戯曲『琴姫』後編
家の者達の目を盗み、侍女の手引きで琴姫と逢瀬を重ねるうち、王子は謙虚で慎み深く、そしてその優しい心根にますます恋心を募らせました。やがて、自分のお妃になるのは琴姫をおいて他にない、たとえ罪人の娘だとしても父上も母上も琴姫と会えばきっとその素晴らしさを分かってくれる、そう思うようになりました。
二人が出会ってから丁度一年、その節目に王子は琴姫を外へと誘いました。琴姫がこの家から出た事がないと侍女に聞き、常々不憫に思っていたのです。
「琴姫、是非私とデートをして頂けませんか?」
「デート、ですか?」
「そうです。恋人同士で出掛けることをデートと言うのですよ。私とあなたは恋人同士なのだから、ずっとしたいと思っていたのです」
「いいえ! それは無理ですわ」
琴姫は王子の言葉に驚いて顔を青くしました。
「私はこの家から出ることを禁じられております。あなた様がいらっしゃることでさえ秘密ですのに、外へ出掛けるとなればきっと皆に知られてしまいます。そうなれば、もう二度とあなた様にお会いすることは叶わなくなりますわ」
「安心して下さい、あなたの侍女が協力してくれます。あなたは侍女に成りすまして外に出てくれば良い」
「はい、何も心配なさらずにジーク様と出掛けていらして下さい。私が姫様に成り済まします。大丈夫ですわ、具合が悪いから眠るので声を掛けないように言えば、誰もこの部屋には来ないでしょう」
琴姫は恐れ、どうにかして考え直すように王子と侍女に言いましたが、二人とも大丈夫だと繰り返すばかり。とうとう押し切られる形で初めての外出をすることになりました。
王子は森に隠していた馬に琴姫を乗せ、一番近い町へ向かいました。その町はお針子の町として有名で、美しいドレスを飾る店が多いのでした。琴姫は己は罪人の娘だからと質素な黒いドレスばかりを着ていたので、王子は是非とも年頃の娘らしい奇麗な色のドレスを贈りたかったのです。そして、質素な食事しか知らない琴姫に、美味しいものをたくさん食べさせてあげたかったのです。
一方、初めて見る外の世界に、琴姫は恐れながらも心を躍らせました。賑やかな人々のざわめき、ショーウィンドウに飾られた美しいドレスたち、そこここから漂って来る食欲を刺激する良い匂い。いくら奥ゆかしくとも年頃の娘、琴姫は無関心ではいられませんでした。腕の中で嬉しそうに目を輝かせる琴姫に、王子はやはり強引にでも連れ出して良かったと思うのでした。
「琴姫、何か欲しいドレスはありませんか? あの薄紅色のドレスはどうでしょう? きっとあなたに似合います」
「ジーク様、お気持ちは嬉しいですが私には過ぎたものでございます。私は罪人の娘。あのような晴れがましい装いは恐れ多くてとてもとても……」
「あなたはまたそのような事を言う。その罪は、あなたのものではないのに」
王子は自分の申し出を断る琴姫を不満に思いましたが、今回の外出は強引に決めた事。あまり自分の要望ばかりを押し付けるのも憚られ、今回は琴姫にドレスを贈るのを諦めました。
それならばと、今度は評判の良い食堂に琴姫を連れてゆきました。
「さぁ、何でも好きなものを頼んで下さい」
王子はあれこれと色々な料理を琴姫にすすめました。勿論女性が大好きなデザートも、残しても構わないからどれでも頼んで欲しいと。
しかし、琴姫が選んだのはいつも食べている三穀の粥でした。
「どうしてあなたはこんなに頑なのでしょう」
さすがに酷く落胆した王子は、恨めしげに琴姫を責めました。
すると、今にも泣きそうな顔で琴姫は言いました。
「ジーク様のお心遣いを無下にしたいわけではないのです。けれど……初めての事で胸がいっぱいで、どうにも食べられそうにないのです。いつも食べ慣れているものなら食べられそうだったので……。どうぞ私をお嫌いにならないで」
そう言われてしまっては、王子も自分の浅はかさを恥じないわけにはいきません。
「嫌いになど、決してなりません。確かに私が考え無しでした。普段慎ましやかな食事ばかりしているあなたが急に色々食べれば、かえって具合を悪くしてしまうかもしれない。あなたの方こそ、愚かな私をどうか嫌いにならないで下さい」
「まぁ! 私がジーク様を嫌いになることなど天地がひっくり返ってもあり得ませんわ」
琴姫が笑顔を再び見せてくれたので王子は安堵し、二人揃って三穀の粥を食べました。
「味気ない三穀の粥も、あなたと一緒なら何にも勝る御馳走ですね」
「……私も……ジーク様と一緒に頂くと何倍も美味しく感じます」
そう言って微笑み合う二人は、とても幸せでした。
そして、王子は決意を新たにしたのです。琴姫ほど健気で心映えの良い娘はいない、必ず幸せにしようと。
帰り道、疲れてうとうとしている琴姫を愛しげに胸に抱きながら、王子は自分の身分を明かそうと決心しました。今まで琴姫にも侍女にも自分が王子だと言うことは、告げていませんでした。琴姫も侍女も王子をどこかの貴族の若君だと思っているようでしたし、王子もお忍びでしたので、あえて否定はしませんでした。けれども、もう自分の妃には琴姫しかいないと思い定めたのですから、本当の名を告げて結婚を申し込もう、そして琴姫の本当の名を知りたい、そう王子は思ったのです。
そして、その次の機会が巡って来ました。素晴らしい銀糸金糸の刺繍の白い服を着て白馬に乗り、抱えきれないほど大きな花束を供の者に持たせて森の家を訪ねました。
何事かと出て来た家の者たちに王子は言います。
「私はこの国の王子、ジークフリート! どうか、かの美しい琴の音の主に求婚する機会を頂きたい」
その名乗りに、家の者たちは真っ赤になって怒り狂いました。
「王子だと!? 我らの大事な姫を殺しに来たのか!!」
そう叫んで、王子を殺そうと襲いかかって来たのです。
あまりの事に動転した王子でしたが、すぐに剣を抜いて応戦します。
「どうか話を聞いて欲しい! 殺したりなどするものか! 妻にと望んでいるのにそんなわけがない! 私は真剣だ、必ず琴姫を幸せにする!」
どうにか家の者たちの心を鎮めようと、剣を合わせながら説得しようとしましたが、誰も王子の言葉に耳を貸しません。
供の者も必死で応戦しますが、多勢に無勢、とうとう追いつめられてしまいました。
その時です、振り下ろされた剣の前に琴姫が飛び出して来ました。
無情にもその刃は琴姫の胸を切裂き、侍女の悲鳴が響き渡りました。守ろうとした琴姫を切ってしまった者も、がくりと膝をついて悲鳴を上げました。
「琴姫!」
王子は倒れた琴姫を抱き起こします。
「どうして、どうしてこんなことに……!」
琴姫の胸から溢れる血に、もう長く無い事を悟って王子は涙を流しました。
「ジーク様、お怪我は……?」
「琴姫……! 何故!」
虫の息の琴姫は、痛みを堪えて気丈に微笑みます。
「私の王子様は……本物の王子様でしたのね……それならやはり私とジーク様は結ばれない運命だったのでしょう……」
「そんなことはありません! 私の妻になる人が、あなたをおいてどこにいるというのですか!」
「いいえ、私は恐れ多くも国王陛下に弓を引いた謀反人の娘……。あなた様に最も相応しくない大罪人の血を引く娘です」
「そんなもの、何程のことがあるでしょう。あなたの心はこれ以上無く清らかだと言うのに……!」
「……皆を、責めないでやって下さい。皆、私をずっと守り育ててくれた者たちです」
「分かった、分かったから、死なないで下さい、私の愛しい人!」
力なく震える琴姫の手が、王子の頬を撫でます。そして、いよいよか細くなった声で囁きました。
「ごめんなさい、もうあなた様の顔も見えないわ……。どうか、私のことはお忘れになって……」
「酷い人だ、絶対に忘れたりなどできない……!」
「困った方……、それなら……来世に……」
そう言ったきり、ぱたりと琴姫の手が王子の頬から離れて地面に落ちました。
「あぁ……琴姫! 約束します、来世があるならば必ずあなたを探し出します……!」
事切れた琴姫を抱いた王子の嘆きは、深い森に長く響いていました。