力流動覚
眼下には深く広がる崖。
名もなき山は意外にも標高が高い。今まで外敵のほぼすべてを山の立地だけで追い返しているのだから当然ともいえるが、そんな山に広がるこの亀裂はプレートの境界、大地の裂け目程とは言わないが常人ならば落ちれば何もできずに死亡するのが確実であろう高度を持っている。
多少鍛えてはいても俺の肉体は常人よりも脆い類いのものだ。故にこの状況で確実に言えるのは、ただ肉体をやみくもに動かすだけでは、落下から生き残ることは出来ないということ。
「………そして、もう一つ」
あの糞師匠が教えた技術、それだけで状況打破が可能だという認識を捨てなければいけないということだ。
力の流動。見ただけのその技術をこの一瞬の間に習得し、さらにそれを既存の技術と組み合わせなければ俺は死ぬ。
………性格が歪んでいるからな、あいつは。額面通りに言葉を受け取るには人間性そのものが疑わしい。
引いた腕は力を抜く。芯は残しつつ、しかし無駄な力は残さない。
腹の底あたりから落下に伴う浮遊感が襲ってきた。しかし、焦りはしない。
逆に高度がある分、完全に潰れた果実のように身体がひしゃげるまで、猶予が出来ている。それを存分に生かし、先程のハーサの動きをしっかりと脳内で再現した。
引いた腕を、崖の壁に向かって叩きつける。
「―――ッチ………」
壁蹴りの要領で落下の衝撃を分散させようとしたが、腕から嫌な音が響いただけだった。
鈍い痛みと共に、砕けた岩石が宙を舞う。
「………?」
散らばった岩石に視線が向く。
花崗岩、地球上に最も多く分布する硬質の岩石は、モース硬度で表せば6.5………ただナイフで傷をつけることは出来ず、逆に刃を痛めるといわれる強度。
現状の俺は鋼鉄をナイフで両断できるが、鋼鉄を拳で砕くことは出来ない―――できなかった。
だが、僅かなれど今この打撃で、風化していない花崗岩を砕いた。
「腕は痛むが………使えるか」
力の流動とはつまり、全身の力の流れを操作する技術に他ならないということか。
突き詰めれば簡単なこと。殴るという動作をする際に腕を振り被った方が威力が増すのと同じことだ。
ただし、この暗殺者の技術は簡単ではあっても単純ではない。
何故なら、力の流動において、力を動かすためのこの方法は動作だけではないためだ。
鞭のように体をしならせ、力を流すのは当たり前。ハーサの動きを思い出せば、身体の内側でも筋肉が蠢ていていたのが認識できた。
―――人体を構成する筋繊維。或いは骨格。動きで身体を動かすのではない。ただ筋繊維の収縮だけで殴るのではない。
どちらも合わせた、正しく流れによって対象を穿つ。それこそが、力の流動と呼ばれる技術。
肉弾戦だけに使うものではない。道具を使った戦闘でもその技術は活かせるだろう。ただの人間の範疇にあるものでありながら、人外の戦力となるためには必須ともいえる基礎技能………か。
「なるほど、理解した」
そして、何故ハーサがこうして俺をがけ下に放り投げたのかも理解できた。
………どんな力も流れの中に組み込めるのであれば、この落下、即ち重力によって発生する力もまた打撃として流用できよう。
もちろん、その力に俺の肉体は耐えられないだろうが、それでも死からは免れる。つまるところ、あとは痛みに耐えれば良いだけだ
睨むように目を細め、暗闇の中を凝視した。力を抜き、肉体全体を水と化すイメージを形作る。
その水を流動させ、全身を巡らせた。
イメージを完璧に作り、引き絞った腕で再び、崖の壁を穿つ。
鳴り響くのは二つの音だ。一つは俺の右腕の骨が軋む音。
そして、もう一つは―――崖が深く抉れる音。岩石の破裂音だ。
「次だ」
殴りつけたことによって俺の身体は落下の勢いがやや減少し、崖の反対側へと身体が動く。
作用反作用の法則だ。落下速度の軽減に関してはやや下に向けて殴ったため、上方向に力がかかった性だろうが。
さて、さっそく使用した力の流動による利点はこの通りだが、欠点もある。
それは殴りつけた右腕から発せられる鈍い痛みだ。覚えたての技術は身体を壊す、腕が簡単に砕けてしまった。少々の間はナイフも握れないかもしれないが死ぬよりはましと考えよう。
「腕で行けるのであれば、足でも行けるだろう―――ッ!」
空中で身体を回転させ、やや減少した重力を補う。足裏の一撃は見事に、崖を砕き、さらに落下速度を低下させた。
瓦礫が頬に当たる。身体に当たる風の感触が冷たい。
崖下は流れの緩やかな川で満たされていた。この水に触れた空気が身体を撫でているのだろう。深さはあまりなさそうだが、ふむ。
………崖を殴れるのであれば、水面も殴れるな。
高所から水面に飛び込んだ場合、その硬さはコンクリート並みとなる。逆に考えれば、この状況下の水面はそれだけの硬さで俺の落下を受け止めてくれるということに他ならない。
右腕は使えない。右足はやや痛みがある。左半身はほぼ無傷だ。
ならば、落下の衝撃が訪れる瞬間に、左足に力を集中させよう。腕よりも足の方が頑丈であり、元々の力がある。こういう時には足技を用いるべきだろう。
川の流れる音が耳朶を叩く。タイミングを合わせなければ身体が潰れるが、生憎と投薬兵との戦闘を繰り返した俺は存外に戦闘の経験が溜まっているのだ。
この程度ではミスなどしない。
「………ッッ!!!」
―――そして。一際巨大な水しぶきが上がった。
「意識が間延びしていたが、落下時間は数秒か」
小柄な少女の身体とはいえ、重力加速度を加味すれば数秒でも相当な深さまで落下する。
十数秒も落ち続けるのであれば、氷の裂け目や大地の裂け目と同等の深さが必要になるだろう。標高の高い名もなき山とは言えど、流石にそれほどの深さはない。
もっとも、自然の脅威も比べれば浅いというだけの話であり、並の人間がこの崖を登り切ることは出来ないだろうが。
水の上に浮かび、流されながら崖の隙間から覗く空を見あげる。さて、どうやってここから戻るか。
右半身はダメージを受けている。左足は使えるが、かといって万全でもない。
無事に震えるのは左腕だけ、それでこの崖を登り切るのは不可能である。しかし、水につかったままというのは流石に危険だ。低体温症は容易に命を奪う。
どこからか船でも放り込まれればありがたいが、まあそんな甘い考えはないだろう。というより誰が船を放り込むのか、という話である。
「流れに身を任せるのも危険、か」
この状態で滝に飲み込まれると、間違いなく命が足りなくなる。滝壺は深く、一度口腔に取り込んだものを中々放り出さない。
どうするべきか。崖を見てみれば、長く蔦が伸びこの川の近くまで降りてきているのが見えた。あれを使えば崖の上に登れるかもしれない。
左腕だけでのクライミングか。難易度は高いが、この崖に落とされ、視ただけの技術をその場で再現させられるということに比べれば余裕と言えるだろう。
………いつか、あの顔面に拳を叩き込んでやらねばなるまい。
そんなことを思いながら、水から腕を起こし、蔦を掴んで崖を登り始めた。この動作でも力の流動という技術を用いたことは言うまでもない。