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私を嫌っているはずの婚約者から、私の口説き方を相談されました

掲載日:2026/10/15

『婚約者に、好かれていないようです』


 よくある書き出しだった。

 私もそうです、と頷きながら続きを読んだ。


『昨日は庭で、彼女が落とした黄色い手袋を拾いました。手首に小さな蜂の刺繍がある手袋です。ところが、返す時に言えたのは、泥は乾いてから落とした方がいい、ということだけでした』


 待って。

 私は机の脇に置いた手袋を見た。黄色。蜂の刺繍。片方だけ、指の付け根にうっすら泥が残っている。


『彼女は「分かっています」と答え、その後はほとんど話してくれませんでした。婚約して四か月になりますが、二人でいても会話が続きません。どうすれば、私と過ごす時間を楽しんでもらえるでしょうか』


 便箋を裏返した。

 裏に答えがあるわけではない。いきなり知っている人の声で読めるようになったので、いったん表を隠したかったのだ。

 これを書いたのはアンリ様だ。

 昨日も、その前も、私の前では難しい顔ばかりしていた婚約者。


 私は叔母が編集する貴族会報の、恋愛相談欄を手伝っている。

 手伝うと言っても、返事を書くのは私だ。叔母が目を通して紙面へ載せ、掲載を望まない相談には事務所から直接返事を送る。相談者の名前と住所がある封筒は叔母が預かるので、私が読むのは本文だけだった。

 担当者は匿名。二十歳の娘が書いているとは、知られていない。

 私の返事を読んだアンリ様が、感心した顔をしているところを想像した。

 できなかった。私に感心している顔など、見たことがないので。


 なのに、手紙にはこう続いていた。


『私は彼女が好きです。もう婚約しているのだからと、安心して待っていてもよいのでしょうか。それとも、このままでは遅いのでしょうか』


 好き。

 私が。

 あのアンリ様が?


「メイ、さっきから同じ紙を返しているけれど、読みにくい字なの?」


 叔母の声に、私は便箋を机へ伏せた。


「いいえ。とても読みやすいです」


 むしろ一度で読めてしまった。困るくらいに。

 昨日、私は手袋についた泥を指摘され、そんなことも知らないのかと思われた気がして口を閉じた。本当は、刺繍の蜂が本物に見えませんか、と聞きたかったのに。

 あの時の彼も、同じように何かを言いそびれたのだろうか。


 すぐ本人に尋ねればいい。

 それは分かっていた。

 けれど次に会った時、彼が私の好きなものを一生懸命尋ねてくれたら、と考えてしまった。

 いつも私ばかりが、この顔を好きだと思いながら、お茶の温度の話をしているのだ。少しくらい、あちらにも頑張ってほしい。


『まずは、相手の好きなものを一つ尋ねてみてください。答えを聞いたら、好きになった理由も。相手が話し終えるまで、ゆっくり待ってみましょう』


 ここまでは、いつもの私だった。


『いいと思ったところがあれば、言葉にして伝えてください。心の中で思うだけでは、相手には分かりません』


 書き終えた途端、自分が何を待ち受けることになったのか分かった。

 いいと思ったところ。

 私の?

 取り消すなら今だと思いながら、返事を叔母の原稿入れへ差し込んだ。


 ◇


 四日後、アンリ様は我が家の客間で、尋問を始めた。


「メイ嬢は、何がお好きですか」


 お茶を注いだばかりだった。

 そんなにすぐ始めるの? 天気の話くらい挟まなくていいの?(毎回、天気の話だけで終わるのが不満だったのは私です)


「本が、好きです」

「どのようなところが」


 理由まで聞いた。律儀にも、あの返事の通りに。

 私は背筋を伸ばした。人に好きなものを聞かれるのは試験ではない、と先月どなたかに書いた覚えがある。


「結末があるところです」


 違う。いや、違わないけれど。

 アンリ様は真剣に頷いた。


「読み終えるのが、お好きなのですね」

「途中も好きです」

「そうですか」


 また黙った。

 彼は私が話し終えるまで待っているのだ。もう終わりました、と言った方がいい? 言えば次は褒めるところへ進むのだろうか。どうしましょう。そんな区切り方は、あの返事には書かなかった。


「アンリ様は」


 私は急いで口を開いた。


「何がお好きですか」


 彼の目が、まっすぐ私に向いた。

 長い睫毛までよく見える。人の相談なら、落ち着いて目を見て話しましょうと書けるのに、実物がこちらを見ると、まず私が目を逸らしたくなる。


「私も、本は読みます」


 そう言って、アンリ様は皿へ手を伸ばした。

 小さな白い焼き菓子だった。我が家のお茶には、いつもこれが出る。

 彼が一つ取ったので、私も取った。口に入れると、いつものように、何の香りとも言い難い淡い甘さがした。


「おいしいですね」


 アンリ様が言った。

 私は頷きかけて止まった。この方は私を好いてくださっている。それなら、一度くらい違うことを言っても、婚約がなくなるわけではないのでは?


「私は、もう少し味があってもいいと思います」


 言ってしまった。

 アンリ様の手が止まった。


「お好きではなかったのですか」

「嫌いとまでは。ただ、毎回同じなので」

「君のお気に入りだから、いつも出るのだと思っていました」


 私は皿を見た。


「アンリ様が最初に、おいしいとおっしゃったので。母が、これを出しておくようにと」


 彼も皿を見た。

 白い菓子は、何も知らずに残っていた。


「あれは、何か感想を言わなければと思って」

「私も、品のよいお味です、と答えました」

「ええ。そう伺ったので、次も褒めた方がよいかと」


 私たちは一緒に黙った。

 この四か月、何をしていたのだろう。


「では、私たち二人とも」


 そこまで言うと、アンリ様が口元を押さえた。肩が少し揺れていた。

 私はとうとう笑ってしまった。


「すみません。誰も、これを楽しみにしていなかったのですね」

「少なくとも、ここにいる二人は」


 彼の笑う声を、こんなに近くで聞いたのは初めてだった。

 もう少し聞きたいと思い、私も口元を押さえた。


「レモンの入ったものは、お好きですか」

「好きです。酸味が強いくらいの方が」

「私もです」


 やっと、答えを考えずに言えた。

 私はお茶のお代わりを頼み、別の菓子がないか尋ねた。少し待つことになると聞いても、アンリ様は席を立たなかった。

 新しい皿が来るまで、本の話をした。今度は、私が何を読んだかをちゃんと話せた。

 帰る時、彼が何か言いかけた。

 私は待った。褒めてもらえると思ったからではない。いえ、少しは思った。


「今日は、楽しかったです」


 それだけで、次に会う日まで待ちきれない気がした。


 ◇


 次の相談が来たのは、その翌日のことだった。


『教えていただいた通りにしてみたところ、初めて彼女が私に笑ってくれました。菓子のことで二人とも勘違いをしていたと分かり、そこからは本の話もできました。帰りには、楽しかったと伝えることもできました』


 存じています。

 私も昨夜、その一言を思い出して、寝台で何度も寝返りを打ちました。


『ただ、彼女のよいところを伝えるのは難しく、まだできていません。笑った顔が好きだと言うのは、急すぎるでしょうか』


 急ではありません。

 どうぞ。今すぐ。できれば、こちらを見ながら。

 私は返事の紙を引き寄せ、ペンを取った。


『彼女は、ほかの人とならよく話す方です。以前から、その話を聞くのが好きでした。私が話し相手になると黙ってしまうので、どうしても言葉を選びすぎます。余計なことを言って、せっかくできた会話までなくしたくありません』


 ペン先を紙につける前に、手が止まった。

 彼が言葉を選んでいることは、昨日、少しだけ分かった。

 けれど、そこまで怖がっていたとは思わなかった。私だけが、嫌われないようにと、言いたいことを飲み込んでいたつもりだった。


 好きなものを尋ねてください。

 いいと思ったところを伝えてください。

 私は安全な机のこちら側から書いて、次は何を言ってくれるのだろうと楽しみに待っていた。

 同じことを私がするとなると、どうだろう。


 アンリ様の笑う顔が好きです。

 言える?

 昨日は、彼の睫毛が近くに見えただけで、本の話すらできなくなりかけたというのに。


 このまま返事を書けば、また彼の方から頑張ってくださる。

 私の知りたいことを尋ねてもらい、言ってほしいことを言ってもらう。うまくいけば、その時の気持ちまで次の手紙で読める。

 ずるい。

 しかも、かなり楽しい。困ったことに、その楽しさを知ってしまった。


 私はペンを置き、相談の便箋を畳んだ。

 彼は、私だとは知らずに、頼りになる相談役だと思って手紙を書いたのだ。この手紙を読んで頬を緩めている婚約者に宛てたものではない。

 先に、それを話さなくては。


「叔母様、この方には、今回はお返事を出しません」


 叔母は原稿から顔を上げた。


「答えに困る内容だった?」

「私から直接、お話しすることができる相手だと分かったので」

「そう。では、事務所から二重に出さないようにしておくわ」


 叔母は相談の束に小さな札を挟み、次号の原稿は明日までね、と付け足した。

 締切は、私の恋がどうなっていようと来る。


 机に紙を二枚並べた。

 一枚は、前から掲載を決めていた別の相談への返事。もう一枚は、アンリ様に渡す手紙。

 相談欄の原稿は、いつも通りに書けた。

 もう一枚には、アンリ様、と書いた後、しばらく点が増えた。ペン先を置いては、何も書けずに離していたからだ。


『先日は、貴重なお時間をありがとうございました』


 商談ではない。

 私はその行を消した。


『私も、楽しかったです』


 今度は消さなかった。

 昨日、あの人が言ってくれたことに、私はきちんと答えていない。声が上ずるのを恐れて、ただ頭を下げてお見送りしてしまった。

 その先を、何度も止まりながら書いた。


 仕上がった二枚を並べると、相談欄の原稿の方が、ずっと立派に見えた。落ち着いているし、字も揃っている。

 けれど、次の面会へ持っていくのは、もう一枚の方だ。

 折る前に読み返した。あまりに短くて、足りない気がした。

 だからといって、末尾に「焦らずに伝えてみましょう」と足すわけにもいかない。


 ◇


 次の面会は、アンリ様のお屋敷だった。

 庭に面した小さな客間へ通されると、卓にはレモンの焼き菓子があった。彼は私がそれを見るのを待っていたらしい。


「今日は、こちらを」


 少しだけ誇らしそうだった。

 やめてほしい。そういう顔をされると、これから話すことを、全部後回しにしたくなる。


「その前に、お話があります」


 アンリ様が菓子皿から手を離した。

 私も膝の上で袋を握り、口を開いた。


「貴族会報の恋愛相談欄を、ご存じですよね」


 彼の背筋が伸びた。


「はい」

「あの返事を書いているのは、私です」


 アンリ様は私を見た。

 それから、袋から取り出した手紙を見た。

 私は先に、彼が相談欄へ送った二通を卓へ置いた。どちらも見覚えのある便箋だと分かった途端、彼の顔が赤くなった。


「先生が」

「先生ではありません」

「ですが、私は」

「ええ。二通とも、そう書いていらっしゃいました」


 ああ、そこまで言わなくてよかった。

 アンリ様は片手で口を覆った。しばらくそのままでいて、やっと指の間から声を出した。


「いつ、私だと」

「最初の手袋のお話で」


 彼が顔を上げた。


「では、あの日のお茶は」

「分かっていて、お会いしました」


 私は目を伏せかけ、こらえた。

 目を見て話すのは、今だった。


「嬉しくて、少し試しました。私にどんなことを聞いてくださるのか、褒めてくださるのか、知りたくなって」


 口にすると、ひどい。

 返事を書いていた時には、とてもよい思いつきに見えたのに。


「黙っていて、ごめんなさい。二通目にはお返事を書かず、今日は自分の言葉で話そうと思って来ました」


 アンリ様は手紙の端を押さえた。


「私は帰ってから、何度も書き直して」


 途中で止まり、困ったように私を見た。


「その時の気持ちまで、本人に読まれていたのですね」

「はい」

「もう一度読むのは、やめてください」


 私は頷き、二通とも彼の方へ押しやった。

 アンリ様はそれを重ねて畳み、手元へ引き寄せた。怒っているのか、恥ずかしいのか、両方なのか。何を言えばいいのか分からず、膝の袋を握り直した。


「私からも、お渡ししたいものがあります」


 今度は自分の手紙を差し出した。

 手紙が自分の手を離れると、急に指先が冷たくなった。せめて読んでいる間だけは、壁の絵を見ていてもいいだろうか。

 だめだ。誰も禁じていないけれど、ここで目を逸らしたら、また誤解される気がした。


 アンリ様は短い手紙を読み始めた。


『私も、楽しかったです。アンリ様がお帰りになると、次にお会いする日のことを考えています。私が黙るのは、つまらないからではありません。好きな人に、変な娘だと思われたくないからです』


 終わり。

 日付と名前はある。それ以外には何もない。

 彼が裏を見たので、私は首を振った。


「続きはありません」

「好きな人、というのは」


 そこで、私を見る。

 私も彼を見た。


「アンリ様です」


 声が小さかったので、もう一度言うつもりで息を吸った。

 けれどアンリ様は、聞こえました、と早口に言った。


「ただ、私がそうだったらいいと、思いすぎていたので」


 彼は手紙を見直した。

 この人が好きだと思った。昨日より、四か月前より。私の手紙に書かれたことを、間違いなく自分のことだと確かめている、その顔が好きだった。


「私も、君が好きです」


 アンリ様が言った。

 手紙では読んだ。知っている。なのに、本人の声で聞くと、同じ言葉に思えなかった。


「いつからですか」


 思わず尋ねた。

 彼が婚約した時からだと言えば、私も、と言うつもりだった。


「婚約前の、叔父の茶会で」

「あの、芝居の話をした時?」

「はい。最後まで犬が帰ってこなかった、と君が言った時です」


 私は目を閉じた。

 ほかになかったのだろうか。美しい役者や見事な舞台装置の話をしている席で、序幕に逃げた犬を気にした、あの時なのか。


「王子が旅へ出た理由が、その犬を捜すためだったのですもの」

「私も気になっていました。けれど皆さんが絶賛するので、自分だけ見落としたのかと思って」


 アンリ様が笑った。


「君が言ってくれて、ほっとしました。もっと話したいと思って、父に婚約の話を頼みました」

「そうだったのですか」

「はい。婚約すれば、ゆっくり話せると思っていたのですが」


 その先は、私も知っている。

 よく知っている。四か月分。


「私、黙っていれば、落ち着いた娘に見えると思っていました」

「私は、何を言えば喜んでもらえるのか考えていました」


 どちらからともなく笑ってしまった。

 笑うと、アンリ様の指が手紙の端を軽く撫でた。


「こちらは、読み返してもいいですか」


 私が書いた方の手紙だった。


「はい。そちらは」


 相談への返事より、何度も書き損じた短い手紙を、彼は丁寧に折り直した。

 私はようやく菓子を取った。食べれば少し落ち着けると思ったのだ。

 レモンの香りはちゃんと分かった。それでも、どのくらい甘かったかは、帰ってからも思い出せなかった。


 ◇


 帰り際、アンリ様が門まで送ってくださった。

 庭の小道を並んで歩く。来た時には気づかなかった小さな花が、足元に咲いていた。

 何か話したい。でも、客間で交わした言葉をもう少し思い出していたい。

 迷っているうちに、彼が私を呼んだ。


「メイ」


 足が止まった。

 いつもの「嬢」がなかった。それだけで、こちらを向く顔まで近くなったように思えた。


「手を取っても、いいですか」


 返事を書いた時は、彼の言葉を待つことばかり考えていた。

 今は、私の返事を彼が待っている。

 はい、と答えればいい。それなら短い。声も上ずらずに済む。


「客間にいた時から、そうしてほしかったです」


 短く済まなかった。

 アンリ様が目を見開いたので、私は差し出された手に、自分の手を重ねた。もう取り消せないなら、せめて最後まで。

 彼の指が、手袋越しに私の指を包んだ。


「私も、あの時から迷っていました」

「ずいぶん待ちました」

「すみません」


 真面目に謝られて、私は笑ってしまった。

 まだ手を取ったばかりなのに、門が近すぎる。帰りの馬車が見えたので、少し歩くのを遅くした。彼も歩調を緩めてくれた。


「メイの、笑った顔が好きです」


 アンリ様が言った。

 私が見上げると、言葉を探すように一度口を閉じた。


「笑っていなくても、好きなのですが」


 分かっています、と答えかけた。

 それでは、手袋を拾ってもらった時と同じだ。あの時は何も分かっていなかったけれど、今日は、ちゃんと嬉しい。


「もっと、聞いていたいです」


 指を握り返すと、彼も笑った。

 私はその顔を、目を逸らさずに見ていた。

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