とある家出息子の話(前編)
お、あんた今日の芝居見てくれたのかい?
俺はあの芝居の脚本家さ。ここで会ったのも縁だ、一杯奢るから是非感想を聞かせてくれ。
おお、そうだな。俺はヘイゼル。よろしくな、ゴルドーさん。
いや、俺はただのヘイゼルなんだ。
別に隠してるわけじゃねえよ。単に家出した餓鬼がそのまま大人になったのが俺さ。生まれた家は貴族ってやつだが、もう随分前に名前ごと全部捨てた。
後悔? まるでねえな。いや、今が幸せで満足かっていえば、そうでもねえ。喰うに困ることも度々だし、今日みたいに酒が飲める日は滅多にねえし。でもな、あのままあの家にいるよりはよっぽど楽しい人生だ。
そんな大層な家柄じゃねえくせに、矜持ばっかり高くってよ。代々騎士の家柄ってやつだ。当然長男の俺も物心ついた頃には親父や指南役に扱かれてたな。俺にとっては全くもって不幸なことに剣の才能が結構あったらしくてよ、とにかく期待という名の扱きで俺の子供時代は灰色に塗りつぶされた。まぁ、あのまま何も無ければ灰色の青春を経て、騎士になって、灰色の人生を送っていただろうね。当時は騎士以外の未来を考えたこともなかったからな。
そんな俺がただのヘイゼルになることを決心したのは、運命の出会いってヤツがあったからだ。
あぁ、女じゃねえよ。残念ながらな。
十三の時だった。俺のお袋はな、剣を振り回すばかりの親父にも、息子の俺や弟にも、関心なんか一欠片もない薄情な女でな。はは、貴族には珍しい話じゃないがね。
ともかく、何を思ったのか気まぐれを起こしたお袋に俺は芝居に連れて行かれた。芝居小屋じゃねえ、王都の中央広場にある立派な劇場さ。あの時見た芝居は今でも鮮明に覚えてるよ。
あんた、『クララ人形』って知ってるか?
そう、それだ。娘を亡くした男が、精巧な人形を作って娘の魂を人形に宿らせようとする話さ。その人形に金持ちの息子が恋をする喜劇だ。
俺は世の中にこんっなに面白いものがあるのかと感動したね。それまでの十三年間に笑った回数の倍は笑ったよ、たった数時間で。それ以来、俺の頭は芝居一色。惚れちまったのさ、もう夢中で他のことなんか目に入らねえ。
当然剣の稽古にも身が入らねえ。芝居の魅力に比べたら、はっ、剣を振り回すなんてぇ馬鹿馬鹿しくてやってらんねえよ。稽古をさぼって芝居小屋に入り浸り、親父と大喧嘩の末に家出。ロッケルベル劇団に転がり込んだって寸法さ。
まー、どうやら俺は役者としての才能はからっきしらしいから、脚本を書いたり、舞台装置を作ったりの日々だ。
馬鹿にすんなよ? 団長ぐらいしかまともに読み書きできないから、これでも結構有り難がられてるんだぜ? それに自分の書いたもんが芝居になるのは、何度経験しても女を初めて知った餓鬼みてぇに興奮するもんさ。あの醍醐味を知っちまったら、病み付きになっちまう。特に今回の新作は結構良い出来でさ、シンファが……レジーナ役の女優なんだけどな、これがまた絶妙な悪女っぷりでよ。
だろ!? そう思うだろ!? やっぱり脇が良いと主役も引き立つってもんだ。それでな………
「兄上」
肩を掴まれて振り返ると、何となく懐かしさを覚える顔の男がそこにいた。それまで行きずりの男と上機嫌で酒を酌み交わしていたヘイゼルだったが、一瞬で酔いが醒めた。
俺を兄と呼ぶ存在は一人しかいない。
「ランツか?」
「はい」
真面目腐った顔で肯定する弟から、俺は目を逸らした。
クソが、俺よりでかくなりやがって。しかも親父にそっくりの顔たぁ、どんな嫌がらせだ。
ちびりと安酒を啜る。
俺が三十五だから……今年で三十一か。順調に行けばとっくに騎士になっているはずだな。
「何の用だ。言っとくが、親父やお袋の葬式だって帰らねえぞ」
「一緒に来て下さい。これは命令です」
その言葉に、カッと頭に血が上る。
「けっ。命令だと? しばらく見ないうちにクソ忌々しい性格になりやがったな。俺の後をついて泣きべそかいてた餓鬼が」
高圧的な親父にそんなところまで似やがって。昔は可愛かったのによ。
「思い出話をしている暇はありません。これ以上ぐだぐだ言うなら、連行します」
連行と来たよ。実の兄に薄情なことだ。さすがはあのお袋の息子だ。まぁ、俺もだが。
「……クソが」
行くしか無いか。家を捨てた俺は平民と同じだ。お上に逆らって良いことはねえ。
俺は残りの安酒を飲み干し、渋々立ち上がった。
「ここの酒代くらいは払ってくれるんだろうな?」
「分かりました」
ここの支払いくらい、騎士様にはわけないだろう。面白くねぇな。
「おー、みんな聞いてくれ! 俺の気前の良い弟がみんなに奢ってくれるとよ! 存分に飲んで喰ってくれ!」
「なっ!?」
安酒場の汚ねぇ親父どもが歓声を上げる。驚く弟の顔に、少しだけ溜飲が下がった。
俺は軽くゴルドー氏の肩を叩いて、一人で先にさっさと店を出た。支払いを終えて慌てて出て来た弟の必死の形相と、俺の姿を見た時の安心した顔は見物だった。
なんだ、案外餓鬼の頃と変わってないじゃないか。
俺の姿を見失って泣きそうな弟を影でニヤニヤしながら見ていた子供時代を思い出す。俺が姿を見せると子犬のように駆け寄って来たもんだ。
あれは楽しかったな。
俺は子供の頃から性格が悪かった。
お人好しじゃ良い芝居は書けないから直す気もないが。
「兄上には、劇作家として協力して頂きます。もし断った場合、ロッケルベル劇団は潰れます」
人混みの喧噪に紛れてランツが話す。俺は舌打ちして眉間に皺を寄せた。
「脅しか。いつから騎士は破落戸になったんだ?」
「別に脅しではありません。兄上が協力してくれなかった場合、高確率で戦争、もしくは内戦になる可能性が高い。余裕が無くなった民が一番に切り捨てるのは娯楽だ。違いますか?」
話の飛躍に一瞬思考が止まる。何を言ってるんだ、こいつは。
「………破落戸じゃなくて大ボラ吹きかよ」
「嘘ではありません」
俺は隣を歩く弟の表情を盗み見た。ランツは子供の頃からくそ真面目で素直なヤツだった。本気で言っているらしいと身内の勘でなんとなく理解する。どこの誰だ、こいつに妄言を吹き込んだのは。面倒事に巻き込みやがって。
「何で俺なんだ……」
「吟味している時間はないんです。たまたま芝居小屋で脚本家をやっている兄上がレギスにいた。それが僥倖と飛びつくほどに、余裕が無い」
独り言に律儀にランツが返答する。
けっ、俺の脚本家としての腕は二の次三の次かよ。大したもんじゃないのは否定しないが苛っとする。
「俺に何をさせるつもりだ」
「芝居の脚本を書いて欲しいんです」
そりゃまあ、そうだろうよ。劇作家としての俺に用があるんだからな。
「興行主は?」
「これから会って頂く方です。くれぐれも失礼の無いように」
「けっ、知るかよ。こちとら今は礼儀のレの字も知らない平民だ」
「兄上!」
咎める弟を俺は鼻で嗤った。
この弟のへりくだりようからして、相手は身分の高い貴族か。妄言で騎士を顎で使うたぁ恐れ入る。それに疑問を持たずに従う弟も胸くそ悪い。そんな奴らに礼儀のレの字でも使ったら男が廃る。
「随分と口が悪くなられましたね」
呆れたような声音で言われたが、今の俺がお上品な言葉をしゃべったら気持ち悪いだけだ。髪も無精髭も伸び放題、草臥れて継の当たったシャツにズボン。どこからどう見ても立派な下層の庶民だ。
「お上品にやってたら、破落戸どもに舐められるからな」
ロッケルビル劇団は劇場なんて大層なものは持っていない。稽古場は団長の家の納屋だ。興行が決まると広場に簡易の芝居小屋を建てて公演する。この時に所場代で破落戸どもと交渉するわけだが、法外な値段を吹っかけてくるのは毎度のことだ。最後は拳がものを言う。最初に劇団に転がり込んだ頃、俺の役目は用心棒だった。鍛えていたことが初めて実際に役に立った経験で、少しだけ親父に感謝した。元締めともそれなりの付き合いがあるおかげで、今では劇団の興行に関しての荒事はかなり減っているが。
ともかく、破落戸どもの荒っぽい言葉は俺と相性が良かった。水が合うというのか、更の綿のようにあっと言う間に染まった。
同じ状況になっても、この弟なら相当染まりにくいだろう。
小綺麗な宿の一室で引き合わされたのは、家出した時分の俺と同じくらいの餓鬼だった。格好は下級貴族の息子っぽいが、立ち姿が異様な威圧感だ。俺より頭一つ低いくせに、睥睨って言葉がぴったりの目つきをしてやがる。いけ好かない餓鬼だ。
「兄のヘイゼルです」
「お前がランツの兄か。だいたいのことは聞いている。芝居好きが高じて家を捨てたとか」
「まぁ、その通りですけどね。そういうあんたは誰なんで?」
「兄上!」
「良い、ランツ。俺はエバルト・セネガ・ディンドリオンだ」
流石に驚いた。そりゃ、威圧感もあるだろうよ。
「王子殿下かよ……」
俺の反応に、殿下はニヤリと嗤った。
クソが。王子殿下だろうと餓鬼は餓鬼だ。生意気な餓鬼にビビるなんざ、男が廃るわ。
俺は不遜な態度を崩さないと誓った。
「ヘイゼル、お前は今も家を捨てたことを後悔していないか?」
「はあ、耳くそ程も後悔なんざしてませんが。それが何か?」
俺の答えに何故か王子殿下は満足げだ。そして言った。
「お前に芝居を打たせてやる。役者はこの国の民全て、観客もこの国の民全ての大芝居だ。いや、隣国の民も入るか」
ランツに妄言を吹き込みやがったのは、こいつか。
だが、面白い。流石は切れ者のあの王の息子だ。こいつの目は凡愚の輩がする目じゃねえ。単なる妄言のわけがねえ。
「舞台裏については一生口噤むことになるが、上手くすればお前の名は歴史に残るだろう」
とびきりの餌をやるから協力しろってところか。餌が金じゃねえところが気に入った。俺の名が歴史に残る云々はどうでも良いが、馬鹿げた規模の大芝居には血が滾る。舞台は国境を股にかけて隣国まで、役者は全国民と隣国の民、観客も同じく。
上等だ。
「面白いじゃねえか」
「聞いたら最後、降りることはできんぞ」
「そうだろうともよ。それだけの大芝居が“まとも”なわけがねえ」
俺はニヤリと口の片端を上げた。
「実に魅力的だ、と言わざるをえないですね、王子殿下」
続きは明後日土曜日の朝8時に上げる予定です。