大地の怒り
ソレが、黄金の瞳をした魔王とか名乗る男と友になったのは、もう百年以上も前の事だ。
怠惰な男だった。いつも周りは慌ただしく駆け回っているのに、その男の周りだけ時間が遅く流れているかのように、その男の息は乱れることが無かった。
強い男だった。男が手を振れば嵐が吹き荒れ、男が怒れば大地が揺れた。
されど、優しい男だった。怠惰で、強い男ではあったが、人の為に怒れる男であり、仲間のためには労力を惜しまなかった。
ソレの姿を見れば人々は恐れるか、疎むか、それしかしなかったのに、その男だけはこう言った。
「お前の腹の上で眠るのは、さぞ気持ちが良いだろう」
恐らくは、その男にとっては何気ない言葉だったのだろうと思う。
だけれど、ソレにとっては、百年以上経った今でも忘れることのない宝物だ。
ソレは、その言葉に、生きる許可を貰った気がしたのだった。
「なぁ、お前の上に乗せてくれ。きっと私はそこを気に入るから」
男は言葉の通りに、ソレの腹の上を気に入った。
それどころか、ずっと山に籠もっていたソレを引っ張り出し、国に住まわせた。人々は最初ソレを恐れたが、ソレの腹の上ではしゃぐ男を見て、やがて人々は自ら歩み寄るようになった。
ソレと男は、自然と互いを、友と呼ぶようになった。
ソレは、男との友情に報いるために、その男の国に様々な作物を与え、国を豊かにした。
いつしか国は大きくなり、人々はその男の事を、こう呼ぶようになった。
大罪魔王怠惰のベルフェゴール。
「フフフ……死ぬのって永遠の眠りとか言うだろう? なら今までと大して変わらんな……まぁ、お前達は暫く来るなよ。私は一人も楽しみたい……」
暫くして、怠惰を極めた魔王は、冷たくなった。
最後の最後まで穏やかに笑って、笑ったままに死んでいった。
怠惰の魔王の穏やかな時の流れは、この時を持ってして完全に止まった。
それでも、ソレの中の友情は色褪せなかった。
友の一族に報いることこそが、この身の使命なのだと信じて疑わなかった。
友の息子は良い奴だった。
病に臥した父と同じく、身体の弱い男だったが、父の優しさを色濃く受け継ぎ、作物を与えてくれるソレへの感謝を、一日たりとも欠かすことは無かった。
怠惰の魔王らしく、停滞したようになんの進展も変化もない国政であったが、それでも国は豊かだったから、名君と言えばそうだったのだと思う。
だけれど、友の孫はクズだった。
「略奪せよ。侵略せよ。この世の全てを私の前に持って来い」
必要以上の富を欲し、国民を貧困に晒し、自らは戦地に一度も赴くことなく、傷付く人々の悲鳴に耳を塞ぎ、ただ欲望に身を沈めた。
けれどソレは、見捨てなかった。
いつか改心する日が来ると信じ、友への恩義と、国民の為に作物を与え続けた。
そう。欲望に溺れるくらいならば、許せたのに。
「思えば、親父とジジィは無能だった。こんなにも力が有るというのに、それを行使しない。宝の持ち腐れだ」
友を馬鹿にされた。
感じたことのない怒りに身が震えた。ソレの怒りは、国全体を揺るがす大地震となった。
作物を与えられることがなくなり、また、地震によって被害を被った国は衰退し、暴君は友に可愛がられていた獣人によって首を噛み千切られた。
だがそれで、怒りが収まることなど無かった。
奴が死んで思うのは、ただただ、この手で奴を殺せなかったという、悔恨の念ばかりであった。
ソレの脳裏に過ぎるのは、友の笑顔の他にもう一つ。
暴君の嗤い。
「我、魔王なり」
ソレは決して、魔王を許さない。
◇◆◇
僕は現在、非常に機嫌が良かった。
犬ジジィ改め、ファルじいと別れ、だだっ広い城内を歩き回りながら、さてどうしたものかと割と真面目に思考を巡らしていたおり、見つけたのだ。
「あぁ、愛してるマイベストプレイス……」
僕が過ごすに最適な場所を。
絶妙な気温。湿度。日当たり。間取り。雰囲気。そして、なんか良く分かんないけど印象とかなんかその辺。
僕の寝室に程近い、奥の方の部屋。
恐らくは倉庫であろうそこだけど、この国に貯めておけるほど物は無い。皮肉だけど、それが全く良いように作用してくれた。
豪奢な城内には珍しい、木目の見えた壁に床の、庶民的な部屋。焦げ茶色のカラーに、この絶妙な狭さと、小さな窓から差し込む日光がなんともグッド。
っべー。マジやっべーわー。何もやる気起きないわー。
良い引き籠もり場所を見つけた。これは良い。これは素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい。幾度連なっても表現できないほどに素晴らしい。
僕は今、猛烈に感動している!
「もうキスしちゃうぜ。あぁ、あぁ!」
ごろごろと転がりながら倉庫にくちづける。
嫌なことが全て吹き飛んだ。それこそ吹き飛んじゃいけないことまで綺麗さっぱり。
「案外なんとかなるんじゃ無いかなぁ……うん……」
危機感だとか、そういう物を半ば僕は失いつつあった。
いや、それはやばいだろ。そうは思いつつも、行動を起こす気が一向に起きない。まるで勉強しない受験生のように。
暫くごろごろと転がっていた僕だったが、やがて部屋の中心に収まった。
ここだ。ここが特に良い。恐らく夕方になれば、昼間に日光を浴びて温もりを溜め込んだ床のお陰で、更に素晴らしいことになるだろう。
「はぁ……幸先が良いな……僕の引き籠もり街道も途切れちゃいなかった」
安心したら、眠くなってきた。
そういえば僕にしては早くに起きたのだったか。加えて、慣れない期待など寄せられて精神的にも参っていた。
身体が睡眠を欲している。
いやいやしかし。僕にはやるべきことがあるのだ。眠るなど論外だ。僕は絶対に寝ないぞ。
そして僕は寝た。
おはよう。
小窓から差し込む、黄金の夕日で目を覚ました。
昔から、どこでも寝られるのが僕の特技だったりするけど、流石に布団も敷いていない木の床で寝ると体が痛い。
先程の自分のテンションを思い出して若干の恥ずかしさを感じると同時に、太陽はこっちの世界でも余り変わらないな、なんて、ぼんやり思った。
身体を伸ばすと、肩や腰から小気味の良い音が響く。首も鳴らそうとしたけど寝違えてたみたいで、一人で暫し悶絶した。
「~~~っ! ったぁ……うはぁ……よく寝たけど目覚めは最悪だぁ……」
明日辺り、布団とかをここに運び込もう。そしてここを寝室にしよう。別にベッドなんかじゃ無くても良い。普通に布団敷けば、それで良いや。
「あとは、カーテンかな……」
昼寝するには、この日光は天敵だ。ある程度それを遮断できるカーテンが欲しい……っと。
あれは……
「ファルじい?」
窓に近づいた時ふと、影の向こうに消えていく燕尾服が見えた。
小窓から見える裏庭……そこから行ける山。そこの小道に入っていくファルじいの姿。
「……こんな時間に裏山に……意味のない行動だとは思えないな……」
眠ったお陰で体力は有り余っている。凝り固まった身体をほぐす必要もある。僕だけ眠ってしまった罪悪感も、まぁ、無くはない。
何か有るなら、手伝った方が良いかな。
「……行くか」
なにしろ、能力の一つも持っていない、推定世界最弱の僕だ。
周りにいる人間の好感度上げは最重要とまではいかなくとも、かなり優先度の高いイベントだろう。
ファルじいの僕への好感度は高いようだけど、それはかなりイメージによるところが強いし、そもそも嫌われている可能性だって有るんだから、ここは生きるためにはサボれない。
「ギャルゲーじゃない世界は辛いね……」
好感度メーターが有れば良いのに。
今日ほど強くそう思った日は無かった。
◇◆◇
ファルガレオ=シルバレットが、ここ、怠惰の国に来たのは、幼い頃だった。
凝り固まった周りの考えや作法に嫌気がさし、何も考えずに国を飛び出したのだ。
国から飛び出せば、ファルガレオを知るものなど一人もいない。初めこそ喜んだが、それは地獄の始まりでしか無かった。
金も身よりもないファルガレオが無事に食っていけるほど、世界は甘くも優しくもなかった。
盗みを働く勇気も、働くための力も無いファルガレオは、今まで嗅いだことのない悪臭のするゴミを漁り、口にしたことのない不味い残飯を貪った。その不味さと言えば、胃が空になる程吐いて、更に飢える程だった。
みすぼらしいファルガレオを、やがて人々はそれこそゴミを見る目で見るようになった。それだけならまだマシだったが、石を投げられ、剣を向けられた時は、流石に命の危険を感じた。
何分幼い頃の話だ。何も考えずに、というのも比喩でも誇張でも無かったのだ。すぐに後悔したが、子供にしてはプライドだけは一丁前で、終ぞ飢えて倒れても、ファルガレオは国に帰ることなどしなかった。
それでも死ななかったのは、あの方に……この後、大罪魔王と呼ばれる事になる、ベルフェゴールに拾われたからに他ならない。
飢えて倒れ、二度と目を覚ますことなど無いと思っていたファルガレオが、まだ生きていることに驚嘆しながら目を開くと、太陽の如く黄金の瞳があった。
「おぉ、起きたか。何を思って飢えて倒れていたのだ? さぞ疲れただろうに。私だったら恐ろしくてそんなことは絶対にやらん。お前はすごい奴だな」
「………………」
「何をしている? 早く食え。腕が疲れる」
冗談っぽく笑いながら、パンを差し出すベルフェゴールに、目頭が熱くなる。
ダムが決壊したかの如くとめどなく零れるその雫に、ファルガレオは幼いながらも胸に誓った。
この身朽ち果てようとも、このパンの味と恩だけは忘れまい、と。
「お、おい! やめろ!! だ、誰のお陰でお前は生きていられると……」
だから、彼の孫を殺すこの身は一生、許されてはならない。
「誰のお陰で生きられているか? そんなこと、決まっておりますとも」
誰のお陰で生き、誰が為に生きるか。
そんなもの、あの日から、一瞬たりとも忘れたことなど無い。
「貴方が無能と罵った、お祖父様のお陰です」
ぐじゅり。
口の端から、赤い雫が球となって落ちていく。
ファルガレオは、この身を捧げると誓った彼の血を、この手で絶ったのだった。
だからせめて。彼の残し、彼の愛したこの国だけは。
今度こそこの身果てようとも、守り抜いてみせる。
だから。
「どうか、この身でお許し願います。山神様……」
長らくこの国に作物を与えてくれていた、山の神。
初代ベルフェゴールとは友であり、ファルガレオとも見知った仲である。
彼が、三代目ベルフェゴールの蛮行に怒り、作物を与えなくなって久しい。日に日に、目に見えて、国は困窮している。
この国の復興には、彼の力が不可欠だった。
だからファルガレオは三代目を、恩人の孫を殺したのに。それなのに、彼の怒りは収まってはくれなかった。
いや、確かにこの国を思っての行動ではあった。しかし、山神の怒りを鎮めようという思惑もあった。そして、上手くはいかなかったのだ。
「もう貴方様の憎んだ男はおりませぬゆえ……どうか、この老体で。貴方の憎き相手を殺したこの身で。許してはくれませぬか」
城の裏山。その大木に、ファルガレオはロープをくくりつけた。頑丈そうな枝にだ。その先端には、引っ張ればきつく縛られるようにした輪がある。
「……怠惰の国に、幸あれ」
そしてファルガレオは、その輪に首をーーーーーーーー……
「なにやってんだぁぁぁぁあああッッ!!」
耳朶を打ち付ける怒号。耳鳴りがするほどの大声に、思わずファルガレオは身を竦ませた。
声のした方を向く。そんな気は無かったのに、向く。誰かは分かっていたが、向く。勿論そこには、ファルガレオが魔王と呼ぶ男がいた。
初代ベルフェゴールと良く似た、男がいた。
「ヴェ゛ーッホヴェ゛ホッッ!! うわ、喉痛っ! 叫ぶなんていつぶりだ全くもう!! あと寝違えた首が痛い!!」
彼はファルガレオのいる大木に手を当てて、肩で息をする。
次いで、キッとファルガレオを見上げて、指を差した。
「疲れるから僕に叫ばせるなっ!! それと寝違えた首が痛い!!」
首に関しては知ったこっちゃなかった。
「おい下りてこい犬ジジィ! なに死のうとしてんだバカ! 君がいなかったら僕は飢えて死ぬだろうが!!」
「ご安心下さい魔王様。私が死ねば、この国は再び豊かになるはずです。貧困に苦しめられる国民も救われるのです。そう、私が死ねば」
「ーーーーーーーー……」
彼が、何か言った。
多分、ふざけるなだとか、そういう言葉だと思うが、聞こえなかったのだから、答え合わせのしようもなかった。
そう、聞こえなかったのだ。この距離で。あの大声で。
大地の悲鳴にかき消されて、何もかもが、聞こえない。
(地震ーーーーーーーーッッ!?)
まるで大地の憤怒。
バキバキと大地が裂け、木々は軒並み倒壊し、空間が捻れるかのように激しく揺れる。
ファルガレオも枝の上に立ってはいられなかった。
受け身をとれたのは多分奇跡だった。無様に地面に這い蹲りながら、身を縮め、ひたすらに耐える。
(一体なぜ……)
この国に地震は少ない。そもそも神々の奇跡に溢れたこの世界で、天災などの現象は大体がそれの怒りに触れた時だと相場は決まっている。
何かが、山神の怒りに触れた?
(なにが……)
ファルガレオは土に塗れながら思考する。答えには、本当にすぐに辿り着いた。
それは、ファルガレオの言葉。
『ご安心下さい魔王様』
『魔王様』
彼が憎んでいるのは、三代目ベルフェゴールだけではないーーーーーーー?
「お逃げ下さい魔王様っ!!」
「はぁ!?」
「早く!!」
だとすれば。
だとすれば彼の狙いは。
「貴方です魔王様!! 彼は、貴方を狙ってーーーー……」
「ーーーーッッォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオッ!!!」
ファルガレオの言葉は、天を揺るがす咆哮にかき消された。
かき消されたのこそ言葉だけではあったが、身体全てが消し飛んでいても可笑しくはないと思えるほどの怒号だった。
音その物がまるで巨人の殴打となってファルガレオの身体を木っ端のように吹き飛ばす。
擦り傷だらけの身体に鞭打って、起き上がろうとしたとき、フッと、身体に影がかかった。
突然に夜になったような錯覚。いや有り得ない。太陽に何かがかかったのだ……そう、雲……ではなく。
天を衝かんばかりの、その巨体が。
「魔王……殺す」
腹に響くような、低い声。
土にまみれ、苔や木々が全身から生えている。
そして何より、デカいのだ。それは。
巨人。山と見紛う……実際に山の一部と化していた巨人が、そこにいた。
「え、なに……これ……」
そのすぐ足下でへたり込む彼が、酷く小さく見えた。