではありません。後ろ暗い箇所のある暗殺対象も多々変装を行います。その際に相手を見つけ出すのは変装の達人である私たちの役割ですので。その私たちが変装術で敗北すれば、存在価値はありませんから」
ふむ、道理か。
蛇の道は蛇というように、変装を手段として用いる相手を潰すのは同じ変装術の達人であり、その最高位の使い手として”百面”の名がある。”暗殺教団”の長老の一人、”百面”の名はそれだけ重いということだ。
「正直に言えば、観察力と演技力さえあれば後は全て、道具の作り方と使い方を知るだけですから」
「そんな単純だとはさすがに思えはしないが」
「いえいえ。あなたなら大丈夫ですよ、ハシン。ともすれば、ハーサの変装術程度はこの二週間の間に超えられるかもしれませんね―――ハーサよりも変装術の適性は高そうです」
「あいつよりも、か?」
「ええ。ハーサは少々、強すぎますから」
「………ふむ」
確かにその通りか。昨日の昼間にバルドーと殴り合っていたハーサを思い出す。
あれは変装する必要がない程に強すぎる。確かに手段として扱うことは出来るだろうが、その道を究めるまでには行かない。
騎士とも殴り合えるだけの実力を持つハーサにとっては、そこまで必死に習得すべき技術ではないのだろう。それに本人の資質的にもそぐわない。
生物界において擬態は、基本的に生存競争の弱者が持つことが多い。勿論、捕食者側が持つこともあるが、姿を隠すことにおいて有名な動物であるカメレオンは擬態によって捕食を行いやすくし、そして天敵の鳥類から身を守っている。用はどちらにも使えるということだ。
天敵を持つ生物には抜群の武器であり、防具として働くのだから。
「それで道具というのは」
「変装に使う雑多物です。大したものではありませんが、成り済ますのであればどうしても道具は必要になってきますからね―――代々受け継がれた”百面”秘伝の変装道具と言い表されてはいますが、結局は本人の扱い方によるものが多いので」
そう言うとミリィは、机の上に置かれた革袋から何かを取り出し、こちらに放り投げた。
片手で受け取ると、その材質を確かめる。
「これは………」
一見すると人間の皮膚だが、良く触ると裏側の質感に差異がある。接着面があるためだろう。
だが、前面部分………つまり他人から触れられ、観られる部分は殆ど人間のそれと大差がなかった。
「変装用マスクか」
「はい。成り済ますには皮を被るのが手っ取り早いので。ただし―――」
「被ったところで演技力が足りていなければ無意味、か」
俺の言葉に頷いたミリィは、そのままもう一つ、革袋から道具を取り出した。
「そちらは?」
「顔の造形を変えるそのマスクだけでは変装道具としては不足しています。ほかにも様々あるのですよ、”百面”の変装道具というのは―――そうですね、では一つ見せてあげましょう」
ミリィの姿が蝋燭の向こう側に映る。
薄暗い部屋の中では彼女の顔はあまりにも見えにくくなっていたが、それでも炎の奥で微笑んでいるのは感覚で分かった。
「”百面”の変装術というものを」
桜色の唇から呼気が漏れる。蝋燭に吹きかけられた息は一瞬だけ酸素量を増大させ、炎を膨れ上がらせた。
そう、一瞬………一秒にも満たないその間で、俺の前からミリィという人間は消滅していた。
代わりに立っているのは、ハーサの姿だ。
「東洋の方には一瞬で早着替えするっつう道化術があるらしいが、まあその応用さね」
「顔につけた面や身に纏った服を付け替えるあれか」
「ほう?詳しいな、ハシン」
………声音も仕草も口調も、何もかもがハーサの物。
寧ろハーサがミリィの姿を真似ていたのではないかというほどの変装術。本人が言う通り、服装までもが切り替わっていた。
目を細め、その変装術を観察する。どこかにボロが無いか、見破れるだけの穴はないか、と。
だが―――どこにもそんなものはなかった。いや、待て。
そもそもハーサとミリィは肌の色が違う。ハーサは俺と同じ褐色系の肌をしており、ミリィはあの姿では白系統の肌色を持つ。そうか、マスクだけでは肉体の差異を変えられない、先程の道具は肌のための変装道具というわけか。
「特殊な下地を付けた後にさらに薬品を塗布することで、人工的に皮膚を生み出す技術があると聞く。その応用か」
ミリィ/ハーサは俺の言葉に、唇の端を吊り上げて答える。やれやれ、ここまで完全にあいつを再現されるとつい汚い言葉が出そうになるな。
本当に驚きだ………醸し出す雰囲気までもがハーサのものなのだから。
それはそれとして、肌色を変えた道具についても驚愕は抑えられない。現代でもようやく作り上げられた塗る人工皮膚、セカンドスキンという技術だ。極められ、研究がつづけられた暗殺技術は先進文明の技術を先取りするに至っているという事実が、驚愕の最大理由である。
ふむ、確かにセカンドスキンは健康な皮膚の上に作る人工の皮膚であり、弾力性及び伸縮性に富むため人体の可動部にも使用可能である。顔の造形ほど彫刻のような作業が必要ない肉体の変装ならば、これ程適したものもないだろう。
最悪、これだけでも十分に変装が行える。かつて衛利と一緒にメービスの街に潜入した際には泥を使って肌色を変えたが、こちらの方が全状況で勝るだろう。
「マスクは動物の皮を加工したもの―――特殊メイクだが、流石に暗殺者の物というべきか、より自然に作られている」
この時代の世界に現代の特殊メイクと同等以上の技術があることも驚きだが、セカンドスキンが登場した今、そこまで異常とも言えん。
だが、成程。これらを見るに、”百面”に代々伝えられている秘伝道具というのは道具そのものではなく、道具のレシピだな。
「小道具の作成方法………探せばウィッグや付け胸なぞも出てきそうだな」
「ありますよ、勿論」
「………その格好で声音を戻されると違和感が凄い」
「確かにそうですね、すぐに全身も戻します」
腕が顔の前を通り過ぎただけで顔がミリィの物に戻り、足元から拾い上げた布がハーサの肢体を包んだ後にはミリィのメイド服が現れる。肌の色も戻っていた。
「早着替えはまだ不要でしょうが、道具のレシピについては全てを叩き込みます。変装術の中の付属品のようなものですけれど。本体は―――」
「技術だから、だな」
「はい。分かってもらえてうれしいです。道具の扱いを覚えたらすぐに技術を授けますのでそのつもりで。それと、色々と後が詰まっていますので二日で覚えてくださいね?」
「ああ、了解した」
これだけの道具があろうとも先程の変装でハーサがハーサらしかったのは類まれなる演技力あっての賜物だ。演じる能力が劣っていれば違和感を感じたはずだがそんなものは何も感じず、悪態をつきたくなるほどのハーサそのものがそこにいた。
それを可能にするのは観察力と洞察力である。戦闘にも使えるその力は、変装においても絶対的なものとして君臨している。
………まだ、そこまでの眼力は俺にはない。演技力も、当然ながら長老であるミリィに比べれば天と地の差がある。
だが、それでも。ミリィという頂点を知れたのはまごうことなき利益である。
「体型、体格の調整や変装の種類、相手の看破法に至るまで教えることはたくさんありますから………さあ、授業を続けますよ。準備は良いですね」
「当然だ―――もっと教えてくれ」
赤い瞳を燃え上がらせて、その知識と経験を集積する。薄暗い部屋の中で暗殺者の教育が着々と進んでいた。