甘さ
腕輪からの声を聞くや否や、僕は来た道を全力で引き返していた。
何故だか今の僕は、誰にも負ける気がしなかったのだ。
右腕を中心に、全身から力が湧いてくる。
今なら空だって飛べそうだ。大地だって割れそうだ。
巨人を、ぶっ飛ばしてやれそうだ!
走りながら、思い切り息を吸った。今尚、その巨大さ故に木々に隠れることもないその巨体に向けて、僕の言葉の大砲をぶつけるために。
「このっ……木偶の坊ぉおおおおおおっ!!!」
わっと声は波になって広がっていく。
木々がガサガサと揺れた。
辺りをしきりに見回していた巨人は、ぴたりと動きを止めて、そして緩慢に振り向く。
「……魔王」
「あぁ、そうさ! 僕がこの国の王、遠羽真だ!! シン=ベルフェゴールだ!! よくも僕の国で暴れやがって……これから僕がするのは、闘いじゃない……」
息が整っていく。集中力が高まっていく。五感が鋭くなる。
木々のざわめき。息を潜める生き物達。風の音。大地の声。全部を感じる。
この感覚は、バッターボックスに立って、ピッチャーと対峙した時にも似ていて、そしてそれ以上に、研ぎ澄まされた、勝利の感覚。
「ーーーー処刑だよ。木偶の坊」
「ッ……魔王ぉぉおおおおおおおおッッ!!!!」
来る。
集中しろ。一瞬も気を緩ませるな。恐怖するな。勝てる。信じ込め。
僕は……勝てる!!
『能力確認。《進軍すること山の如し》』
「ッぉおおおおおお!!!」
咆哮は、恐怖をかき消すのに絶大な効力を発揮してくれた。
冷静になった頭脳が、僕を襲う危機を正しく察知する。
迫り来る木々の暴力。大自然の力。
人間が勝てるわけない、絶対に抗えない理の力。
だけど、今の僕は人間じゃない。
そうだ。僕は理になんか縛られない。僕は。
「魔王だ!!!」
『能力発動。《無限の不条理》』
叫ぶと同時、右腕の力が爆発した。
今までせき止めていた一杯の水が、ダムが壊れたことで一気に解放されたみたいな、そんな圧倒的な力を感じる。
僕の右腕から、理不尽な運命をぶち壊す力を感じる!
「しゃらーーーーーーー」
右腕を振るった。
僕の右腕は黄金の幾何学模様……黄金の魔法陣を纏って、空を切る。
「ーーーーーーーーっくさい!!!」
爆裂する大気。
文字通り消し飛ぶ木々の暴力。
地盤をめくり、大樹を根刮ぎえぐり取る空気の奔流。
空気はそのまま直進し、僕より遥か大きな巨人の身体を、僅かだけど揺らして見せた。
「むぅぅ!!?」
「えぇえええええええええ!!?」
驚く巨人だけれど一番驚いたのは多分僕だ。
「え、ちょ、マジかこれ。なんだこの力怖っ」
だけど狼狽している暇はなかった。巨人は僕が冷静になるのを待ってくれなどしない。
次々と襲い来る植物達。
舞い散る木の葉は全てが刃。
飛び交う枝は全てが矢。
時には大樹そのものが生物のように動き回り、僕の胴ほどもある枝や根で僕の命を容赦なく刈り取りに来る!!
「おぉりゃッッ!!!」
だけど僕も負けてはいなかった。
木の葉や枝は腕を振るって吹き飛ばし、大樹の根や枝は、拳で真っ向から殴り壊した。
分かる。分かるぞ。この力の使い方が分かる。
考えるだとか、そんな領域じゃない。無意識下に刷り込まれた原初の記憶のように、頭より先に身体が動く!
「魔王ッッ……魔王ぉぉおおおおおおおおッッ!!!!」
ここだ。
「隙が出来てるよ」
僕は右手で両足にタッチ。
浮かび上がる魔法陣。疲れなんかはとうに無い。枯れ枝みたいに動かなかった足は動く。そしてこの力が有れば、誰よりも速く僕は走れる!
トンネルのように、一直線に空いた攻撃の穴。一瞬有れば閉じてしまうだろう。
だけど今の僕は、その一瞬を越えていける!!
「おぉぉっ!!」
冗談みたいな速さで僕は巨人の足下へと到達していた。
そして、勢いもそのままに、僕は拳を振り上げる。
拳を覆う黄金の魔法陣。一つじゃない。三つだ。
この巨人をぶっ飛ばすのには一つじゃ足りない。
分かる。分かるんだ。この魔法陣が僕にどんな力をもたらすのか。どの位の力が有れば、僕はこの巨人に勝てるのか。
勝てる。勝てるぞ。
「僕は君に勝てる!!」
思い切り拳を叩きつける。魔法陣が弾けて、粒子が流れ星みたいに飛んでいった。
大凡それは殴打の音ではなかった。ドバン!! と、それこそ耳元でダイナマイトでも炸裂したみたいな轟音を響かせて、苔と土で汚れた足に、僕の右腕が思い切りめり込む。
「倒れろ!!」
振り抜く。
驚くほど重さは感じなかった。何の抵抗もなく、その巨大な足は地面を滑って、その巨体が宙に投げ出される。
「う、うごぉぉぉぉおおおおおおおおッッ!!!?」
困惑と焦り、驚愕の悲鳴が、巨人の重さで崩れる山の悲鳴をかき消した。
仰向けに倒れ伏す巨人の驚嘆の顔を見下ろすのは、それなりに気分が良かった。
そう。見下ろすのは。
「何も出来ずに地面に這い蹲る気分はどうだい?」
遙か上空。黄金の魔法陣を纏いながら、僕は飛翔する。いや、勿論そんな力はない。強化された脚力で、思い切り跳躍しただけだ。
「見下ろされる気分は? これから殺されると恐怖する気分は?」
静かに。淡々と。言葉を紡ぐ。
見下ろされた事も、死の恐怖を感じたこともないであろう巨人をそんな目に会わせたことで、多少は溜飲が下がった。
だけどやっぱり。
その面をぶん殴らないと、僕の怒りは晴れそうもない。
「う、うぉおおおおおおおおおおぁああッッ!!!!」
巨人が拳を振り上げる。迫り来る巨腕は、やっぱり山が迫ってきているようにしか見えなかった。
ちっぽけな人間を押し潰す、大自然の脅威そのままだった。
だけど僕は空中。逃げることなんか出来やしない……逃げる気なんて、さらさら無いけど。
「おぉッッ!!」
これが最後だろう。
だけど油断なんかしてられない。消えかけの蝋燭が一際激しく燃えるように、命の危機に瀕した時こそ、力が出るものだ。
油断など微塵もなく、傲慢など見る影もなく、憤怒すらも今は忘れて、僕は拳を振り上げる。
容赦も慈悲も、してあげないよ。そんなの面倒だから。なんといったって僕は怠惰の魔王だから。
キィンキィンキィン!! と、甲高い音を立てて、黄金の魔法陣が五つ、僕の拳に纏わりつく。
激突した。
「おぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおッッーーーーーーーー……」
どう足掻いたって埋められようのない質量の差を、腕力だけでカバーする。
吹き飛ばない。吹き飛ばされない。吹き飛ばされて、たまるか。
「ーーーーーーーーッッぁあああああああ!!!」
押し切った。僕が勝った。
巨人の腕がはね飛ばされて、地面を思い切り打ち付ける。
だけど、僕は勢い余って体制を崩してしまった。巨人の顔面は目の前だ。このまま殴ったって威力はたかがしれてる。もう一度ジャンプするチャンスなんて無いだろう。巨人は地面につく前に僕を捕らえるはずだ。そうなったら、終わりだ。
そうやって思ってるから、安心した顔をしているのかい? 君。
「んんんぁあっ!!!」
流れた身体に逆らわずに、そのまま身体を捻った。巨人に背を向ける。右手で左手の甲にタッチする。
本当は、飛び上がる必要なんてなかった。
倒れたその身体に一発ぶち込んでやればそれで良かった。
だけどそれじゃあ気が済まなかったんだ。
見下ろして、地面に這い蹲らせて、理不尽な運命を砕かなきゃ気が済まなかった。
巨人の顔面をぶっ飛ばさなきゃ、気が済まないんだよ!
「ぶっ飛べぇぇええええええッッ!!」
渾身の一撃。会心の手応え。
回転の勢いを利用した裏拳は見事に巨人の頬に炸裂した。
「……!? ひ、左……!?」
訳が分からない? 予想外? そんな顔をしているね。それはこっちの台詞。こんな限り無く浅く、短い付き合いで僕のことを知ったつもりになっているから、予想外なんて事が起きるんだ。
「残念だったね……僕は左利きなんだ」
目と目が合ったのは、多分奇跡だ。紙屑みたいに吹き飛ぶ巨人に、僕が見えたかどうかは怪しいから。
なにはともあれ、すっきりした……って。
「そっ、そういえば着地どうしよう!? あっ、ちょっ、タンマ!! わぁぁああっ!!?」
地面に背を向けたまま自由落下。あ、ちょ、これマジで死ぬ。死ぬ。死ーーーーーーーー……
「だっ!? あ、いたっ、痛い! ちょっ!?」
枝が、枝が痛い! ちょ、痛い痛い! いたたたた!?
「がふっ!?」
い、いった……ぁ。
で、でも助かった。あれだけ散々僕のことを痛めつけようとした木々に助けられるとは、なんという皮肉か。
か、身体中が痛い。どうやらアドレナリンが切れたみたいだ。疲れたし痛いしもうやだぁ。
「ふぅ……いたた……あー、動きたくない」
そう言いつつも、僕は立ち上がってよろよろと歩き出す。一歩歩くごとに身を切られるみたいな鋭い痛みが走るけど、我慢我慢……涙出てきた。
そして、巨人の元へと辿り着く。ピクリとも動かないその身体によじ登り(超身体痛い)、バスケットボールみたいな目玉を覗き込む……怖っ。ちょっと後悔した。
「……起きてるかい?」
「……殺せ」
どうしよう。この人言葉が通じない。
「お前も魔王なら、自分に逆らった奴を許したりするな。容赦するな。女を殺せ。子供を殺せ。全部奪え。欲に正直になれ。躊躇するな」
「怖いよ君……頭でも打ったの……?」
僕が殴ったんだけど。
「ふん……俺の友もそうやって国を大きくしたんだ。自分を殺す奴に助言するくらい、別に良いだろ」
「ふぅん……そうなんだ。ありがと。でも別に聴く気は無いよ」
だって僕は。
「君を殺さないしね」
「……なんだと? ふざけるなっ、殺せ!!」
「やだよ面倒くさい。君ね、僕は身体中痛いの。そんな中で君みたいにデカい奴にとどめ刺すなんて絶対大変でしょ。で、僕はその君の友とやらと同じ生き方はしないよ。やっぱり面倒だからね」
「……………」
「で、えぇと……何しようとしたんだっけ……あ、そうそう。君、ファルじいは? あの犬のお祖父さん」
「……殺した」
「あ、そう……なんだ。うん。そっか」
「憎いか。なら殺せ」
「んじゃ、帰るよ。痛いし疲れたし、寝たいんだ」
「なっ、待て!!」
待たない。
巨人の静止の声を無視して、比較的下りやすそうな足の方へと向かう。
「ん……」
ある一点の地点で、足を止める。
振り向いて、言う。
「君」
「……なんだ」
「君のお腹は、暖かくて眠りやすそうだね……ハハ。ごめん。それだけだよ。じゃあね」
「!」
マイナスイオンというやつかな。どことなく落ち着くよ……あ、や、あぁ、ベストプレイスの事を思い出したよ……はぁ。あー、帰ろう帰ろう。帰って僕は寝る。
「……待て」
「待たないよ」
しつこい男は嫌われるよ……っと。いたた……はぁ、足の方に来て正解だった。
そのまま城の方へと歩き出す。
「嘘だ」
「はい?」
「……俺の友は、お前みたいに甘ったれた奴だった」
「あっ、そ」
今度こそ城へと歩き出す。
巨人は、それ以降一言も喋ることはなかった。
「魔王様、起きて下され魔王様!!」
「……んだよ!!」
君はいけないことをしたぞ。一番やってはいけないことをした。僕は人に起こされるのが何より嫌いなんだ! いや、何よりって確信を持って言えはしないけど、間違いなく候補に入るくらいには嫌いだっ!! って。
「なんで生きてるのさ!?」
「ほっほっ! 運が良かったように御座います」
「いっ、いや、そんなっ……っはぁ……」
ま、まぁ……良いか。朝からこのテンションは僕らしくない。あぁ、全くらしくない。というか、なんだろ。
「……生きてて良かったじゃない、ファルじい」
「そんなことよりご覧下され魔王様!」
「そんなことより? 君ね……って、僕の寝室に大量の野菜を運び込んで君は何がしたいんだ、おい。だからか。だから今朝の僕の夢は野菜に喰われる夢だったのか」
「………っ!! っ!!」
「笑ってんじゃねぇええ!!」
「ほっほっ……いや、失礼いたしました」
な、なんなんだムカつく犬ジジィめ。君と知り合ってから僕のペースは乱されっぱなしだよ。人生も狂ってるしなっ!
「……それで? なんなのさこの野菜」
「えぇ、はい。裏庭に大量に積まれてましてな」
「ふぅん……親切な人もいたもんだね」
「気に入られたようですな、魔王様」
「はぁ?」
訳の分からない事を言うなよな。この僕が人に好かれる事なんて有るもんか。
僕は好意を向けるのも向けられるのも苦手だ。人との繋がりは煩わしいばかりで、面倒くさい。
第一僕は、こんな大量の野菜をくれる知り合いなんかいない。
「ひとまず食糧難は解決ですな……やはり私の目に狂いは無かったようです魔王様。貴方が私の主で、本当に良かった」
「耄碌はしているようだね犬ジジィ」
「ほっほっほっ! これは手厳しい!!」
期待を向けられるのだって、僕は嫌いだ。
あぁ、面倒くさい。面倒くさい。
だけど僕はやっぱり人間だ。お腹は空くし、眠くもなる。ひとまず、自分で食料と寝床を確保出来ない以上は、その期待に応えるのも致し方ないのかな。
「ファルじい。お腹が空いたよ」
「えぇ。用意しておりますとも」
君が美味しい料理を作ってくれる間は、ここにいて魔王をやるのも悪くない。
やっぱり、独りで生きるのも面倒くさそうだし、ね。