私を嫌っているはずの婚約者から、私の口説き方を相談されました
『婚約者に、好かれていないようです』
よくある書き出しだった。
私もそうです、と頷きながら続きを読んだ。
『昨日は庭で、彼女が落とした黄色い手袋を拾いました。手首に小さな蜂の刺繍がある手袋です。ところが、返す時に言えたのは、泥は乾いてから落とした方がいい、ということだけでした』
待って。
私は机の脇に置いた手袋を見た。黄色。蜂の刺繍。片方だけ、指の付け根にうっすら泥が残っている。
『彼女は「分かっています」と答え、その後はほとんど話してくれませんでした。婚約して四か月になりますが、二人でいても会話が続きません。どうすれば、私と過ごす時間を楽しんでもらえるでしょうか』
便箋を裏返した。
裏に答えがあるわけではない。いきなり知っている人の声で読めるようになったので、いったん表を隠したかったのだ。
これを書いたのはアンリ様だ。
昨日も、その前も、私の前では難しい顔ばかりしていた婚約者。
私は叔母が編集する貴族会報の、恋愛相談欄を手伝っている。
手伝うと言っても、返事を書くのは私だ。叔母が目を通して紙面へ載せ、掲載を望まない相談には事務所から直接返事を送る。相談者の名前と住所がある封筒は叔母が預かるので、私が読むのは本文だけだった。
担当者は匿名。二十歳の娘が書いているとは、知られていない。
私の返事を読んだアンリ様が、感心した顔をしているところを想像した。
できなかった。私に感心している顔など、見たことがないので。
なのに、手紙にはこう続いていた。
『私は彼女が好きです。もう婚約しているのだからと、安心して待っていてもよいのでしょうか。それとも、このままでは遅いのでしょうか』
好き。
私が。
あのアンリ様が?
「メイ、さっきから同じ紙を返しているけれど、読みにくい字なの?」
叔母の声に、私は便箋を机へ伏せた。
「いいえ。とても読みやすいです」
むしろ一度で読めてしまった。困るくらいに。
昨日、私は手袋についた泥を指摘され、そんなことも知らないのかと思われた気がして口を閉じた。本当は、刺繍の蜂が本物に見えませんか、と聞きたかったのに。
あの時の彼も、同じように何かを言いそびれたのだろうか。
すぐ本人に尋ねればいい。
それは分かっていた。
けれど次に会った時、彼が私の好きなものを一生懸命尋ねてくれたら、と考えてしまった。
いつも私ばかりが、この顔を好きだと思いながら、お茶の温度の話をしているのだ。少しくらい、あちらにも頑張ってほしい。
『まずは、相手の好きなものを一つ尋ねてみてください。答えを聞いたら、好きになった理由も。相手が話し終えるまで、ゆっくり待ってみましょう』
ここまでは、いつもの私だった。
『いいと思ったところがあれば、言葉にして伝えてください。心の中で思うだけでは、相手には分かりません』
書き終えた途端、自分が何を待ち受けることになったのか分かった。
いいと思ったところ。
私の?
取り消すなら今だと思いながら、返事を叔母の原稿入れへ差し込んだ。
◇
四日後、アンリ様は我が家の客間で、尋問を始めた。
「メイ嬢は、何がお好きですか」
お茶を注いだばかりだった。
そんなにすぐ始めるの? 天気の話くらい挟まなくていいの?(毎回、天気の話だけで終わるのが不満だったのは私です)
「本が、好きです」
「どのようなところが」
理由まで聞いた。律儀にも、あの返事の通りに。
私は背筋を伸ばした。人に好きなものを聞かれるのは試験ではない、と先月どなたかに書いた覚えがある。
「結末があるところです」
違う。いや、違わないけれど。
アンリ様は真剣に頷いた。
「読み終えるのが、お好きなのですね」
「途中も好きです」
「そうですか」
また黙った。
彼は私が話し終えるまで待っているのだ。もう終わりました、と言った方がいい? 言えば次は褒めるところへ進むのだろうか。どうしましょう。そんな区切り方は、あの返事には書かなかった。
「アンリ様は」
私は急いで口を開いた。
「何がお好きですか」
彼の目が、まっすぐ私に向いた。
長い睫毛までよく見える。人の相談なら、落ち着いて目を見て話しましょうと書けるのに、実物がこちらを見ると、まず私が目を逸らしたくなる。
「私も、本は読みます」
そう言って、アンリ様は皿へ手を伸ばした。
小さな白い焼き菓子だった。我が家のお茶には、いつもこれが出る。
彼が一つ取ったので、私も取った。口に入れると、いつものように、何の香りとも言い難い淡い甘さがした。
「おいしいですね」
アンリ様が言った。
私は頷きかけて止まった。この方は私を好いてくださっている。それなら、一度くらい違うことを言っても、婚約がなくなるわけではないのでは?
「私は、もう少し味があってもいいと思います」
言ってしまった。
アンリ様の手が止まった。
「お好きではなかったのですか」
「嫌いとまでは。ただ、毎回同じなので」
「君のお気に入りだから、いつも出るのだと思っていました」
私は皿を見た。
「アンリ様が最初に、おいしいとおっしゃったので。母が、これを出しておくようにと」
彼も皿を見た。
白い菓子は、何も知らずに残っていた。
「あれは、何か感想を言わなければと思って」
「私も、品のよいお味です、と答えました」
「ええ。そう伺ったので、次も褒めた方がよいかと」
私たちは一緒に黙った。
この四か月、何をしていたのだろう。
「では、私たち二人とも」
そこまで言うと、アンリ様が口元を押さえた。肩が少し揺れていた。
私はとうとう笑ってしまった。
「すみません。誰も、これを楽しみにしていなかったのですね」
「少なくとも、ここにいる二人は」
彼の笑う声を、こんなに近くで聞いたのは初めてだった。
もう少し聞きたいと思い、私も口元を押さえた。
「レモンの入ったものは、お好きですか」
「好きです。酸味が強いくらいの方が」
「私もです」
やっと、答えを考えずに言えた。
私はお茶のお代わりを頼み、別の菓子がないか尋ねた。少し待つことになると聞いても、アンリ様は席を立たなかった。
新しい皿が来るまで、本の話をした。今度は、私が何を読んだかをちゃんと話せた。
帰る時、彼が何か言いかけた。
私は待った。褒めてもらえると思ったからではない。いえ、少しは思った。
「今日は、楽しかったです」
それだけで、次に会う日まで待ちきれない気がした。
◇
次の相談が来たのは、その翌日のことだった。
『教えていただいた通りにしてみたところ、初めて彼女が私に笑ってくれました。菓子のことで二人とも勘違いをしていたと分かり、そこからは本の話もできました。帰りには、楽しかったと伝えることもできました』
存じています。
私も昨夜、その一言を思い出して、寝台で何度も寝返りを打ちました。
『ただ、彼女のよいところを伝えるのは難しく、まだできていません。笑った顔が好きだと言うのは、急すぎるでしょうか』
急ではありません。
どうぞ。今すぐ。できれば、こちらを見ながら。
私は返事の紙を引き寄せ、ペンを取った。
『彼女は、ほかの人とならよく話す方です。以前から、その話を聞くのが好きでした。私が話し相手になると黙ってしまうので、どうしても言葉を選びすぎます。余計なことを言って、せっかくできた会話までなくしたくありません』
ペン先を紙につける前に、手が止まった。
彼が言葉を選んでいることは、昨日、少しだけ分かった。
けれど、そこまで怖がっていたとは思わなかった。私だけが、嫌われないようにと、言いたいことを飲み込んでいたつもりだった。
好きなものを尋ねてください。
いいと思ったところを伝えてください。
私は安全な机のこちら側から書いて、次は何を言ってくれるのだろうと楽しみに待っていた。
同じことを私がするとなると、どうだろう。
アンリ様の笑う顔が好きです。
言える?
昨日は、彼の睫毛が近くに見えただけで、本の話すらできなくなりかけたというのに。
このまま返事を書けば、また彼の方から頑張ってくださる。
私の知りたいことを尋ねてもらい、言ってほしいことを言ってもらう。うまくいけば、その時の気持ちまで次の手紙で読める。
ずるい。
しかも、かなり楽しい。困ったことに、その楽しさを知ってしまった。
私はペンを置き、相談の便箋を畳んだ。
彼は、私だとは知らずに、頼りになる相談役だと思って手紙を書いたのだ。この手紙を読んで頬を緩めている婚約者に宛てたものではない。
先に、それを話さなくては。
「叔母様、この方には、今回はお返事を出しません」
叔母は原稿から顔を上げた。
「答えに困る内容だった?」
「私から直接、お話しすることができる相手だと分かったので」
「そう。では、事務所から二重に出さないようにしておくわ」
叔母は相談の束に小さな札を挟み、次号の原稿は明日までね、と付け足した。
締切は、私の恋がどうなっていようと来る。
机に紙を二枚並べた。
一枚は、前から掲載を決めていた別の相談への返事。もう一枚は、アンリ様に渡す手紙。
相談欄の原稿は、いつも通りに書けた。
もう一枚には、アンリ様、と書いた後、しばらく点が増えた。ペン先を置いては、何も書けずに離していたからだ。
『先日は、貴重なお時間をありがとうございました』
商談ではない。
私はその行を消した。
『私も、楽しかったです』
今度は消さなかった。
昨日、あの人が言ってくれたことに、私はきちんと答えていない。声が上ずるのを恐れて、ただ頭を下げてお見送りしてしまった。
その先を、何度も止まりながら書いた。
仕上がった二枚を並べると、相談欄の原稿の方が、ずっと立派に見えた。落ち着いているし、字も揃っている。
けれど、次の面会へ持っていくのは、もう一枚の方だ。
折る前に読み返した。あまりに短くて、足りない気がした。
だからといって、末尾に「焦らずに伝えてみましょう」と足すわけにもいかない。
◇
次の面会は、アンリ様のお屋敷だった。
庭に面した小さな客間へ通されると、卓にはレモンの焼き菓子があった。彼は私がそれを見るのを待っていたらしい。
「今日は、こちらを」
少しだけ誇らしそうだった。
やめてほしい。そういう顔をされると、これから話すことを、全部後回しにしたくなる。
「その前に、お話があります」
アンリ様が菓子皿から手を離した。
私も膝の上で袋を握り、口を開いた。
「貴族会報の恋愛相談欄を、ご存じですよね」
彼の背筋が伸びた。
「はい」
「あの返事を書いているのは、私です」
アンリ様は私を見た。
それから、袋から取り出した手紙を見た。
私は先に、彼が相談欄へ送った二通を卓へ置いた。どちらも見覚えのある便箋だと分かった途端、彼の顔が赤くなった。
「先生が」
「先生ではありません」
「ですが、私は」
「ええ。二通とも、そう書いていらっしゃいました」
ああ、そこまで言わなくてよかった。
アンリ様は片手で口を覆った。しばらくそのままでいて、やっと指の間から声を出した。
「いつ、私だと」
「最初の手袋のお話で」
彼が顔を上げた。
「では、あの日のお茶は」
「分かっていて、お会いしました」
私は目を伏せかけ、こらえた。
目を見て話すのは、今だった。
「嬉しくて、少し試しました。私にどんなことを聞いてくださるのか、褒めてくださるのか、知りたくなって」
口にすると、ひどい。
返事を書いていた時には、とてもよい思いつきに見えたのに。
「黙っていて、ごめんなさい。二通目にはお返事を書かず、今日は自分の言葉で話そうと思って来ました」
アンリ様は手紙の端を押さえた。
「私は帰ってから、何度も書き直して」
途中で止まり、困ったように私を見た。
「その時の気持ちまで、本人に読まれていたのですね」
「はい」
「もう一度読むのは、やめてください」
私は頷き、二通とも彼の方へ押しやった。
アンリ様はそれを重ねて畳み、手元へ引き寄せた。怒っているのか、恥ずかしいのか、両方なのか。何を言えばいいのか分からず、膝の袋を握り直した。
「私からも、お渡ししたいものがあります」
今度は自分の手紙を差し出した。
手紙が自分の手を離れると、急に指先が冷たくなった。せめて読んでいる間だけは、壁の絵を見ていてもいいだろうか。
だめだ。誰も禁じていないけれど、ここで目を逸らしたら、また誤解される気がした。
アンリ様は短い手紙を読み始めた。
『私も、楽しかったです。アンリ様がお帰りになると、次にお会いする日のことを考えています。私が黙るのは、つまらないからではありません。好きな人に、変な娘だと思われたくないからです』
終わり。
日付と名前はある。それ以外には何もない。
彼が裏を見たので、私は首を振った。
「続きはありません」
「好きな人、というのは」
そこで、私を見る。
私も彼を見た。
「アンリ様です」
声が小さかったので、もう一度言うつもりで息を吸った。
けれどアンリ様は、聞こえました、と早口に言った。
「ただ、私がそうだったらいいと、思いすぎていたので」
彼は手紙を見直した。
この人が好きだと思った。昨日より、四か月前より。私の手紙に書かれたことを、間違いなく自分のことだと確かめている、その顔が好きだった。
「私も、君が好きです」
アンリ様が言った。
手紙では読んだ。知っている。なのに、本人の声で聞くと、同じ言葉に思えなかった。
「いつからですか」
思わず尋ねた。
彼が婚約した時からだと言えば、私も、と言うつもりだった。
「婚約前の、叔父の茶会で」
「あの、芝居の話をした時?」
「はい。最後まで犬が帰ってこなかった、と君が言った時です」
私は目を閉じた。
ほかになかったのだろうか。美しい役者や見事な舞台装置の話をしている席で、序幕に逃げた犬を気にした、あの時なのか。
「王子が旅へ出た理由が、その犬を捜すためだったのですもの」
「私も気になっていました。けれど皆さんが絶賛するので、自分だけ見落としたのかと思って」
アンリ様が笑った。
「君が言ってくれて、ほっとしました。もっと話したいと思って、父に婚約の話を頼みました」
「そうだったのですか」
「はい。婚約すれば、ゆっくり話せると思っていたのですが」
その先は、私も知っている。
よく知っている。四か月分。
「私、黙っていれば、落ち着いた娘に見えると思っていました」
「私は、何を言えば喜んでもらえるのか考えていました」
どちらからともなく笑ってしまった。
笑うと、アンリ様の指が手紙の端を軽く撫でた。
「こちらは、読み返してもいいですか」
私が書いた方の手紙だった。
「はい。そちらは」
相談への返事より、何度も書き損じた短い手紙を、彼は丁寧に折り直した。
私はようやく菓子を取った。食べれば少し落ち着けると思ったのだ。
レモンの香りはちゃんと分かった。それでも、どのくらい甘かったかは、帰ってからも思い出せなかった。
◇
帰り際、アンリ様が門まで送ってくださった。
庭の小道を並んで歩く。来た時には気づかなかった小さな花が、足元に咲いていた。
何か話したい。でも、客間で交わした言葉をもう少し思い出していたい。
迷っているうちに、彼が私を呼んだ。
「メイ」
足が止まった。
いつもの「嬢」がなかった。それだけで、こちらを向く顔まで近くなったように思えた。
「手を取っても、いいですか」
返事を書いた時は、彼の言葉を待つことばかり考えていた。
今は、私の返事を彼が待っている。
はい、と答えればいい。それなら短い。声も上ずらずに済む。
「客間にいた時から、そうしてほしかったです」
短く済まなかった。
アンリ様が目を見開いたので、私は差し出された手に、自分の手を重ねた。もう取り消せないなら、せめて最後まで。
彼の指が、手袋越しに私の指を包んだ。
「私も、あの時から迷っていました」
「ずいぶん待ちました」
「すみません」
真面目に謝られて、私は笑ってしまった。
まだ手を取ったばかりなのに、門が近すぎる。帰りの馬車が見えたので、少し歩くのを遅くした。彼も歩調を緩めてくれた。
「メイの、笑った顔が好きです」
アンリ様が言った。
私が見上げると、言葉を探すように一度口を閉じた。
「笑っていなくても、好きなのですが」
分かっています、と答えかけた。
それでは、手袋を拾ってもらった時と同じだ。あの時は何も分かっていなかったけれど、今日は、ちゃんと嬉しい。
「もっと、聞いていたいです」
指を握り返すと、彼も笑った。
私はその顔を、目を逸らさずに見ていた。




