届物彼渡
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幾日かの日が流れた後、相変わらずの砂塵が吹き付けるスラム街に小さな声が響く。
「おじさーん、傷おじさーん!早くしないと野菜売り切れちゃうよー!」
「ああ、分かってるよ。………あ、ちょっと待ってくれ、まだ足の調子が悪いんだ………」
「お酒の飲み過ぎじゃない?つーふーっていうんだよそれ」
「………いいわけのしようもない………」
声の主は幼い少女だ。その少女をゆっくりと足を引き摺りながら追いかけているのは、左目を喪った顔面傷だらけの男。
二人の手には空の籠が携えられ、これから市場に行くのであろうことが理解できた。
「ハシン、そっちの格好だと本当にかわいいですねぇ………襲っていいです?」
「殺すぞ」
衛利のいつも通りの戯言に対し、無感情に言い捨てると静かに人通りの少ない通路の景色に紛れる。
今の俺は奴隷の姿だ。スラム街は逃げてきた奴隷なども存在するため、奴隷姿の人間が歩いていても咎められることは薄く、すぐさま問題になることも少ない。
もちろん、人間的に舐められるというのはあるがな。スラム街ですら奴隷は最下層の身分だ、溜まった性の処理のために使い潰されるということもあり得ないことではない。
頭の上にのった、ズレかかった果物の入った籠を手で押し、安定感を取り戻させると二人の痕を追いかけた。
「それにしても私も変装ですか………最近よく化けてる気がします。あは、新鮮です」
「忍者ならば忍者らしく潜め。そして姿を変えろ。お前はあまりにも戦闘に特化しすぎている」
戦場ならそれでいいだろうが、平時での暗殺者となるとそれでは困るぞ。
まあ、あの隊商にずっと所属しているのであれば隠密の技術を学ばなくてもいいのかもしれないが、出来ないよりは出来たほうが良いだろうに。
「あの傷のおじさん、放り捨てていった家の人たちといい関係を築いているようですね」
「そのようだな。アッタカッラの方も世渡りが下手なだけで個人の能力は高い。医者の家であれば重宝される知識もある。冷遇は受けないだろう」
この時代に薬草を始めとした医療の知識があるというのはそれだけで重用される。アッタカッラからしてみればその知識ゆえに娘を殺されたので素直に喜べはしないだろうが、生きていくのであればなんであろうと使うしかない。
「で、どう渡すんですか?」
「………別に特別なことなど何もしない。分かりやすくあいつの目の前に転がすだけだ」
前に垂らした白髪の下の赤い瞳で、アッタカッラを先導する少女の姿を捉える。
ふむ。申し訳ないが、あの少女に少しだけ、体勢を崩してもらうか。もちろん怪我などさせないが。
早足に。しかし人の意識の外側を歩むため衛利以外は俺が早足になっていることになど気が付いてはいないだろう。
―――人間の視界の外からもう少しだけ。その領域は人間が周囲の状態を感じ取れる距離である。
視た景色からどれだけがその感知距離なのかは個人差があり、鍛えれば俺や衛利、そして”長老たち”のように遥か遠くまで認識可能になるわけだが、一般人は精々が視界から数メートルが限界だ。さらに言えば、意識が特に薄れる背後であれば数十センチにまで近づいても気が付かれない。
歩く時にはその距離を意識すると、接近に気が付かれにくくなるのである。影が薄いといわれる人間は無意識にこの外側を歩いていることが多い。人間性の問題だろう、人に近づく際に認識の外からのルートを取ることが多いためだ。
と、話が脱線したか。
「………悪いな」
小声でそう呟くと、そっと元気よく歩く少女にぶつかる。
軽い衝撃と共に少女が手に持っていた籠が飛び、それを衛利が地面に落ちる前に掴んでいた。
少女が転倒し、俺がその下敷きになるようにして倒れ込むと、すぐに顔を上げて………といっても目線が合わない角度で………少女に謝った。
「モウしわけ、ありま、セン………」
「あ、私こそごめんなさい!」
飛び散った俺の籠の果物類もかき集め、元に戻すと少女に向き直る。背後を見ればアッタカッラが足を引き摺ってこちらに急いでいるのが見えた。
「………あ、コレ。オトシ、ました、よ」
「ふえ?なにがー?」
薄く微笑むと、少女に指輪型のペンダントを握らせ静かに頭を下げる。
―――ペンダントの蓋は開いておいた。
「はい、どうぞです♪」
「お姉さん、ありがとー」
「ええ!ふふ、可愛いですねぇ………ふふふふ」
唇の形だけで「気持ち悪いことを言っていないで帰るぞ」というと、すぐにその場を離れ、再び人の認識の外側へと退避する。
「ミズラ、大丈夫か?」
「うん。………あ、おじさん。なんかこれ渡されたんだけど………なんだろねー?」
「ん、どれどれ―――ッ?!」
………その光景を、清らかなる道を歩まない二人の暗殺者は静かに見守る。
人間は驚いた時、それがあまりにも感動するものであっても涙は流せない。ただ、ただ静かにそれを眺めるだけだ。
「ユランの………ペン、ダント………」
茫然とアッタカッラが呟いた後に、ようやく涙がこぼれ始める。
懐かしきもの、もう見ることは無いと思っていた、しかし決して戻ることのないそれをみて。
遺産、とはまさに言葉通りだろう。遺し、そしてまた新たにそこから一歩を踏み出すための導となる。
「おじさん?泣いてるの、大丈夫?」
「………ああ、なんでも、ないさ。ただ―――ただ、頑張ろうって、思っただけなんだ………」
「?よくわかんないけど、頭撫でてあげるね」
男が静かに涙を落とし、それを少女が慰める。
人通りの少ないスラム街でなければ人目を集めたであろう光景だが、しかしもう男を咎めるものは誰もない。元凶たる獣と化した男は、既に泥へと溶けたのだから。
「………王を名乗った阿呆がいなければ存在しなかった光景か。なかった方が良かったのだろうが」
「死者は死者ですからね。娘さんがいなくなったこと自体は悲しいでしょうし。―――ま、実際私にはあまり関係ないんですが」
「本質的には死者の事など当事者と被害者以外誰に関係など在るものか。それに関係性を見出し、複雑にしてしまうのが人間だろう」
暗殺者という命を単純なるものとして扱う俺たちですら、その頸木からは逃げられん。
命に金銭価値を与え、命による行為に悪と正義を与え、それを罰し、時には殺す。
人の世は生物の世とは違い、複雑怪奇だ。
―――だからこそ。故にこそ。命を刈り取る俺たち暗殺者には、誰を何のために殺すのかを………殺戮の理由を明確にする必要があるのだから。
「これで用事はすべて終わりだ。帰る」
「そうですね、私もお祖母ちゃんのところに戻ります。………では、またです、ハシン」
「ああ。それではな、衛利」
別れなど簡潔でいい。どうせ今生の別れではないのだからな。
………さあ、次の仕事だ。