酒武都市
「随分と遅かったな、待ちくたびれたさね」
「………弟子を崖に突き落としておいて、お前は酒盛りか」
「暇すぎたんでな。たかだかこんな崖上るのに随分と時間をかけたなぁ、ハシン?」
ほぼ直角に伸びているこの自然の産物を、たかだかなどと呼べるものか、阿呆。
ハーサが手にしているのは漆塗りの盃だ。中に入っている液体はあまり匂いはしないためスピリッツ系、所謂蒸留酒だと思われる。度数は高いだろうが、それでも一発殴れるような隙は欠片も存在していない。
幾本か空になっている酒瓶が転がっているというのにな。どれほどザルなのか。
「ほれ、ご褒美だ」
「………む」
ハーサの手元にある、まだ中身が大量に入っている酒瓶が一つ放り投げられた。
放り投げる、といっても力の流動を使用しているため、下手な投げナイフよりも高速で飛んできているわけだが、まあそれは大したことではない。
重心の影響で回転しながら俺の方へと向かってくる酒瓶の口の方を掴み取ると、コルクを抜く。
そして中身の香りを嗅いだ。
「アラックか………アルコールの臭気が強いな」
「貰い物さね。私じゃなくてミリィの、だがな。あいつは仕事のやり方的に物をたくさん貰うが、まあその余りってやつだ」
「つまり、ミリィの持ち物を勝手に奪ってきたということか」
「失礼な弟子だ、師匠の言い分は受け入れるものだぜ?」
軽く舌先で舐める。アラックとは俺の世界では中近東で伝統的に製造されていた蒸留酒の総称だ。元来は椰子や葡萄などから作られるものだが、世界に伝播していくにつれ様々にレシピが派生していった酒である。
高品質であればあるほどに度数が高いとされるが、このアラックは軽く五十度は超えているな。
酒瓶の表面に刻まれた産地表記を見る。
「シストス産………どこの国だ」
「国じゃなくて都市だ。リマーハリシアの中の一都市さね」
聞いたことのない名だ。もちろん俺はこの世界についてまだまだ知らないことの方が多いわけだが。
「このシストスは酒造で有名なのか」
「前まではな。その酒、結構稀少なんだぜ?もうほとんど手に入らない」
「どういうことだ」
「だいぶ前に領主が変わってな、禁酒法を施行した。酒を飲むのも作るのもアウトさね」
「………そうか」
禁酒法は結局のところ悪法だ。
その理論や建前はきちんとしているが、実際に禁酒法を施行した場合、酒税という大きな収入を喪うどころか他の悪性組織の資金源となりうることもある。
かつてアメリカ合衆国で禁酒法が行われた際には密造酒をマフィアが売り捌くことで、莫大な収入を得ていた。これで有名なのがアル・カポネな訳だが、まあそれはいい。
「その都市は酒もない状態でよく生き延びているな。財政状況はどうなっているんだ」
この世界は俺が生きていた世界ほど平和ではない。国家間は常に緊張状態であり、紛争という規模ではなく戦争の前段階にあり続けている。
アプリスの街があるこの場所が辺境と呼ばれている時点で、周囲の国家を仮想敵国としているのは明白だ。
まあ、パライアス王国とリマーハリシアは歴史的に常に敵対していたようだが。
そんな状況下では酒による税収は莫大な収入源となり、都市が………ひいては国家が戦うための武装を整えるために必須と言えるもののはずなのだ。
「ハハハ、それが面白くてな―――なんとまあ、酒の代わりにシストスは武器を量産し始めたさね」
「武器を作り、売ることで収入を得ているということか?」
「ああ。武器の内容も様々だぜ?単純な刀剣類から酒の作り方を流用した危険物に至るまでなんでもありだ」
世界最強の酒と言われる、アルコール度数九十六度のスピリタスは酒に分類される飲料でありながら、容易に発火する危険物だ。俺が今手に持っているアラックのように度数の高い酒を造れる土壌があるのであれば、確かに武器としての酒を造ることも容易だろう。
だが、それだけでは説明のつかないこともある。
「………ただ酒造りが盛んだったというだけの街で、そこまで巨大な武器工場のようになれるのか?」
本来経済活動と街の防衛はセットで行われる。
金を集め、街を強固にし、或いは武装を充実させ、都市に安定を齎すことで人をさらに呼び込み、また資金とする。その性質上、都市というものは―――まあ国家もだが、暴力装置である軍と財源を分けているのが普通だ。
そもそもが武器は基本的に国家が指定し、管理する工廠で作られるもの。要衝でもない一都市が自己防衛の基準を超えて、独断で武器を製造することなど出来る筈がない。
………あまりに過剰な戦備増強は反乱の意志在りと判断されてもおかしくはないのだからな。
「当然、無理だ。今の領主に変わってから急激に街の構造に変化が起きたみたいさね。商人も訪れる開けた都市から、ただ無心に戦備えだけを行う陰鬱な都市にってな。まあそれでも―――」
「作った武器を他都市へ売ることで経済困窮は発生しない、か」
この時代の都市としてあまりに異常だ。
都市国家と言われるように、街は砦の機能を兼ね備えた防衛も行える構造をしているのは確かだが、それでも街の経済機能すら捨てて戦を見据えているのはあり得ない。
………む。というよりもこいつは何故そんな情報を知っているのか。いや、異質な行動をしている異常な都市ということは、そうか。
「そのシストスが、次の仕事の場所になる可能性が高いということか」
「”暗殺教団”が分かってきたみたいだな。ま、そういうことさね」
ミリィがこのアラックを貰ってきたのも納得だ。ここ数週間あまり姿を見せていないあの変装の達人は恐らく、シストスの街にて情報収集を行っている。”百面”とあだ名されるあの暗殺者の本領はやはり姿を幾つにも使い分けて行う情報戦なのだから。
「備えておけよ、ハシン。あまり猶予は無いぜ?」
そういうとハーサは空瓶をそのままに家の方へと歩いていった。おい、片づけていけ阿呆。
残された瓶を拾い集めながら、瓶に刻まれた文字をなぞる。
「―――シストス。次の仕事の場所か」
ああ。備えるさ。この身体に刻まれた奴隷印の通り、奴隷として消費される生涯を送るつもりなど毛頭ない。どんな道でも、例え血に染まった道でも俺は俺の意思で進んでいく。
俺の自由を誰にも邪魔などさせない。
「む」
思わず瓶を握りつぶしてしまった。なるほど、習得したばかりの技術は注意しないと不用意に出てしまうな。完全に己の武器、一部分に出来ていない証拠である。
まだまだ修練が必要だろう。強さそのものに興味はないが、俺が俺としてこの世界で生きるためにはハーサのような実力が必要だ。
実に腹立たしいが、ハーサのその強さだけは目標である。
空き瓶を回収し終わると、後を追い家へと戻る。残り少ないという次の仕事への猶予、精々無駄にしないように使うさ。
立ち止まり、無駄に晴れ渡っている乾いた空を見上げ、感傷的になりすぎかと自分を嗤うと再び歩き出す。暗殺者は感情的にも感傷的にもなる必要はない。ただ当たり前に事を為せばいいだけだ。
見習いとはいえ、その程度は分かっているとも。