第1話
近藤蓮栖がルナに出会ったのは、都会の喧騒や廃熱や、その他諸々の混沌に溢れた、とても暑い夏の隣国でのことだった。
絶望の縁での出会いだった。
彼女と会う数時間前に、彼は自分の目的が果たせないことを知った。わざわざ海底管道に高い金を払って乗って、慣れない現地人とのコミュニケーションさえ厭わず進んだというのに、その努力は水泡に帰してしまった。
蟹の自動販売機を探していた。
理由なんて無い。ただ、日に日に大きく強力になってゆく隣国の風景を遠目に見ながら、彼はふと蟹の入った小さな冷えた箱のことを思い出した。皆―というのは、自分の周りに座り、ざわざわと話す学校の級友から、地元住宅区のご近所さんまで―が同国の成長ぶりに顔を不安に染める光景に少し閉塞感さえ感じていた。息苦しかった。
そんな中での、『蟹の自動販売機』。
目もくらむような工業生産力や、世界に右に出るものの無い軍事力。
隣国のイメージと言うと、もう彼が生まれた頃にはその二つに限定されていて、その風景も、自分たちの国にある市街地と変わらないようなものであろうが、そこに立つビルが遥かに高く、威厳を纏い、まるで中世の要塞のような風貌を呈している風に錯覚させていた。
でも、その沢山の要塞型建築物の山の麓に、安っぽいプラスチックの入れ物に入った、生の甲殻類を売る箱がある。信じられるだろうか?恐れて、何もしない回りの人々に、少しはその足元にある箱を覗いて見たらどうなんだ、と蓮栖は、言ってやりたかった。
でも、もうない。
大体的な土地整備で、もうその希望の箱は他の不恰好な産業廃棄物と一緒にスクラップにされてしまったという。そもそも、廃棄になる前から、もう蟹の販売さえしていなかったらしい。海洋汚染が原因で、そもそも蟹なんて取れなかった…。よくよく考えればその通りである。とんだお笑いものだ。
悲しくなる自分が居た。でも、なんだか嫌だった。悲しくなる自分の気持ちを封じるために、それ以上に自分をせせら笑った。
今度はその嘲笑が悲しく思えてきた。
ただ一つ発見があった。
彼が来ているのは、隣国の、代表的な大都市のひとつなのだが、実は何処までもあの人々に畏敬の念を抱かせる風景が続いているわけではない、と言う事だった。
百年前の高度経済成長期の開始にあわせ、始まった土地整備。しかし、見た様子からすると、どうやら元々あった貧民街の上から、まるでそれらを覆うようにして半ば強引に始められたように見える。好景気の象徴ともいえる、洗練された白い高層建築物郡を支える地盤は、実際の地面よりも少し高い所にあって、その地盤を今度は沢山の柱が物理的に最も効率の良いとされる配置で並んでいた。
その広さから、人工地盤の下側の空間は真っ暗だった。多分、吹き抜けになっているといっても、反対側の空気の出口が遥か先で、光が届かないのだろう。
ふと、柱と柱の間、まだ少し光が届いている辺りに、小さな、プレハブのようなトタン屋根の小屋があることに気が付いた。
貧民街の名残だろう。
少し気になった蓮栖は、小屋の方に脚を運ぶ。
小屋に近づく程、人工地盤卓も近づいてくる。どんどん自分に覆いかぶさっていく様なその光景は、まるで人々の衣食住、経済、文化を乗せた、巨大な金属の机が、自分の方に崩れかかってくるかのように見えた。そのせいか、蓮栖は一回、眩暈のようなものを覚えた。
いつまで経っても着かない。あまりの地盤卓の大きさに、きっと遠近感が狂ってきているのだろう、とそう思いながら、額についた汗を拭う。夏真っ盛りだ。暑くないわけが無い。
「…ちょっと、遠すぎないか」
独り言さえ出てきた。
かれこれ30分近く歩き続けただろうか。
こうしてみると、人工地盤は割と高い所にあることに気づく。10メートルなんてものではない。もっと高い。
複雑に入り組んだ柱の群れを少し越え、小屋に近づいていく。地盤卓の天板の下は陽が当たらないからか、涼しかった。
何も無い、この空間だけでもとんでもない大きさだろう。縦も大きく、横も大きいのだから。大声を出したら響く前に、空中で音が消えてしまうかもしれない。
もう10メートル先は真っ暗であり、まるで黒い液体で充満しているようにさえ見えた。小屋の、少し褪せた青色が、解像度のとても良い画像の様に、鮮やかに見える。
立っている空間に対し、小屋はとても小さかった。多分の平野にあっても、そんなに大きくは見えないだろう。昔写真で見た、何百年か前のの休憩場の様に見えるが、実際はどうなのか良く分からない。写真では休憩場には自動販売機があった。ひょっとしたら、スクラップを辛うじて逃れた、もう使うことの出来ないオンボロ自動販売機が、あったりするかもしれない。
中に入ってみたかったが、ドアが無かった。透化物質か、と一瞬考えた。だが違うようだった。手で触れた途端、彼の手のセンサーはそれがただのプラスチックだと判定した。
「反対側にあるのかな…」
小さく、囁く声でそう言うと、彼は小屋の周りをぐるっと回ることにした。そこまで大きな小屋ではないから直ぐに回れるだろう。
そして、脚を動かし、回り始める。しかし、ドアが見つからない。もう一回、回ってみても、やはり見つからない。
「どうしたもんかな…」
蓮栖は壁に思いっきり近づく。今は、もと来た道とは反対側に面する方にいるためか、あまり光が差し込まない。しかし、その分、壁全体を良い感じの明るさで見ることが出来た。この小屋の周りの壁に透化物質が使われていないのは、さっき手で触って確かめた。
なら、小屋にドアは無いということだろうか…。でも、それでは腑に落ちないところがある。壁に何か仕掛けがあるのか…。
手を顎に当て、暫く考えた。
「まさか」
そう思って、彼は足を上げた。考えた割りに原始的な方法だが、何もしないよりマシだろう。
小屋が崩れない程度に小屋の壁を蹴ってみた。
すると、その壁の一部が綺麗に小屋の内側に倒れた。
音はしなかった。ただ、少しだけ砂埃が飛んだ。
「マジ、かよ」
思わず口が動いた。自分の「まさか」と思ってした行動が当たってしまったことに、驚愕する。
どうやら、壁の一部が切り抜かれていたようで、そこにまた切り抜いたもとの壁を填め込んでいたようだった。
改めて、自分の突拍子も無い思い付きがまんまと当たってしまったことに、少し唖然とするも、やっと中が覗けるようになったことを思い出し、小屋の中へと向かった。
純粋な好奇心、ともいえる奇妙な感情に背中を押され、ここまで辿り着いた。
そとからは若干陽が当たり、トタン屋根の青が小屋の中にも若干映えていた。少し暗い気がするが、中の様子を確認するには文句なしの明るさだった。
蓮栖は立ちすくむ。
最初こそ馬鹿馬鹿しい、と思って切り捨てた考えだったが、彼は少しづつ、これがひょっとしたら運命だったのではと思うようになっていた。
――布を被った箱状の何かが、彼の前にはあった。
布は少し砂を被っているのか、少し地面と同じ色をしている。その物体は割と大きく、小屋の半分のスペースを占めていた。
蓮栖は、少しそれを眺めた。見覚えのある形だ。
――自動販売機、だろうか。
にしては大きい、がだからといって違うとも判断できない。彼が知らない種類の自動販売機にもっと大きいものがあったのかもしれない。
しかし、どちらにせよもう使うことはできないだろう。そもそも、昔と今では貨幣が違う。モノを買うのはおろか、お金を入れることさえできないに違いない。
でも、まあいいだろう。見つかっただけでも幸運だ。本当に販売機かどうかも分からないのにも関わらず、蓮栖はそう思い、ほくそ笑み、布に手を掛けた。
バサッと布が取り払われる。それと一緒に砂の落ちるサラサラという音も一緒に聞こえた。また少し砂埃が飛び、蓮栖は目を瞑った。そうしながら少し待つ。慣れない砂埃は、時々咳を誘った。少し苦しいのは、ここが小屋の中だからだろう。狭い空間の中の砂埃は長い時間のぼり続けた。
―
――
抑えていた手を目から離す。
幸い余り目の中には入らなかったものの、瞼や睫、目じりの辺りで砂が汗に付き、少し薄い層の様なものを作っていた。表情筋を動かすことにそれらが顔からパラパラと少しずつ落ちて、顔に張り付いていることをありありと知らせている。
指の先で砂を払いながら、耳を澄ませてみた。すると、
――ヴーン
―――ヴーン
――――ヴーン
という、まるで機械の唸るような音がした。
それに気が付いた蓮栖は、砂を払う手を速めた。汗に付きしつこく砂は離れなかったが、大体なくなったところで目を開けた。
その瞬間、心臓がきつく縛られたかのような感覚がし。
心拍数が上がった。
熱が出た。
目が、自然と大きく見開いた。
―モンロー=シュロッサーの美しい少女たち
そう英語の筆記体で書かれた緑色の自動販売機が、彼の目には映った。その左端あたりについた古めかしいデジタルディスプレイは明かりが点いていて、その自動販売機がまた動いていることを示していた。
ども~。ダネクンです。いかがでしたでしょうか…。今回が初投稿でよく色々と分からない事だらけなので、おかしな所があったら指摘して戴けたら幸いです。