霧の壁
いつもながらに思うけど、やはりこの豪奢で広すぎる部屋というのは落ち着かない。ベッドはどれだけ大きくて豪華でも素晴らしいとしか感じないのに、不思議なことだ。
つまるところ僕は結局、庶民で、それでいて怠惰だと、そういうことなんだろう。
先日の件で一層僕への評価を上げたらしいファルじいの言葉を枕に顔を埋めながら半ば無視し、そんなどうでも良いことを思考した。
「……ですから、やはり戦争で」
はぁ、こんなことならば迂闊に「野菜に飽きた」なんて言わなければ良かった。
確かに、肉も魚もない食生活に辟易していた事は認めるが、それでもファルじいに聴く限りでは国民の飢えはかなり解消できているらしいし、順風満帆とは言わなくとも、それなりに上手いこと怠惰に過ごす条件は整い出していたのに。やっぱり求めすぎるのもいけないね。強欲というやつかな。自重しよう。
でも人間、肉も魚も食べないと健康を損なう恐れがあるんだよね。ということはやっぱり必要な事だから強欲でも無いのかな……ってどうでも良いやそんなこと。
「この国に無いのですから、やはり一番楽なのは他国から奪うことでしょう」
「なに物騒なこと言ってるのさ……」
「おや? 聴いていらしたのですか? てっきり眠っているのだと思っていましたが」
眠ってると思ってる人にそれだけ一生懸命話していたのか。凄いな君は。
「まぁ、話半分にね……この国には魚のとれる湖も、家畜もないから、その設備を奪おうって話でしょ?」
「……本当に聴いていらしたのですね」
失礼な奴だな。
「と、言ってもだね、君。国の食糧難は現在なんとかなったとはいえ、この国は戦争なんか出来るほど復興したわけじゃ無いじゃない」
「戦争では御座いません。あくまで戦争で御座います」
一緒じゃないの。
「戦争は、あくまでもゲームです。遊びです。戯れです。ギャンブルなのです。ベットする物さえ考えれば、私どもで十分なのです」
「へぇん。例えば?」
「例えば領地……国の全てを賭ける、真の意味での戦争を起こすとしましょう。勿論ここで負ければ全てがお終いなので、持ち得る戦力全てを投入してきます」
うん。確かにそうだ。
相も変わらずごろ寝している状態ではあるけど、一応頷く。
「ですが、ここで双方に利益のあること……例えばこの国との同盟などを賭けてゲームをします。もし負けても、大罪魔王と友好な関係が築けます。このような場合、わざわざ国力を下げるような真似は致しません。つまり、この場合の戦力は極々少ない物となります。そうすると、私どもでも勝てる可能性が出てくるのです」
「ふぅん。良く分かったよ。ありがと」
つまりは兵力と財力と相談して、計画的にゲームを致しましょうと、そういうことね。
現在、怠惰の国の戦力は、一応なんとか闘えそうなファルじいと、それと、これまた一応闘える僕。以上。
「さぁ、訊こうかファルじい。この戦力で何が狙える?」
「勝つことまで考えるなら、石ころぐらいですかね」
見事に詰んでるなこの国。
馬鹿じゃないの? 君はそんな無駄な事を延々と僕に聴かせていたのか。尊敬に値するよ。
「ですが魔王様。多少は危ない橋を渡らねば、国の復興など有り得ませぬ」
そう。そこだ。問題はそこなんだ。
この国の状態じゃあ、いずれは水すらも自由に手に入らなくなる。そうなると詰みだ。終わりだ。僕達の命は、既に風前の灯火。どうしようもなくチェックメイト。
大変面倒なことに、僕は生きたい。だからやっぱり。
「……やるしか無いようだね」
「……はい」
溜め息混じりに呟くと、ファルじいが神妙に頷く。
そう、結局のところ、僕が怠惰に過ごす為には、多大な労力を要すると、そういうことなんだろう。
これから浪費する体力のことを思って、僕はもう一つ大きく息を吐いた。
魔王様は何もせずとも良いのです。
その言葉の通りに、とはいかないまでも、ファルじいがそうしようとして努力しているのは分かる。現に、戦争を仕掛ける相手を決めるのはファルじいが全部やってくれるらしい。必ずこの国の利益となり、それでいて勝てる可能性の高い国を選んでくれると、そう言っていた。
僕はといえば、ファルじいが働いているのに眠っているのも具合が悪くて、なんとこの異世界に来て初! 街へと下りてきていた。
「異世界、ね」
青い空。眩しい太陽。たなびく雲。
どうもこの変わらない空を見上げていると実感が湧かない。スウェットでも歩けるこの陽気は気持ちが良いものだけど、魔王の街だというのに、拍子抜けかな、のどかな物だ。
でもやっぱり、視線を下に下ろすとここが僕達の元いた世界とは違うと分かる。
獣の耳や尻尾の生えた獣人に、耳の長いエルフ、背の異様に小さいドワーフだとか、まぁ、なんだろ。頭可笑しくなったんじゃないかと思うくらいファンタジーな光景が広がっている。巨人もいたくらいだし、ファルじい自身獣人だから、慣れてきてはいるようだけど。
「ん~……ふぁ……」
背筋を伸ばして欠伸を一つ。
涙の浮かんだ目を擦りながら思う。
こうして欠伸を出来る位には、この国の人々は幸せそうだ。ファルじいに聴いていた程、国の状態は悪くない。裏庭に積まれるようになった野菜のお陰なのかな。
石畳の床を駆ける子供達も、石で出来た家屋の影で話し込む主婦らしき人々も、仄暗い路地裏に座り込む悪そうな人も、笑っている。
笑える余裕が出来ている。貧困から救われて、笑っている。だけど、水が無くなれば笑わなくなるだろう。再び生きるのが辛くなれば、笑顔ではいられないだろう。
この眠くなる光景が失われると思うと、寝つきも寝覚めも、悪いな。欠伸も出来なくなるんだろうな。
「……勝たなきゃ、だなぁ」
眠れなくなるのは、ごめんだ。それは何より嫌だ。眠るのが辛くなるなんてそれこそ死にたくなる。
闘いたくもないし、実際のところそんなに勝敗にこだわってもいない。僕自身は本当はどうでも良い。だけど勝たなきゃ、いけない。
やりたいことと、やらなきゃいけないことが合致するなんて早々ないし、逃げたい選択肢はそれこそほぼ無限にあるけど、逃げられない選択肢はそれと同じくらいにある。選択肢が多すぎると迷って面倒くさいのに、選択肢が一つでも面倒くさいんだから始末に負えない。けれども一つしかない選択肢は、決まってやらなきゃいけないことだ。
結局僕は、勝つしかない。
「……まぁ、その辺はファルじいの手腕にかかっているのだけれど」
なんとか僕達でも勝てる相手を見つけてくれないと。知識のない僕には祈るしかできない。
「なんまんだぶなんまんだぶアーメンっと……お?」
罰当たりな祈りをしながらあっちへふらふら、こっちへふらふら、歩きに歩くと、石畳が途切れた。
足の裏から伝わる硬質な感触が、柔らかな物になる。背の低い芝がずーっと続く並木道だ。木々が少し暑いくらいの陽光を遮って気持ちいい。
そのまま歩いていると、ぽつんとベンチが置いてあるのが目に入った。
丁度半分に白と黒に塗られている。どういう意図があってそうしているのか分からないけど、まぁ、良いや。座りたかったし。
「ん……しょ」
おぉ……これは、良いなぁ。
風に揺れる木々のざわめきが耳に心地よい。木漏れ日が美しい。目を閉じると、途端に眠くなる。ここは、良い。最高とまではいかないが、それに手が届きそうなほどに、良い。
横になる。あぁ、素晴らしい。なんということだ。素晴らしいぞ。ベンチの長さは僕の背丈より少し大きいくらい。完全に僕の身体を抱き留めてくれた。
……眠い。どうやらここまで歩いてきたことで、自分でも気付かない内に疲れていたみたいだ。いやいや、でもファルじいが頑張って働いているのに僕だけ寝るなんてもってのほかだ。プライドが許さない。僕は絶対に寝ないぞ。
そしてやっぱり、僕は寝た。
目を覚ましたのは、多分身体を撫でる風が少し冷たかったからだろう。夕方になるかならないかという、そんな微妙な時間帯だけど、日の余り射さないここだと、この時間で最早肌寒いらしい。
今度は毛布でも持ち込もうか。
そんな事を考えながら、欠伸と同時に目を開ける。
「おはよう」
「……あ、おはよう御座います」
あれ。まだ僕は夢の中らしい。参ったな。可愛い女の子に挨拶されちゃったようふふ。
目を擦る。目を開ける。
「……おはよう?」
やっぱり見えるなぁ。こてんと首を傾げる仕草がベリーキュートな、幼女が。
幼女だ。幼女がいる。完膚無きまでに絶望的なまでに否定しようが無くどうしようもなく、幼女だ。何度でも言おう。幼女だ。
朝霧を彷彿とさせるぼんやりとしたプラチナの瞳に、天の川のような銀の長髪。小さく、起伏の乏しい体躯に、薄い唇、樹氷のように、透き通っていて長い睫毛。その美貌は、乏しい表情も相まって、お人形さんのよう、という形容詞が相応しい。
なんと言おうかな。そうだね、絶世の美幼女。もしくは傾国の美幼女とでも呼ぼうかな。とにかく将来が楽しみな子だ。
そんな子が、雨も降っていないのに雨傘をさして、長靴を履いて、そこにいた。僕をガン見していた。
なにか用だろうか。考えるのも面倒で、僕は訊いた。
「……お兄さんに何か用かな幼女ちゃん」
「たいほ」
はい?
カシャン!
疑問を口にする間もなく、為すすべもなく、僕の両手は妙に機械的な手錠に捕らわれていた。
おいどこから出したんだ幼女。
「え、ちょ……」
「そこ、ミラの国。あなた、密入国。犯罪。たいほ」
ふんすっ、と鼻を鳴らして幼女は言う。
その作り物めいて綺麗で真っ白な指は、僕の寝転がるベンチを指していた。もっと言えば、半分に塗り分けられたベンチの、白い方を。
な、なんということだ。つまりこのベンチは国境に跨がって存在していて、黒い方が僕達の領地で、白い方は別の国の物だと、そういうことだったのだ。
「ご、ごめんよ。知らなかったんだ。お願いだからこの手錠外してよ」
「無駄な抵抗は止めたほうが良い。それ、逃げようとしたら電流が流れる。即死」
「なんでもするから外してつかぁさいっ!!」
なんてもん付けてやがんだこの幼女。
「出てく」
「はい! 出て行きます!」
眠っていた状態から起き上がり、ベンチの黒い方へ。
「ん、許す」
「あざっす!」
幼女が投げて寄越した鍵を、苦労しつつ手錠に差し込む。
ガシャッ!
とれねぇ。
「とれねぇっす姉御!」
「……あれ?」
おい。
「あれってなんだ? あれって何なんだいお嬢ちゃん!」
「ちょっと待つ……これじゃないこれじゃない……」
ガサゴソと服をまさぐる幼女。
ぽろぽろぽろぽろ螺子やらドライバーやらが次々出てくる。どういう原理だ。
「……無い」
「冗談でしょ!?」
「失礼。ミラ本気」
「嘘でしょ!?」
「ミラ本気っ」
嘘つき扱いは心外だったらしい。僕の場合心外どころじゃなくて実害が有るんですけど。
「……仕方無い。ミラ造る」
は? つくる?
それこそ冗談でしょ?
言おうとした僕の耳に届く、無機質な声。
『能力確認。《機械仕掛けの氷姫》』
幼女の手の中で、青い火花がスパークする。
バシィッ! という放電音に僅かに顔をしかめた途端、幼女の手には、明らかに先程まで存在しなかった鍵が握られていた。
「これで外れる」
「あ、ありがと」
幼女の言うとおりに、手錠はいとも簡単に外れた。いや、鍵さえ合えばそれは当然なんだけど、驚きなのはそれを造ったことだ。材料も何もなしに、この一瞬で。
明らかに異能。説明の仕様もなく異常。
分かり切っていた事の筈なのに、僕は改めてここが異世界なのだと意識した。こんな小さな子でも、武器もなしに闘うための力を持っている。むしろ武器そのものと言っても過言じゃない。それが当たり前。
当たり前の相違が、常識の欠如が、僕を、違う存在なのだと知らしめる。
「お礼、いい。名前、教えて」
「……ん、あぁ。名前?」
「そう」
「人に名前を訊くときには自分から名乗れって、お父さんやお母さんは教えてくれなかったのかな?」
別に名前くらい良いのに、自分でもそう思うけど、僕はまぁひねくれているので仕方無い。
果たして幼女は、虚無な表情を僅かに歪めた。真っ白な頬に赤みが差す。ぷくりと膨らませて、林檎みたいにしてから言った。
「……お父さんとお母さんは、知りたいことは拷問して聞き出せって言ってた……」
「遠羽真っていうんだっ! 他に訊きたいことがあればなんでも話してあげるよ!!」
こっ、怖ぇぇええええ!!
「……? オチバ……オチ? シ……?」
「あぁ、言い辛いかなっ? シンで良いよシンで!」
「……シン」
「はいはい!」
幼女は、噛みしめるように言う。忘れまいとするみたいに。
「シン」
「はい!」
「シン、シン」
「なになに?」
「シンシンシンシンシン」
しつけぇ。
「ゲシュタルト崩壊する前にやめよう。うん」
「シン」
「だからやめなさいって」
「私、ミラ」
ん?
「ミラクラスタ=ミストドール」
どうやら自分の名前を教えてくれたらしい。
ミラクラスタ=ミストドール、ね。覚えたよ。
「綺麗な名前だね」
「……照れる」
率直な感想だった。お世辞なんて僕は言えない。あんなにも大切そうに僕の名前を呼んでくれたこの子へのお礼みたいな感じで、僕にしては素直にそう言った。
それだけの事なのに、頬を染めて、ほんのりと笑うその子は、本当に可愛い。
人形みたいなんて言った事を少し後悔した。この子はこんなにも感情豊かで、きっと僕なんかより人間らしい。
「ミラって呼んで良い」
「そっか。ありがとミラ」
ミラは僕の隣に座った。国の境と境で、僕達は並ぶ。
「寝る」
「おやすみ」
「寝るっ」
「僕かよ」
そんなこと言ってまた逮捕する気じゃ無いだろうね。
じろっと睨んでみたけれど、ミラは動じない。ちくしょう。幼女の癖に。
だけど大人しく寝る。怖いもん。がっつり密入国だけれど良いんだろうか。
そう思っていたら、ミラが僕の懐に収まった。上目遣いに僕を見て、満足そうに息を吐く。
「み、ミラ?」
「おあいこ。これで問題ない」
問題ない……のかなぁ?
大丈夫? これ。僕端から見たら犯罪者じゃないの? 幼女を抱き締めながらベンチに寝転がる変態だよね?
お、落ち着かない。全然落ち着かないぞ。別に僕はロリコンでもなんでもないのにイケナイ事をしてる気分になる……あぁ、でも幼女って温かいんだなぁ。丁度良い。このままもう一眠りしても……
「「姫!!」」
「ごめんなさい許して下さい僕はロリコンじゃないんです!!」
若干目覚めそうでは有ったけれども。
こちらに走り寄ってくるのは、二人の男だった。どちらも真っ青な長髪を三つ編みにしていて、執事服を来ている。
「こんな所にいらっしゃったのですか!」
「ほら、帰りましょう」
どうもお迎えが来たらしい。予想はしていたけど良いところのお嬢さんだったんだなぁ。
「ん。じゃあバイバイかなミラ」
だけれど、どうも様子が可笑しかった。
ミラは僕の腕を一層強く抱き締めて、悲壮な顔で首を左右に振った。明らかに、帰りたがっていなかった。
「ミラ……? ほら、帰らなきゃ」
「……いや……いや……」
このまま帰しては、いけない気がした。
「……なんだキサマ。姫を離せ」
気付けば僕は、彼女を護るようにして立ち上がっていた。背後に彼女がいるというだけで、ここは退いてはいけない気がした。
「うん……そうしたいのは山々なんだけれどね」
鋭く尖った、氷の刃みたいな青い瞳を睨み返す。
『能力発動。《無限の不条理》』
「どうもこの子が離してくれないんだよ」
帰りたくない場所になんか帰らなくても良い。
居場所は、帰りたいからこそなんだ。そこにいたいからこそなんだ。そこが苦痛しか与えないのなら、そんな場所、無くなってしまえば良い。
「「ほう……?」」
ビリッと、全身が震えるような感覚。肌を刺すような冷たさ。冷や汗が流れる。
でも、怖くない。巨人を倒した事実と、この右腕のくれる全能感が、僕に自信をくれる。
「「食い殺すぞガキ……!!」」
「……やってみなよ」
二人の男の髪が逆立つ。僕の右腕が黄金の魔法陣を纏う。
殺気と殺気がぶつかり合い、大気が揺れる。
一触即発。
「だめっ!!」
だけど、そうはならなかった。
ミラが、僕から離れて叫ぶ。
膨らんだ空気が、しぼんでいく。
「帰る……帰るから……やめて……」
ミラが、二人の執事の足元に駆け寄る。二人の手を握って、向こう側へ……白黒のベンチの、白い方へと歩く。歩いていく。
「ミラっ!」
「……シン。ばいばい」
振り返って、笑顔で手を振る彼女は、霧みたいに不明瞭で、掴み所が無くて、儚くて、壊れそうで……
「………………」
だけど、結局僕は何も出来なかった。
もしかしたら、ただ仲良くなった友達ともう少し遊びたかったとか、そんな事なのかも知れない。
きっとそうさ。僕が想像していることなんか有りはしない。彼女はちょっと寂しくなっちゃっただけさ。
「……はぁ、なんなんだろ」
なんなんだろう。このどうしようもない気持ちは。
異世界にきて、僕はどこかおかしい。あんなにも波風の立たなかった凪いだ心が、揺れて揺れて仕方無い。
ビビってるのかな。僕。慣れない場所にきて、見たこともない現象に遭遇して……
国境に立ってみる。白と黒の境。僕と、ミラとの壁。
「……帰ろう」
踵を返す。
僕は、国境を越えることは出来なかった。