レギス
レギスは町の規模としてはそれほど大きいわけではない。人口は八千人、郊外には綿花畑が広がり、紡績業が主な産業だ。主食である小麦も栽培されているが、自給率は六割程度である。足りない分を運んで来る商人と綿布を売る商人を中心に、レギスの町は発展して来た。レギスはある意味王都よりも服飾に関しては先端を行く。新しい染め物も、新しい意匠も、レギスで生まれる。そしてこれはと王都の商人が目を付けた商品が、王都で流行を生む。レギスは様々な色の布地が溢れ、奇抜なデザインの服が飾られ、野心と熱気に満ちていた。
少女は初めて見る色の洪水に目眩を起こしそうだった。ただでさえ、慣れない乗馬で疲れ果てているのだ。長時間歩き回ったこともない少女の体力は限界に近かった。それでも、初めて見る外の世界に心が躍る。ショーウィンドウに飾られた色とりどりのドレスに、少女は年相応に目を奪われる。
そんな様子を見て、少年は馬を止めた。さっと馬から降りると、戸惑う少女に向かって手を差し出す。
「……買ってやるから、来い」
「え」
「その陰気なドレスは嫌いだ。あれなら悪くない」
ちらりと視線をやった先には、ショーウィンドウに飾られた薄紅色のドレスがある。最近流行の小さめのパフスリーブにハイウエスト切り替えの品の良い仕立てだ。この手のデザインは細身の少女には似合うだろう。
だが、少女は少年の手を取らない。
「申し訳在りませんが、遠慮いたしますわ。わたくしに相応しいのは絹のみ。あれは良く出来ていますが綿でしょう」
「……強情な」
「恐れ入ります」
少年は不機嫌な顔になったが、それ以上は勧めなかった。再び馬上の人となり、目的も無く賑わう町をゆっくり進む。少年は、今夜自分が命を奪わねばならない少女の為に何かしたかった。王女に相応しい服も装飾品も無く、年頃の娘らしい楽しみの何一つ知らずに死なせてしまうのがどうしようもなく遣る瀬なかった。
不意に漂って来た良い匂いにそちらを見れば、羊肉の串焼きを売っている屋台が出ている。少女も匂いに釣られたらしく、そちらを見ている。いつの間にか飲食店が並ぶ一角に来ていたようで、そろそろ昼時だということと、少女が何も食べていないことに漸く気付いた。少年は朝食を終えてから少女に会ったが、監禁状態だった少女には朝食は出されていない。其処此処から食欲を刺激する匂いがし、威勢の良い掛け声で活気に溢れている。少女は物珍しそうに、甘い焼き菓子を籠に入れて売り歩く女性が声を張り上げ、陽気な売り口上を披露しているのを眺めた。それから、パンに肉を挟んだ軽食を売る屋台、果汁を水で薄めた飲み物を売り歩く子供にも目を留める。駄菓子を山と積んだ荷車の回りには、小銭を握りしめた子供達が集まって賑やかな一団を形成しているのにも。
「何か食べてみたいものはあるか?」
ここに来て初めて反応らしい反応を示す少女に、少年はどこか安堵しながら問いかけるが、少女は食べてみたいものはないと言う。
「下賎な庶民の食べ物は王女には相応しくありませんから」
少年は顔を顰めたが、それ以上は聞かずに強引に食べさせる事にした。
「少し早いが、昼食にするぞ」
後続の騎士に告げて、少年は馬を下りた。少年が差し出した手を、少女は今度は掴んでくれた。そのあまりにも頼りなく細く、温度の無い手に少年は唇を噛み締めた。
少年は本当なら少女には城の料理長が腕を振るい、最高級の食材を使った料理を食べさせてやりたいとすら思ったが、それはどう逆立ちしても無理な話だ。おまけに、今はお忍びだ。下級貴族の若君とその護衛という設定なのだから、レギスに数件しかない高級店に入るのは得策ではない。不満ではあったが、騎士の一人が知っていた味の評判の良い食堂に入る事になった。大衆向けの食堂では御馳走と言ってもたかが知れているが、あの隠れ里の食事に比べればマシだろう。少年は少女に何が食べたいか聞いた。その答えは“三穀の粥”だった。それは聖なる食事といわれ、聖職者が必ず日に一度は食べるものだが、有り体に言えば貧者の食事だ。食堂の一番安いメニューでもある。
「最後の晩餐だ、遠慮するな」
「本当にいいのです。ここまで来たら、わたくしの意地を通させて下さいませ。聖なる食事である三穀の粥で、十分です」
神より賜った飢饉に強い三種の雑穀、それらを煮込んだ粗末な粥が少女を育てた。野菜や果物、肉もたまには食べられたが、王女に相応しい料理はあの里では用意出来ない。乳母が納得する王女に相応しい食事は“三穀の粥”くらいだった。少女は少年の気遣いは嬉しかったが、慣れない乗馬で胃がひっくり返りそうで、慣れ親しんだ“三穀の粥”以外だと吐き戻してしまいそうだと思った。そして、その予想はおそらく正しい。
少年は憮然として黙り込んだが、程なくして渋々三穀の粥を頼んでくれた。同行した騎士の分も含めて五人前だ。
付き合う必要は無いと少女は言ったが、少女一人に三穀の粥を食べさせ、男である自分たちが好きなものを食べられるわけがないと少年は怒った。
慎ましやかな食事は、あっという間に終わった。会話も無く、味気ないものだったが少女は大勢で取る食事は嬉しいものですねと微かに呟いた。少年は、話題の一つも振らなかったことを後悔した。
店を出ると、午後の日差しが先程よりも少し影を長く作っていた。
そろそろお覚悟をと騎士の一人が少年に耳打ちする。少年は拳を握りしめて持って行き場の無い憤りを胸の内に押し込めた。
本来なら、既に少女を処分して王都に向かっていなければいけない頃合いだ。少年にも、そろそろ限界だということは良く分かっていた。
少年は少女と共に再び馬上の人となり、隠れ里に向かう。町の喧噪を抜けて門を出れば、そこには綿花畑が広がるばかりだ。長閑な静寂が少年の心をどうしようもなく波立てる。
せめて、何かしてやりたかった。だが、少女は歯がゆいほどに何も望まない。
一言、死にたく無いと少女が言えば、身代わりの死体を用意しようと少年は言っただろう。既に隠れ里にはいくつも死体が転がっている。旧王家の最後の生き残り、その顔を知っているものは王宮にはいない。死体の一つに細工をすることは難しいことではないだろう。騎士達は反対するだろうが、彼女の人柄と今までの環境を知るに従い同情的になっている。少年が強く望めば、可能性はゼロではなかった。
だが、少女は少年に命を摘み取られる事をこそ、望んだのだ。“生き残った旧王家の王女”として。