カレン
乳母が見ていない隙に唯一温かな抱擁を与えてくれていたミレーヌは、少女から遠ざけられた。眠る前にたくさんのお伽噺をしてくれた、優しい時間も失った。
代わりに乳母が見ていない隙に、嫌味や小さな意地悪を仕掛けて来るカレンとの時間が増えた。
「流石は姫様、絹のドレスはなんて素敵なんでしょう。私には綿のドレスが精一杯ですわ」
黒一色の古色蒼然とした古い型のドレスに身を包む少女を見下ろして、華やかな薄紅色の綿のドレスを着たカレンは意地悪く口の端を上げた。父により今まで着ていた肌触りの良い絹のドレスは禁止されてしまったが、綿のドレスも最近は金を持つ庶民が増えて最先端のデザインもある。絹であろうと辛気くさい黒い喪服よりは何倍もましだ。
豪商だったカレンの父親は誅された前王と懇意だった為に落ちぶれたが、それでも大金持ちには違いなく、少女や乳母はカレンの父に養われているようなものだった。王女という身分に生まれながら自分よりもみすぼらしい服を着、幼い頃から上質なものを知っている自分に比べて何も知らず、淑女の教養に関して遥かに劣る。そんな少女に仕えるはめになった事も面白く無かったし、こんな田舎に押し込められたことに関しても父を酷く恨んでいた。だからことあるごとに少女を見下し、ちくちくと嫌味を言ったり意地悪をして溜飲を下げていた。
「これは今都で流行っているクランベリー入りの焼き菓子ですわ。父が姫様にもと寄越して下さいましたの。あぁ、でも……このお菓子は庶民に人気の比較的安価なものですし、姫様には相応しくはございませんね。乳母様のお叱りを受けてしまうでしょうから、私が処分しておきますわ」
甘いものなど殆ど手に入らない隠れ里で、これ見よがしに見せるだけ見せてすぐに下げてしまったり。カレンは乳母の気性を良く知っていて、少女に欲しいと言わせない術を心得ていた。カレンは乳母の前ではしおらしく従う振りをして、積極的に尊敬の眼差しを向ける演技を怠らない。王族にとって乳母は乳を与える為の存在ではないことをカレンは知っていた。
今となってはどうという事もない中年女であるが、乳母はかつて社交界の華であった。才色兼備の誉れ高い侯爵令嬢、その姿に憧れたものは多い。カレンの父もその一人だった。その所作の美しさ、古今東西の美術、文学に精通する深い教養、ダンスの妙技、女性の必須の楽器であるハープ、どれをとっても一流であり、歳を重ねた今もそれは健在である。それらを盗む事は、女にとってまたとない武器になることをカレンは知っていた。
「このような辺境では満足なご教育をお授けできないことは誠に遺憾ですが、淑女に必要な教養、礼儀作法だけはこの乳母が厳しくお教えいたします。姫様はいずれやんごとない婿君を迎えてもらわねばなりません。婿君に軽く見られない為にも。分かりますね?」
そう言って、少女に英才教育を施す乳母の傍らで、誰よりも熱心にその知識を吸収した。いやいややっているのが丸わかりの少女がなかなか乳母の期待する成果を挙げられないのを尻目に、カレンは日々洗練されていった。
血など関係無い。現に私に勝る所など何もないではないか。一つ以外は。
少女を見下し、悦に入りながらもカレンは一つだけ少女を越えられずに密かに暗い炎を燃やす。
少女のハープの才は天賦のものであった。おそらく母の血筋であろう。隣国の王族の血を引く姫であった少女の母はハープの申し子と言われたほどの腕であった。その噂を聞きつけて前国王が側妃の一人として迎えたのだ。一流と言われた乳母の腕さえたった数年で追い越し、八つの歳を数える頃には乳母ですら手放しで絶賛するほどであった。
教養、所作、ダンス、それらは乳母がカレンと引き比べて少女を叱るほどに差があったが、ハープだけはカレンがかすりもしない高みへ少女は登っていた。
整ってはいるが気難しい顔を終止張り付かせ、愛嬌の欠片もない少女はハープを手にすると別人のように変わった。指先から紡がれる音楽は天上の調べ、その姿は凛として神気さえ漂わせ、これが高貴な血の成せる業なのかと平民であるカレンの血が煮えたぎった。
そうして少女が十二、カレンが十六になった春、カレンの父がやってきた。父親は、五年前に預けた娘が我が儘や傲慢さを奇麗に隠して淑女然とした態度を取る様に驚喜した。
「これならばどんな貴族の令嬢にもひけを取らない」
そしてカレンは隣国の社交界へと旅立った。
当初身分を隠して社交界に登場したカレンは、その金に飽かせた豪華な衣装で一際目を引いた。元から顔の造作の整っていたカレンは、その花の盛りの瑞々しい若さと自信に裏打ちされた堂々とした態度で下品になりかねない衣装を見事に着こなし、打てば響くような会話と嫌味にならない程度に窺わせる教養の深さで年配者の心を掴んだ。
元から狙いは若い貴族の男ではない。有望な若い貴族となれば競争率が高く、平民という身分ゆえに叩かれてあらぬ噂や濡れ衣を被せられる危険が高い。政治力もあり、発言力もあり、なおかつ結婚相手としては今ひとつな相手が理想だった。こうしてカレンは宰相の弟であり、孫まで既にいる侯爵の後妻となった。若く魅力的な妻に夢中になる夫に連れられ、社交界でカレンはこの世の春を謳歌する。所詮は平民出と影で蔑む貴族の令嬢達など、カレンは鼻で嗤って無視した。誰もがカレンに何一つかなわなかったのだから。いつしかその評判は王家にも届き、女好きの王太子が興味を示すまで、そう時間はかからなかった。
そしてカレンは王太子に褥の中で囁いた。
「昔、隣国に嫁いだ琴姫がいらっしゃったでしょう? その琴姫の忘れ形見が生きていらっしゃる事をご存知?」
王太子はすぐに興味を持った。そしてその話は国王にも届いた。
「ほう、すると正当な隣国の後継者の姫をそなたの父が匿っているというのだな?」
「はい、父は貴族でこそありませんが、臣下の一人として姫君を守ることを誇りとしております。けれどもたかだか一商人の身、満足なお世話をして差し上げることもできず、そろそろ年頃を迎える姫君の行く末が憂えてなりません。国王陛下には血の縁もあるお方。どうぞよしなに……」
カレンの父は、骨の髄まで商売人である。どこにどう少女を売り込むのが利益になるか、良く心得ていた。
この時少女は十四、乳母は前年に流行病で命を落としていた。




