戯曲『琴姫』前編
今は昔、とある国で奢った大貴族の当主が、恐れ多くも国王に弓を引き、謀反を起こしました。しかし、立派な国王と精鋭の騎士達の前に謀反は失敗、当主はじめ一族はことごとく粛正されてしまいました。
ですが、たった一人、生き残った者がおりました。慈悲深き国王陛下は、生まれたばかりの乳飲み子に罪は無いとし、大貴族の娘であった赤ん坊に温情をお掛けになったのです。
それから十数年が経ちました。
乳母と数人のお供と共に、娘は国王陛下の温情に感謝をしながら深い森の奥でひっそりと暮らしておりました。
ある日のことです。その森の近くに狩りに来ていた王子様は、獲物を追ってどんどん森の奥へと入っていってしまい、気が付くとすっかり迷子になっていました。どうしようかと途方に暮れていた所に、どこからともなく琴の音が聞こえて来ました。今まで聞いたどんな琴の音よりも清らかで、美しい音色です。王子は、その音色に導かれて更に森の奥へと進んでゆきました。
そしてすっかり日が暮れた頃、ひっそりと佇む小さな家を見つけたのです。その家の二階から、その音色は聞こえて来ていました。
王子は、その演奏者に是非とも会ってみたいと思い、扉を叩きました。
「狩りをしている内に迷って難儀していましたが、琴の音に導かれてここに来ました。出来れば一晩泊めて頂けませんか」
出て来た家の者達は馬小屋なら泊めるのは構わないが、この家は駄目だと言います。琴の音の主について聞いても、怖い顔をして決して教えてくれません。
王子は仕方なく馬小屋に泊まる事にし、夜が更けるのを待ちました。
王子は何としても琴の音の主に会ってみたかったので、皆が寝静まった頃にそっと馬小屋を抜け出し、家のすぐ傍の木に登って二階の窓を覗き込みました。
中には人影が見えます。きっとこの人だろうと王子は思い、窓を小さくノックして囁きました。
「私は怪しい者ではありません。森で迷って途方に暮れていたところ、あなたの琴の音に導かれて夜になる前にここに辿り着く事ができました。一言お礼を言いたかったのです」
すると窓がそっと開かれ、その人物が顔を出したのです。月明かりに照らされた美しい娘に、王子は目を見張ります。
「あなた様のことは、家の者から聞いております。ご無事で何よりでございました」
その声鈴を転がすように美しく、優しげな微笑みに王子はいっぺんで恋に落ちてしまいました。
「あなたの名前を教えて下さいませんか?私はジークです」
「申し訳ありませんが、私の名前はお教え出来ないのです」
王子は娘の名を聞きましたが、娘は悲しい顔をして頭を振りました。あまりに悲しい顔を娘がするので、王子は無理に名前を聞くことを諦めました。その代わりに、娘に相応しいと思った名を贈りました。
「では、あなたを琴姫とお呼びしましょう。あなたほど素晴らしい琴の弾き手を私は知りません」
「あなた様が知らないだけですわ。私の母は私よりも素晴らしい琴の弾き手だったと乳母やが言っておりましたもの」
「なんと、あなたは琴の女王の娘なのですね。それならばやはり琴姫の名に相応しい」
「面白い方。けれど、私のことはすぐにお忘れ下さい。私は存在してはならない者。今日の事は夢を見たと思って下さいませ」
「何故そのようなことを?」
「理由はお教え出来ません。家の者に街道近くまで送らせますので、どうか朝一番でここを発たれますよう……」
そう言って、娘は窓を閉めてしまいました。
さて、翌朝琴姫の言葉通りに街道近くまで送ってもらって城に帰ったものの、王子は琴姫の事が忘れられません。存在してはならない者などと悲しい事を言って儚げに微笑む謎めいた美しい娘に、王子はすっかり夢中になっていました。時間を作っては何度も琴姫の住む森に行き、琴の音の主に会わせて欲しいと懇願しました。しかし、その願いはいつも家の者たちによって阻まれました。前と同じように夜中に木に登って窓を叩いてみましたが、窓は開かれることはありませんでした。
せめて琴の音だけでも聞きたいと、一日中家の前で待つ事もありました。
そんなある日の事、結局また琴姫に会えず、琴の音も聞けず、がっかりして帰って行く王子に声を掛けて来た者がありました。
「もし、ジーク様」
王子が振り返ると、そこには琴姫と同じくらいの娘が一人立っていました。
「君は?」
「私は、あなた様が琴姫と呼ばれる方の乳兄弟で、侍女としてお仕えしております。私の母は、琴姫様の乳母でございました」
「なんと。琴姫はお元気でいらっしゃいますか?」
「お元気ではありません」
「まさか、ここの所琴の音が聞こえないのは病気だからでしょうか?」
心配する王子の質問には答えず、侍女は厳しい顔で王子に問いかけました。
「ジーク様は、琴姫様をどう思っておいでなのでしょう?」
「私はかの琴姫にすっかり心を奪われました。出来る事なら妻にしたいと思っています」
相手は琴姫に近い存在。王子は思い切って自分の思いを打ち明けました。
すると侍女は嬉しそうに微笑みます。
「その言葉に偽りはございませんか?」
「誓って」
「それならば、私が琴姫様とジーク様をお引き合わせ致します」
思わぬ侍女の言葉に、王子は驚きました。
「なぜ、そんなことをしてくれるのですか? あなた方は私が琴姫に会うことを絶対に許さないのではなかったのですか?」
「私は琴姫様には幸せになって欲しいのです。琴姫様の父君は罪を犯しましたが、琴姫様は何の罪もない白雪のごとく清らかな方。ですからジーク様が琴姫様を真実愛しておられるならば、どうか琴姫様をここから連れ出して幸せにして差し上げて欲しいのです」
「罪人の娘……」
「それを聞いて、心が揺らがれましたか?」
「いいえ、決して。琴姫が私は存在してはならない者だとおっしゃっていた謎が解けたと思っただけです。あの清らかな琴の音を響かせる事が出来る琴姫の心が、清らかでないわけがありません。悲しい運命を背負っていらっしゃるのなら、尚の事私が幸せにして差し上げたい」
「その言葉、決してお忘れなきよう」
こうして侍女を味方に付けた王子は、侍女の手引きで琴姫に会う事ができたのでした。
久しぶりに出会った琴姫は窶れて一層儚い風情で、王子は駆け寄ってその細い手を握ります。
「お元気ではないとうかがいました。ご病気なのでしょうか?」
「ええ、病気なのです」
琴姫の顔は紅を差したように赤く、握った手が震えていました。ますます心配が募ります。
「それはいけない。良い薬を買ってきますから、どのようなご病気なのか教えて下さい」
琴姫の為ならどんな高い薬でも珍しい薬でも手に入れようと王子は意気込みましたが、琴姫は何故か恥ずかしげに俯きます。
「私の病気に薬はないのです」
「いいえ!絶対に見つけて来ますから、どうか教えて下さい」
「あなた様が会いに来て下さったら、それで良いのです。一目で私の心を奪ってしまわれた方」
俯いたまま小さく震える声で想いを打ち明ける琴姫に、王子の胸は高鳴ります。
「ああ琴姫!私の愛しい方!私もあなたと同じ病気なのです。私の病気を癒せる人は、あなたしかいません!」
想いが通じ合っていた事に、王子は感激して琴姫を抱きしめるのでした。