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黒衣の王女  作者: 時満
番外編
18/24

とある子爵家次男の話

 子爵家の次男に生まれたアルフォンソは、兄にもしもがあった時の保険として結婚もせずに実家で趣味の絵を描いて暮らしている。だが、今は兄に二人目の男児も生まれ、しかもすこぶる元気で風邪一つ引かないという頑丈ぶり。そういうわけで、子爵家は安泰だ。つまり、アルフォンソの保険としての意味は無いに等しい。

 アルフォンソは幼い頃から何よりも絵を描くのが好きで、部屋住みの不遇も特に苦に思わなかった。むしろ趣味の絵に没頭出来ると己の境遇に感謝さえしていた。だからこのまま好きな絵だけを描いて暮らせるなら、肩身の狭い思いをするくらいどうということも無かった。随分前から兄嫁の視線が厳しくなっていたが、刺すような視線ぐらいだったら強引に気付かぬ振りもできるアルフォンソだ。

 しかし、そうも言っていられない状況になってきた。正面から切り掛かって来られたら、気付かぬ振りも最早出来ない。

「アルフォンソ様、絵の具とてただでは無いのです。もちろん、あなたの立場はわたくしとしても重々心得ておりますし、お義父様達とも生活の面倒は見ることをお約束致しました。夫は弟君でいらっしゃるあなたに甘いですし。けれども、これから息子達の教育にお金が掛かるのです。この家の未来を担う息子達があなたよりも優先されるのは自明の理でございましょう?」

「はあ……そうですね」

「今まで通りに生活の面倒は見ましょう。ですが趣味をお続けになりたいなら、その費用はご自分でどうにかなさってください」

「いや、どうにかって言われても……」

「それでは、ごきげんよう」

 一方的に捲し立てて清々した顔で去って行った義姉に、アルフォンソは途方に暮れたのだった。

 客観的に言って、アルフォンソの絵の腕は悪く無かった。もし、アルフォンソが自分のこだわりを捨てられれば、絵描きとしてそれなりの収入が見込めただろう。子爵家の次男という肩書きとコネもある。だが、アルフォンソにそれは無理な相談だった。いや、アルフォンソとて捨てようとした。依頼主が望むものを描こうとしたのだ。だが、結果として全ては失敗に終わった。

 静物画や風景画の評判は悪くない。むしろ、まるで切り取って来たかのような写実的なアルフォンソの絵に感嘆の声を上げる者は多い。いくつか売れた実績もある。

 だが、なんといっても絵で金になるのは肖像画だ。見栄っ張りな貴族達は自分たちの絵を描かせるのが好きである。それも修正を加えた実物より美化された肖像画が。

 アルフォンソにはそういう才能が全く無かった。ご婦人の絵であろうとも皺の数も決して誤摩化さない。いや、誤摩化せないのだ。どうしても。

 アルフォンソの描く肖像画の評判はあまりにも悪かった。評判の悪くない静物画や風景画もその影響で人気がない。

 残り少なくなった絵の具を前に、アルフォンソは溜め息を吐くばかりだ。


 そんなアルフォンソに一つの転機が訪れる。

 なんと肖像画の依頼が来たのだ。名を伏せての依頼だったが、使いに来た執事と思われる人物は仕立ての良い服を着て物腰も立派だったので、依頼主である主人も名のある貴族だと思われた。

 自分の評判は知っているだろうに何故と訝しく思いながらも、すぐにも製作に取りかかって欲しいということなので、急いで使い慣れた道具をまとめる。絵の具類などの消耗品は用意してくれるとのことで、残ったら持って帰って良いかと思わず聞いたらご随意にと言われた。俄然やる気の出たアルフォンソは勇んで迎えの馬車に乗り込み、この気前の良い依頼主の希望を頑張って叶えようと決意した。決意だけは、した。頑張っても失敗する未来しか見えないが、わざわざ自分に依頼するくらいだからその辺りは分かっているはずだと楽観的に考えていた。

 果たして馬車の向かった先は、まさかの王宮だった。

 生きた心地のしないまま案内された部屋で、アルフォンソは後悔していた。王族からの依頼となれば、普通なら名誉な事と感激するところだ。だが、アルフォンソの肖像画は今まで一度として依頼主を満足させた事が無かった。それどころか怒らせた事の方が圧倒的に多い。王族の不興を買ってしまったら、子爵家そのものの存続が危うくなるかもしれない。何故自分に白羽の矢を立てたのか謎だが、もしかしたらそこそこ評判の良い風景画を見ての依頼かもしれない。それで期待されて呼ばれたのであれば最悪である。

 もはやアルフォンソの頭の中は、どうにかして依頼を断らなければという焦りで一杯だった。


「エ、エバルト王子殿下……!」

 自分の前に現れたその人に、アルフォンソは慌てふためいて礼をとる。最悪の事態だ。正式にはまだだが、未来の王太子であり国王であるその人が依頼主となると、不興を買ったら確実に子爵家など木っ端微塵に吹っ飛ぶ。

「アルフォンソ・デルフィン・ローナ。顔を上げよ」

「はっ」

「この度は急な呼び出しに応じてくれて感謝する。貴殿にはまず、この依頼については誰にも話さぬ事を約束して欲しい。詳しい内容だが……」

「そ、その前に、発言をどうぞお許し下さい!」

 そのまま依頼を受けたことになってしまいそうな流れに、アルフォンソは悲鳴を上げるように王子の言葉を遮った。はっきり言って不敬この上ないが、そんなことにはアルフォンソは構っていられない。脂汗がこれでもかと吹き出る手を握りしめ、必死の形相だ。

「許す」

 王子は一瞬不快げに眉をひそめたが、寛大にも不問に付して下さった。とりあえず一息ついたアルフォンソは、額から流れ落ちる汗をハンカチで拭きながら、必死で依頼を辞退する方向へと話を持って行こうとした。

「わ、私は……その……到底王子殿下を満足させられる肖像画を描く事は出来ません。私の肖像画の評判をご存知ではありませんか?」

「あぁ、そのことか。勿論知っている。ありのままに描き過ぎて嫌われている馬鹿正直のアルフォンソとはそなたの事だろう?」

 何だ、知っていたのか。アルフォンソは惚けた顔になり、だったらなんで自分に依頼したのかと僅かばかり王子に苛立ちを覚える。

「……その通りでございます。ですから」

「だからそなたが良いのだ」

「は?」

「依頼主が王子である私であっても、媚びて真実を歪めないそなたが良いのだ」

 アルフォンソは目を丸くし、絶句して不敬にも王子を凝視してしまった。



 暗い地下室で、アルフォンソは一心に筆を動かす。王子の依頼は奇妙なものだった。とある女性の肖像画の依頼だったのだが、その女性は既に亡くなっているのだ。つまり、今アルフォンソは王宮地下にある遺体安置所で件の女性の肖像画を描いている。

 王子殿下がアルフォンソに望んだ事は、この依頼を秘密にすること、女性の身元を勘ぐらないこと、そしてありのままの女性の姿を描くこと。

 アルフォンソは依頼を受けた。そなたにしか頼めないと言われてしまえば、断る事などできなかった。しかも、アルフォンソが今まで欠点だと思い込んでいた美化出来ない部分が重要だという。何がどうしてそういうことになるのかアルフォンソには全く分からなかったが、劣等感を抱いていた部分を認められて嬉しく無いわけがない。無下に出来ようはずもなかった。

 死体の肖像画を描く事に抵抗が無かったわけではない。初めてその女性と対面した時は正直背筋が震えた。喪服を纏って横たわっているやせ細った姿の女性は、幽鬼のようにも見えた。何かの拍子に目がクワッと開いて、襲いかかって来るのではないかと想像してしまうほどに不気味だった。

 だが、王子はその不気味としか言いようのない遺体の頬を、宝物に触るように優しく撫でて切なげに目を伏せたのだ。

 その途端に、アルフォンソの中で不気味な遺体は、若くして死んだ不遇な女性の亡骸に変わった。その偽り無き姿を絵の中に留めておきたいと王子殿下が望むほどに大切に想われた、一人の女性なのだと。

 改めてアルフォンソは遺体に目を移す。闘病の末のものなのだろうか。その体はどこもかしこも痛々しいほどに細い。よく見れば、女性というよりは少女と言って良い年齢のようだった。普通、葬儀には一張羅を遺体には着せるものだが、喪服のままで良いのかと首を傾げる。というより、喪服を着ている事自体が変なのだ。喪服は見送る側が着るものであって、見送られる側は精一杯の手向けとして美しく飾られるものだ。

 金髪の色白で顔の造作も整っているのだから、明るい色のドレスでも着せればだいぶ印象が違うだろうに。この女性だって、絵に残るなら少しでも美しい姿で王子の元に残りたいのではないかと思う。女心にとんと疎いアルフォンソでもそれくらいのことは察することができる。

「お召し物は、このままの喪服でよろしいのですか?」

「ああ。それで良い」

 殿下が良いと言うのなら否やは無い。自分以上に女心に関して残念な殿下に、人は見かけによらないとその麗しいご尊顔から目を逸らす。アルフォンソは物言わぬ女性に大いに同情した。

「一つだけ、これは想像で描く事になってしまいますが、瞳の色は?」

「青だ。灰色が掛かった水色だな」

「背景はどう致しましょう?」

「レギスの街が良い。明るく晴れた日のレギスだ」

 レギスなら問題無い。何度か描いた事のある町だ、しっかりとその風景は頭の中に残っている。

「表情は……このままで?」

「ああ」

 当然だが遺体となった彼女の顔に表情は無い。完成図を思い描いてみて、アルフォンソの心は沈んだ。

「申し上げにくいのですが、かなり不気味な絵に仕上がるかと。せめて表情を笑顔にしてみたらいかがでしょう」

「いや、このままで良い。分かりにくいかもしれないが、これでも彼女は穏やかに微笑んでいるのだ」

 そう言って笑った王子の表情には、不思議と説得力があった。

 殿下がそういうのなら、そうなのかもしれない。自分には分からないだけで。

 

 そして、殿下の言葉は正しかったとアルフォンソは思うのだった。

 動かず、物言わない彼女は、生きている人間よりもずっと雄弁に真実を語った。生きている人間は、誰もが自分を良く見せようと気取る。肖像画を依頼するような見栄っ張りは、特に。生きている人間相手であれば不躾と思われるほどに凝視しても何も言われず、細部までつぶさにアルフォンソは女性を観察し、そしてだからこそ分かった。その口元が、ほんの僅かではあるが上がっていることに。滑らかな額には皺一つ無く、眉間も涼やかだ。苦しまずに逝ったのだろう。元気で美しかった時の姿でなく、死ぬ直前の姿を残したいと殿下が思われた理由はアルフォンソには分からない。だが、何故自分が皺一つ誤摩化せないのかということは、何となく分かった。ご婦人の敵とされる皺も、その人の人生の一部として蔑ろにすることを無意識に自分は嫌っていたのだろう。

 風景画は美しいところだけを切り取るものだが、自然も美しいだけではない。時には神の怒りもかくやという嵐で全てを破壊するのだ。アルフォンソはそういう荒れ果てた風景も嫌いではなかった。嵐の後は空も風も澄み、荒れ果てた大地にはすぐにも命の再生の兆しが見える。アルフォンソは信仰心は薄い方だが、その光景にはいつも不思議と敬虔な気持ちになるのだった。

 病み衰えた姿で懸命に生きたのだろう女性を、誰が醜いと言えるのか。

 アルフォンソに脳裏に、これでも彼女は穏やかに微笑んでいるのだと言った時の王子の顔が浮かぶ。

 そして思うのだった。きっと、エバルト王子殿下は善き王になられる、と。




 仕上がった絵を前に、王子は満足げに頷いた。アルフォンソはほっと胸を撫で下ろす。

 途中で何度も王子は見に来たし、何の文句も無かったので大丈夫だろうとは思っていた。思っていたが、仕上がった絵は描いたアルフォンソが言うのもなんだが、亡くなった恋人のよすがにするには色々と残念過ぎるものだった。王子の望んだ通り、ありのままを写し取った渾身の作だが、どうにもこうにも暗い絵になってしまっている。最後の最後で本当にこれで良いのかと不安になったくらいだ。

 今更ながら、せめて衣装を変えてみることを進言すればよかったとアルフォンソは後悔する。彼女に対して本当に申し訳なく思う。きっと病気になる前は奇麗な人だったに違いないのに、王子殿下の傍に飾られる絵がこれでは浮かばれないのではないか……などと悶々としていると、ぞわりと背筋が寒くなって思わず後ろを見た。

「謝礼は後日届けさせる」

 挙動不審なアルフォンソを意に介さず、王子が提示してきた金額はアルフォンソの目が飛び出るようなものだった。正直アルフォンソにはそんな大金を管理する能力が無い。兄に預けても良かったが、そうすると多分義姉にも知られてしまうだろう。我が子爵家の財務大臣は義姉なのだ。あの義姉に知られた場合、全部とは言わないまでもかなり吸い上げられてしまう気がした。それに、依頼主は誰かとうるさく問いつめられる気がする。自分は特に贅沢をしたいわけではない。結婚する気もないし、絵が描ければそれで幸せなのだ。だから、完成が近付くにつれて考えていた事を思い切って申し出てみることにした。

「そのことなのですが、出来ましたら一生描くに困らぬ画材に変えていただけませんでしょうか」

「そんなもので良いのか?」

 驚く王子に、アルフォンソは神妙な顔で頷く。

「私の絵の価値はエバルト王子殿下以外には理解されませんので、これから先も鳴かず飛ばずのままでしょう。金にならない私の趣味に、家の者は投資してくれないのです。私は絵さえ描ければ幸せですので」

「なるほど」

 王子も苦笑いで頷く。

「サンクレマン商店は知っているな。あそこでの買い物については、全てこちらに支払いの請求をするように手配しておこう」

「ありがとうございます」

 サンクレマン商店は画材を扱う老舗で、品揃えも質も素晴らしい。アルフォンソからすれば、これ以上は無く嬉しい条件だ。

 深く頭を下げるアルフォンソに、ではな、と声を掛けて王子が退出していく。十日という短い時間ではあったが、十年にも値する濃密で得がたい経験を胸にアルフォンソは家路についた。



「あら、お帰りになったの?」

 あからさまに何故帰って来たと聞こえて来そうな義姉の表情に、アルフォンソは笑って対応する。

「ええ、ただ今帰りました。珍しく絵を気に入ってもらえまして、画材を買う算段がつきました。義姉上にはご心配をお掛けしましたが、これからも贔屓にして下さるそうなので……」

「まあ、あなたの絵を? 一体どなたなの? 謝礼はいかほど頂いたの?」

 今度はあからさまに嬉しそうな義姉の表情に、アルフォンソは噴き出しそうになるのをこらえて神妙な顔を作る。

「それは言えません。依頼主の希望でどんな絵を描いたかも秘密なんですよ。謝礼は……まぁ絵の具が満足に買える程度です」

「あなた……まさか品位を損なうようなものを描いているのでは無いですわよね?」

 途端に不機嫌に逆戻りする義姉に、今度こそ噴き出しそうだ。アルフォンソはわざとらしく空咳をして笑顔を作る。

「まさか。ただ、私の絵を気に入って下さるような奇特な方ですが、ご自分が変わった趣味ということを御自覚なさっていらっしゃいまして。趣味が悪いと噂になるのがお嫌なのでしょう」

「そう。とにかく夫の顔に泥を塗るような真似は絶対にしないように」

「それは勿論」

 義姉はフンッと鼻息が聞こえそうな勢いでアルフォンソを睨んでから去って行った。全くもって貴族とは思えないほどに正直な人だ。

 アルフォンソは前程義姉を苦手に感じていない自分を発見して、今度は誰も見ていないのを良い事に声を立てて笑った。

 今度は義姉上を描いてみよう。

 多分気に入らなくて怒るだろう義姉の顔を想い浮かべて、アルフォンソはまた笑った。

「いっそ怒っている義姉上を描いてみようかな。きっと甥っ子達には受けるぞ」

 そんな事を楽しげに呟きながら、久しぶりのアトリエの扉を開ける。絵の具の匂いに満ちた空気に、アルフォンソは体が解放されるような感覚を覚えた。午後の光の降り注ぐ雑然としたアトリエは、酷く慕わしく懐かしい。

 描き掛けのカンバスの前に座り、思い切り伸びをする。

 そして、暗い地下室ではもう絵を描きたく無いなぁと思うのだった。



 自分で予想した通り、結局アルフォンソは画家としては全く鳴かず飛ばずのまま生涯を終えたが、それなりに幸せな人生を送った。結婚はしなかったが、兄の子である甥や姪達の絵を数えきれないほど描き、その生き生きとしたてらいの無い表情は仲の悪い兄嫁も気に入っていたらしい。子爵家を継いだ甥には特に慕われ、晩年は彼の家族に看取られて穏やかに生涯を閉じた。

 最後まで絵画馬鹿を貫き、絵以外に興味を持たなかったアルフォンソは、『琴姫』の芝居も、それにまつわる噂も知らないままだった。地下室で描いた彼女のことを闘病の末に亡くなったエバルト王子の秘密の恋人だと勘違いしたまま、ついでに自分以上にエバルト王子は女心に疎い残念な御仁だと勘違いしたままあの世へと旅立ったのだ。

 あの絵を描いた画家が誰なのか、エバルト王亡き後は誰も知らない。

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