体術入門
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後日。
台風か何かが直撃したかのような強い風と雨が吹きすさぶ天気の中。
家の近くで、俺は再度、ハーサに打ちのめされていた。
「…………最悪な天気だ」
腹部に一発、非常に重い一撃をうけて立ち上がれず、しばらくの間ただ空を見上げていて、そう思った。
どんよりとした黒色の空。
うちつける雨が肌を叩く。
地面は、思いのほか振動をよく伝えるものだ。
それがたとえ、建物の中ではなくとも、土に耳を当てればはるか遠くのもの音すら聞き取ることができるという。
もちろん、音を判別する技能を持っていなければ無意味だが。
「教えるには最高の天気だとは思わないか?」
「ふん。教えられる側からすれば最悪だ」
体がようやく回復したので、くるりと後転しながら立ち上がる。
その際に地面に落ちていたナイフをとりつつ、ハーサと間合いを測る。
あいつは、俺のその行動を見ながらにやにやと笑っていた。
「………胡散くさい笑みを浮かべるな、気が散る」
「なに、集中したところで私に一撃与えることは不可能さね」
「――チッ」
そう、体術の修行を開始してからすでに五時間と四十七分が経過した今、天候不順も手伝い、すでに暗闇に覆われている時間になってすら、俺はハーサに一撃も与えることができていない。
一撃というのは、致命傷になるようなものではなくただの掠り傷も含まれていて―――さらに、むかつくことに俺はナイフを使っているというのに、ハーサは素手だ。
これだけの好条件を与えられておいて、ハーサのにやにやした顔を歪ませられないのは、非常に腹立たしい。
「……ハーサ。そろそろヒントを差し上げたらどうですか」
「ふーむ、そろそろ根の刻に入るころか」
ミリィがかなりじとっとした目でハーサを見つめた。
かなりの迫力を持っていて、ハーサがそっと目を逸らすほど―――ふむ。いつも傍若無人に振る舞うハーサも、従うときがあるのだな。
そういえば一つ気になったが……こいつはずっと俺と相対していて、時計を確認している素振りはなかった。
にもかかわらず正確に時間を言い当てたということは、おそらく、こいつも体内時計か何かがあるのだろう。
「……まぁ、食料係のミリィに叱られるのは避けたいさね……仕方ない」
「食料係……違いますよ……?」
「ハシン、よく聞け」
すまんな、ミリィ。
俺も、最近のあなたを見て、食料係か、もしくは母親にしか見えん。
それはともかく、ようやく真面目な顔になったハーサに意識を向ける。
…………こんなだが、確かに殺しの技は、素人の俺にすらわかるほどに上手だ。達人といえるほどに。
教え方はともかくとしても、修行の方法は適切で、体捌きも知識も―――俺とは比べ物にならん。
悔しいが、暗殺者の先達としては、一流なのだ。
「まず第一に、お前の筋力では誰にも勝てんさね」
「…………筋トレをやれと?それをさせないのは何処のどいつだ」
いつもやれといわれた基礎トレーニング。
その中に、一応体つくりのための筋トレがあるが―――とても、筋肉がつくような物じゃない。
あれは、体をほぐすためのものに近いのだ。
「話を聞け。私はお前に筋肉を付けさせる気は毛頭ない。色仕掛けには使えないからな」
「……ふん」
色仕掛け……ハニートラップ。
もちろんこれには、容姿が整っていることが条件の一つであるが、実はそれ以上に重要なことがあるらしい。
根幹である顔すら上回るそれこそが、筋肉量だ。
午前中にミリィから聞いた講和を思い出す。
「いいですか、ハシン。色仕掛けにおいて重要視されるものは、顔、体、殺しのキレ――この三つです」
顔は、整形等を除けば変えられないにしても、好みである程度はどうにかなる。
殺しは覚えればいいし、普段は隠して置ける。
だが、筋肉だけはどうしようもない。
性交を手段にする以上は、ハニートラップは基本的に裸で行う殺しだ。
そのために、体に毒を仕込んだり、絞め技を覚えたりするわけだが―――まあ、これは割愛する。
裸になっても、殺しの技を隠すことは容易だ。
牙を出さなければいいだけだし、自分の武器を必要な時だけ取り出す―――それができない暗殺者などいない。
だが、体についた筋肉は、その者がどれだけの修練を積んだかを如実に表してしまう。
速い話が、誰かを殺した…………もしくは殺す職にあるという事実を、殺しの相手に教えてしまうのだ。
情報の漏れは命の終わり。
服で隠せなくなるハニートラップという殺しなだけに、それを行うものは筋肉を決してつけず、自然体の、ありのままのうら若く、ひ弱な少女のままでいる。
ゆえに本来は、ハニートラップを行うものはそれだけに専門し、ほかの殺しはやらないものなのだが―――。
「”無芸”の弟子が”万能”とは、皮肉だろ?」
「…………まだ、根に持っていたんですか」
詳しいことは知らないが、どうやら俺はハーサの自己満足のために、普通の暗殺とハニートラップを両立させるための修行にいそしんでいるらしい。
「筋肉に頼れない弱者故に――お前は、人と環境を利用するのさね」
「人……?」
環境は理解できる。
近くにあるもの遠くにあるもの関係なく、全てを利用して戦うということだろう。
だが、人……?
「ヒントは一度だけ。よく聞くさね。――――必ず、人の心を把握しろ。考えを理解しろ。誘導して、騙し、嵌めて…………そして殺すのだ」
「把握し……理解し……誘導する……。それが、人を利用する……か」
……そうか。そういうことか。
環境だけでは足りない。
相手がどう考えているのかという、思考すら利用しなければ、環境の利用は無意味に終わり、敵を殺すことなどできしない。
道具を使っても、天候を使ってもだ。
―――ババ抜きで、ババと一目でわかるマークがついたカードをわざわざ引くものはいない。
「筋肉が無い分、さらにそれを徹底しろということか」
「そう言うことさね♪さぁ、それを理解したら、かかってきな」
自然体、無形の構えで俺の十メートル先に立つハーサ。
――――もし、俺があの位置で戦っていたらなら。
俺がハーサと同じ力量をもっていて、今の俺と同じレベルと戦うとしたら。
何を警戒するだろうか。
「…………」
すり足で、ハーサの周囲を回る。
ハーサは、動かない。
完全に死角に当たる背中が見える位置に移動して、陸上のロケットスタートのごとく、素早く動けるようにかがむ。
背後に回っても、意識がこちらを向いているのが理解できる――――気配を見られているのか?
心眼……第六感とも呼ばれる其れか。
本当に人間離れしている……そんな感情はさておき、背後ですら”視る”こいつが、やられたくないことは、何か。
考えろ、何処までも冷静に。自己すら騙して相手になりきれ――――。
「…………」
俺は武器を降ろすと、ただハーサに向かって、歩き出した。
…………今の俺では、どんな戦闘術もハーサにかなうことはない。
つまり、俺がどんなに戦いを挑んでも――――ハーサにとっては、脅威にならない。
こいつが脅威に感じるとしたら……同じ状況で俺が脅威に思うことは……戦闘外のことだ。
ならば、俺ができるのはただ一つ。この戦闘を、日常へ変換してしまうことのみ。
完全にナイフを収納して、ハーサが拳を振れば当たる位置にまで移動する…………そして。
俺は、自分の感情すら欺いて―――ただ、笑った。
年相応の無邪気な少女が浮かべるかのような……蒲公英の花が開いた時のような。
―――この一瞬だけ、ここは戦闘地帯ではなくなった。
「………ほぉ……?」
「…………まさか………………」
先日教わった、ナイフの技。
何処までも迅く、まるで体の一部のように、それを思い出しつつ―――右腕をしならせつつ、ナイフを投擲した。
「だが、まだ甘いさね。その程度じゃ―――」
吹きすさぶ風を切り裂くナイフを、首の動き一つで避けるハーサ。
「知っている。この程度で傷一つ与えられるなどと思えるほど、お前のことは過小評価していない」
俺の最大限の一撃を、ハーサならば必ず躱すだろう。
俺の笑み程度で、こいつか完全に戦闘状態から抜け、油断することはない。
―――そう、絶対に油断しないことを、信用している。
俺は、ナイフに結び付けられた、何かに使えるかもと思い、あらかじめ拾っておいたハーサの長い髪の毛を引いた。
「なるほど」
「…………チッ」
これも、避ける。
さすがだ、ハーサ。
今の俺程度の技量では、二段構えの戦法すら、通ることはない。
……ならば、三段で、それでもだめなら四段で挑むだけだ。
左手に握った、小石混じりの土を投げつける。
なるべく、体全体にかかるように、だ。
「くはは、なんと準備のいいやつさね!先ほど屈んだ時に、こっそり握りこんでおいたか!」
ああ、そうだ。
ハーサは強い。
つまり、二段の攻撃すら交わすことを、俺は理解している。
今までの手は、全て―――最後のための布石に過ぎない。
「だが、石は効かないさね」
ナイフの投擲と同じ勢いで投げた石、当たれば傷になるほどだが、当たらなければ意味はない。
もちろん、それを加味した上での広範囲投げつけだが……ハーサは右腕に巻き付けたターバンをほどきつつ、腕を振るうことで小石をすべて叩き落とした。
…………見事。
こうなってしまっては、俺はもう、ただ特攻するしかなくなってしまった。
ただ一歩。
ハーサに向けて足を延ばして。
その瞬間、ハーサの柔軟な右腕が、俺の胸を強打した―――――。
***
「…………本当に最悪な天気だ」
「………まあ、同感さね」
また、地面倒れこんだまま、空を見上げる。
強くうちつける雨と、風。
追い風は、どんなものも加速させる。
たとえ面積が小さくても、追い風に吹かれれば、制動能力と引き換えに、通常以上の速度を得られる。
そして、速度が出た物質は、それだけで武器になるのだ。
ツゥッっと、ハーサの右腕、その指先から、うっすらとだが……血がにじんでいた。
「一撃入れれば勝ち。その一撃は致命傷で無くとも構わない」
そもそも、頭やら心臓やら、最も注意するべきところを攻撃して当たるわけがない。
ならば、何の脅威もないただの掠り傷を、まったく意識の向かない適当な場所に当てた方が、ずっと効率的だ。
普通の速度なら、それすら反応されるだろう。
だから、俺は歩いた。
風が、俺にとっての追い風になるように。
気にも止められないような、俺の爪が、ハーサの肌を切り裂けるように。
「…………すごい、ですね」
「ああ、これが私の弟子だぜ……?」
「何がだ……」
目と目で通じあう、暗殺者の”長老”二人。
だが、俺はそんなことに気が向かないほどに疲労していた。
…………もう、ハーサとは戦いたくない。
戦うにしても、こいつの心理を把握なんて芸当は、当分は無理だ。
これが、体術の入門試験だというのだから、気が滅入る。
明日から、どれだけの地獄が始まるのやら。