怠惰の魔王
夢を見た。あの時の夢だ。そういえば僕は、この時のことを夢だと思っていたのだったか。
いや、今は間違いなく夢だが、これは過去の夢で、過去の僕はその時の現実に起きていた出来事を、夢だと思っていたのだ。
正直今思い出しても、夢なんじゃないかと思える。それほどまでに『ソイツ』は強烈で、現実離れしていて、吐く言葉の全てが、現実味を帯びていなかった。
この時の僕は、いや、この時も僕は、眠っていた。時間を言えば真っ昼間。もっと言えば平日で、もっともっと言えば僕は十九歳の大学生だった。
無断欠席。サボタージュ。言ってしまえばそう言うこと。とはいえ大学生なのだから別に珍しくも無いのかも知れないけれど、残念ながら僕が休んだのはこの日だけではなかった。
数えていないから正確には分からないけれど、恐らくは一年半程は行っていなかったと思う。アルバイトもしていなかった。いつも自分の部屋に籠もって、ノートパソコンを弄りながら情報の海を泳いでいた。
ハッキリ言って臑齧りのクズだった。もっと救えないのは、特にこれといった理由が有って、引きこもっていた訳ではないこと。
別にイジメられていた訳ではない。
別に勉強に着いていけない訳じゃない。
別に人と関わることは得意じゃないけど、致命的ではない。
どちらかと言えば僕は恵まれていた。周りの人間にも、自分の能力的にも。
優しい両親に、楽しい友人。家はそこそこ裕福で、兄弟はいなかったけれど、いつも遊びに来る友人がいた。
野球をやっていた。エースで、四番を打てるほど力は無かったけれど、足の速さと打率の良さを買われて一番を任されていた。
勉強は出来た。授業を聴けば大体は理解できたし、模試はいつもトップクラス。僕を頼りにする友人も多かった。
大学を受験した。特にやりたいことが有った訳ではないけれど、優しい両親に報いたくて、結構な名門を受けて、受かった。
合格発表。結果に一喜一憂するライバル達。泣いたり、笑ったり、悲しいのか、嬉しいのか、その人の顔を見れば直ぐに分かった。
家に帰った。両親に嬉しい報告が出来ると思った。両親も僕の顔を見て、受かったことを察してくれると思った。
けれど、母さんの言葉は、湿った声でこうだった
「落ちたの?」
愕然とした。意味が分からなかった。何を言っているんだと、そう訊いた。受かっていると、そう告げた。
そしたら母さんは、今度はきょとんとした顔で言った。
「ならなんでそんなに悲しそうな顔なの?」
それを聴いて僕はすぐさま姿見の前に立った。
無表情、だった。
なんの感情も浮かんでいなかった。何故かと疑問符が頭の中を埋め尽くしたけれど、直ぐに原因は分かった。分かってしまえば単純な事だった。
僕は別に、嬉しくなんか無かったんだ。
野球の大会で優勝しても。
テストで一番をとっても。
そして、大学に受かっても。
なんでかなんて、分かり切っていた。
僕は、頑張った事が無かったんだ。
恵まれていた。そう、僕は恵まれていたんだ。頑張らなくても、出来てしまった。
それに気付いた時、抗いがたい虚無感に襲われて、そして僕はそこで終わった。
全てにおいて無気力になって、何もかもが面倒になって、親しかった友人達も煩わしくて、両親すらも鬱陶しくて……
そして、引きこもった僕の部屋で、ただ死を待っている。
八畳の部屋。ベッドに、着替えもしないのにあるクローゼット。本棚には暇つぶしの為の本。背の低い四足のテーブルに鎮座する、ノートパソコン。それが僕の城だった。
居心地は良かった。大事と言える物は何もかも捨ててしまったけれど、その僕の居場所だけは、本当に大切だった。ここで死にたかった。大好きなこの場所で。
だから僕は『ソイツ』の言葉に、NOと答えたのに。
「……五月蠅いな」
ごろりと寝返りを打って、寝ぼけた声で呟いた。
酷い騒音だった。ダダダダッ!! と階段を何かが物凄い勢いで駆け上ってくるのが鍵付きの扉越しに分かる。
母さんか? いや、さっき夕飯を持ってきてくれたばかりだし、第一母さんはこんなに下品じゃない。
その音は階段を登りきった後も止まらない。今度は廊下を走る音。やっと止まったかと思えば、一秒も経たないうちに、ガチャガチャ!! と、扉が揺れ出す。
「なんてホラーだこれ……」
正直少し怖かったけれど、僕は結構冷静だった。鍵付きの扉に対する信頼感と、あとは多分、どうなったって良いやという、諦念が有ったんだと思う。
ベッドから起き上がることなく、だけど扉に視線は向けて暫く。
バギン!! と聴いたことのない音がして、そして、バーン!! と、扉が大きな音を立てて開かれた。
「フハハハハハハハハハハハハハハッッ!!!!」
「……………………」
お巡りさんこっちです。早く黄色い救急車を呼んで下さい。
「むっ!? フフフフッ……フハハハハハハハハハハ!!!」
なんだ、その手は。なんだその『キミも一緒に!』とでも言いたげな広げた両手は。首傾げんな。カモンじゃねぇ。
僕の冷たい視線に漸く観念したのか、突然に笑い出した危険人物は、額に手を当てて溜息一つ。どうでも良いけど無駄に顔が整っているせいで妙に様になっていた。ムカつく。
「……ノリが悪いな」
なんで僕が悪いみたいに言ってんだお前。
というか母さんはどうした。いや父さんでも良いけど。早く。早く警察を呼んで。不法侵入だよ。
「しかし!!」
ボリュームを下げろ。
「そんなノリの悪い貴様も今日までだっ!!!」
バーン! という効果音。
を、そいつは口で言った。
「貴様は余が救ってやろう!!!」
「宗教なら間に合ってます」
「なにおぅ!!?」
今更ながら気付いたけれど、僕普通に不審者とお話してる。どうやら自分で思っているよりテンパっているらしい。
冷静になってみると、母さんと父さんはどうしたって、父さんは仕事だからともかく、母さんが無事な保証はどこにもない。
「ご婦人には何もしていないぞ!!」
やべぇ、この人読心術を心得ていらっしゃる。割と本当に危ない人じゃないのか。これ。言葉巧みに騙されて変な事件に加担させられるんじゃないか。聴くな僕。
「この世の全てに絶望したような顔しおって!」
「アーアー」
「分かる。分かるぞ。余程辛いことが有ったと見える」
「アーアー」
「貴様にはこの世界が地獄のように感じるのだろう……」
「アーアー」
「しかし! そんな日々も今日までだ!! バーン!!」
「アーアーキーコーエーナーイー」
「貴様は、余が異世界に転生させてやろう!!」
さっきから一生懸命なにやら叫んでらっしゃるけど、ふふふ。耳を塞いだ僕には何も聞こえないのだ。
「これをやろう」
「うわ、よせ、触るのは反則……ってナニコレ」
右腕に、黄金の腕輪。
「それはだな、着けているだけで異世界の言葉が分かったり、一般知識が頭に入ったり、能力を教えてくれたりする優れ物なのだ!!」
え。なにこの人異世界とか言ってる怖い。
確かに僕と同い年位には見える程度に若いけれど、残念ながら中学二年生はとっくに過ぎているだろうに。
「因みに一生外れん」
ぐっ!! ぐっ、ぐぐぐぐ……!!!
「……………」
マジだった。
びっくりした。確かに僕はそんなに力は無いけれど、それにしたって外れなさ過ぎる。呪われてんじゃねぇかこれ。ふざけんな。
「フハハハ!! 礼など要らん!!」
僕のこの顔が喜んでいるように見えるのなら、脳外科か精神科か眼科に行った方が良い。残念ながら知り合いに腕の良い医者はいないけど、探してあげるから。
「うむうむ。これで異世界に行く準備は出来たな。やはり人間、みな幸せでなければ。おぉ、そうだ。異世界に送った後はどうしようか……うむ。魔王が良いな! 魔王が! 丁度、魔王不在の国が有るのだ! なぁーに、心配は要らん! 余の力でちょちょいのちょいだ!!」
魔王てなんだよ。なんでそんな好き好んで勇者あたりに討伐されそうな職業に就かなきゃいけないんだよ、誇り高きニートだぞ僕は。いい加減にし
「さらばだ!!!」
思考が途中で打ち切られ、僕の瞳が閃光で焼かれる。
「うぁあああああああああああああっっ!!!?」
僕のこの叫びは二つの苦しみを訴えていた。
一つは閃光による目の痛み。
もう一つは、ぐわんぐわんと、頭の中がかき回されたような激しい吐き気。無理矢理に例えるなら、ビンに詰められて思い切り、シェイクされているような……
「……だっ!?」
ドサッと、音と共に僕の体はどこかに投げ出された。幸いにもそこは柔らかかったので大した怪我も痛みも無かったのだが、正直あの苦しみは尋常じゃ無かった。人間、誰しも自分が嫌な気分にさせられれば、その原因に対して負の感情を抱くもので、無論僕も例外でなく。
この野郎、どんな手品か知らねぇが、ぶっ殺してやる、と勇んで瞳を開けた時見えたもの。
「あ……あ……あ……!」
幽霊でも見たみたいな、精悍な老人の顔。with犬耳&尻尾。
あれ……? あの五月蝿い不審者は……?
どこだ。ここ。なんでこんなに綺麗なソファーに? なんでこんなに広い部屋に? というか、いやいや。犬耳に尻尾って。なるほど夢か。全く夢なら美少女を出せよ僕。なんでこんなジジィを召喚したんだ。
「まっ、魔王様ぁーーーーッッ!!」
「……………………」
目が覚めた。相変わらず犬ジジィは僕への賛辞やら何やらを延々と語っていて、正直な話気持ち悪い。なんだか知らないけれどこの犬ジジィの中で僕はが魔王なのは決定事項らしい。
どういう事情か知らないけれど、この黄金の左目と、腕輪に偉く関心を持っている。僕をこんな場所に送りやがったアイツが本当にちょちょいとしたのか。色々な事が起こりすぎて訳が分からなくなってはいるけど、特にアイツの事が分からない。
何者なのか。何が目的なのか。本当に何もかもが謎。
いや、良い。考えるのは面倒だ。どうせ大した問題ではない。割り切れ。信じがたいがここは異世界で、アイツはここにはいない。帰る手段は見えてこない。いつか必ず帰るつもりだけど、先ずは目先の問題を片付けよう。
なんだっけ。あぁ、そっか。なんか魔王になりそうなんだっけ……
どうしよう。面倒くさい。
「……あのさ」
犬ジジィの話を打ち切るように、ポツリと言った。
ハッキリと断るんだ。僕はそんなことはやらないと。
だって魔王なんて絶対に面倒くさいじゃないか。政治だとか経済だとかさ。僕はそんなのごめんだ。
頑張れ僕。NOと言える日本人。
「僕はやらないよ。そんな面倒臭そうなの。僕は魔王なんかじゃない」
「…………!! すっ」
言った。言ったぞ僕は。ハッキリと言ったんだ! なんか震えてるけど! 怒ってるっぽいけど! 怖いけど! ちゃんと僕はNOと言った! やったよ日本の皆!!
「……素晴らしい!!」
「……はい?」
なんか想像と違う反応なんだけど……
まぁ、僕の予想なんて当たる方が少ないのは確かだけど。
「それでこそ! それでこそ魔王で御座います!! それでこそ『七つの大罪』怠惰のベルフェゴール!!!」
七つの大罪だとかベルフェゴールだとか、神話とかに詳しくない僕でも良く知っている。なるほど、今ので理解した。面倒くさがりなのはベルフェゴールという魔王にとって、良いことらしい。
だけども。
「だ、だからさ、僕はそんな魔王なんてやりたく」
「ご安心下さい!! 魔王様はその場にいるだけで良いのです!! 何もせず、ただ眠る!! その余裕こそが王の貫禄! 国の豊かさの象徴!! 魔王様は!!」
この時の言葉と、それが生み出した感動を、僕は忘れない。
具体的にどれくらい感動したかというと。
「働かずとも、良いのですっ!!!」
「フハハハハハハハハハハ!!!! 我、魔王なり!!」
余りの感動に、僕をここに送ったアイツ顔負けの笑い声を響かせる程だった。
そんなこんなで。
僕こと、ヒキニート遠羽真は、魔王と相成ったのだった。