【最後の朝】
「おはよ~、碧。まだ寝てるの?」
ノックもそこそこに、雛は当たり前のように碧の部屋のドアを開けた。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、薄暗い部屋を細く切り取っている。
ベッドの上では、布団に半分埋もれた碧がわずかに身じろぎした。
「……おはよ、雛。もう少し寝る……」
枕に顔を押しつけたまま、眠気の残った声を返す。
「もう高二でしょ? 朝くらいちゃんと起きなよ……」
呆れたように言いながら、雛は勝手に部屋へ入ってくる。
小学生の頃から、ずっとこんな調子だった。
朝になれば雛がやってきて、なかなか起きない碧を叩き起こす。
高校が別々になった今でも、その習慣だけは変わっていない。
「ほら、起きる」
「あと五分……」
「昨日もそれ言ってたじゃん」
「昨日の五分と今日の五分は別物だから……」
「意味わかんないんだけど」
雛が布団の端を掴む。
碧は取られまいと、反射的に布団を抱き込んだ。
そんな、いつもと何一つ変わらない朝だった。
「ねぇ……碧」
雛の手が、布団を掴んだまま止まった。
「ん……?」
「なんか声、変じゃない? 気の……せい?」
その言葉に、碧はようやく薄く目を開ける。
「声?」
自分でも確かめるように呟いてみる。
確かに、少し高い。
寝起きだからなのか。喉でも痛めたのか。
いつもの自分の声より、どこか軽く、柔らかい。
「……寝起きだからじゃない?」
「そうかなぁ……」
雛は納得していない様子で、碧の顔を覗き込む。
「昨日こんな声だったっけ?」
「知らないよ。毎日聞いてるの雛だろ」
「だから言ってるんだけど」
「風邪じゃない? ちょっと喉変なのかも」
碧はそう言って、再び枕へ顔を沈めた。
声なんて、体調ひとつで変わる。
その程度のことだと思っていた。
少なくとも、この時は。
「それに……なんか筋肉落ちた?」
「まぁ……運動してないしな。部活辞めてから」
「だらしないなぁ。たまにはランニングでもしたら?」
「朝から走る元気あるなら、今こんなに眠くないって」
「そういうとこだよ」
雛は呆れたように笑いながら、布団の端を軽く引っ張った。
「先に下行ってるからね。早く着替えなよ!」
そう言い残して、雛は部屋を出ていった。
ぱたぱたと階段を下りていく足音が、次第に遠ざかっていく。
「……朝から元気だな」
碧は小さくため息をつきながら、ようやく布団から身体を起こした。
まだ少し眠い。
ベッド脇に置いてあった制服へ手を伸ばし、シャツに袖を通す。
そのとき、碧はほんの少し眉を寄せた。
「……?」
袖が、いつもよりわずかに余っているような気がした。
けれど、眠気のせいだろうと深く考えることもなく、そのまま着替えを続けた。
「おはよう、碧。早く食べちゃいなさい」
リビングへ下りると、母はキッチンで洗い物をしていた。
テーブルの上には、すでに碧の朝食が並べられている。
「遅刻するよ? 早く食べちゃいな」
「分かってるって……」
まだ眠気の抜けきらない声で返しながら、碧は椅子を引いた。
その向こうでは、雛がソファに座り、テレビを眺めながらコーヒーを飲んでいる。
まるで自分の家みたいにくつろいでいる姿も、いつものことだった。
「碧、今日ほんと遅いよ」
「誰かさんが朝からうるさいから余計に眠い」
「起こしてあげた人に言う?」
雛は呆れたように笑って、カップを口元へ運んだ。
朝食を流し込むように済ませると、碧は雛と一緒に家を出た。
いつもの道を並んで歩き、しばらくして交差点の前で足を止める。
ここから先は別々だ。
「じゃあ雛。また明日」
「うん、また明日!」
雛はそのまま歩き出しかけて、ふと思い出したように振り返った。
「ちゃんと勉強しなよー!」
「それ、雛が言う?」
「私はちゃんとしてるもん!」
「はいはい」
碧が適当に手を振ると、雛はむっとした顔を見せながらも、そのまま反対方向へ歩いていった。
背中まで伸びた艶のある黒髪が、朝の風を受けてさらりと揺れる。
碧も踵を返し、自分の学校へ向かった。
毎朝繰り返している、いつもの別れだった。
雛と別れてからも、碧の頭には朝の会話が少しだけ残っていた。
声が高い。
筋肉が落ちたように見える。
制服も、気のせいか少しだけ緩い。
「まぁ……気のせいでしょ」
誰に聞かせるでもなくそう呟き、碧はそのまま学校の校門をくぐった。
朝の校舎には、いつもと変わらない喧騒が広がっている。
その中へ紛れ込むように、碧は昇降口へ向かった。
教室へ向かう途中、すれ違うクラスメイトに軽く手を上げながら挨拶をする。
「おはよ、碧」
「今日眠そうじゃん」
「いつもでしょ」
そんな何気ないやり取りを交わしながら、碧は廊下の端にある自動販売機へ向かった。
財布から小銭を取り出し、いつも買っているお茶のボタンを押す。
ガコン、と音を立ててペットボトルが落ちてくる。
「よいしょ……」
腰を屈めて取り出し口へ手を伸ばし、ボトルを掴む。
そのままキャップを開け、一口飲んだ。
碧は教室に入ると、自分の席へ向かった。
鞄を机の横に掛け、そのまま椅子に腰を下ろす。
「おはよ」
碧は隣の席に座る裕司へ、いつものように声をかけた。
「……おはよ。今日も死にそうな顔してんな」
裕司は一瞬だけ、何かに引っかかったような表情を見せた。
けれど、それもほんの一瞬だった。
すぐにいつもの調子へ戻り、何事もなかったように笑う。
「朝からそのテンション出せるの、すごいよな」
「碧が低すぎるだけだって」
「朝はこんなもんでしょ」
裕司が一瞬見せた表情も、碧は特に気に留めなかった。
朝から雛にも声がおかしいと言われていたが、寝起きならそんな日もある。
碧はそれ以上、考えることもしなかった。
そのまま一時間目の授業が始まり、碧はいつも通りノートを開いた。
黒板の文字を写し、教師の話を聞き流す。
気づけば、朝に感じていた違和感のことなど、すっかり頭から抜けていた。
その後も特に変わったことはなく、碧はいつも通り授業を受けた。
ただ、午後に入った頃から、妙に身体が重く感じるようになっていた。
放課後。
校門を出てしばらく歩いたところで、碧はふと足を緩める。
「……なんか熱っぽいなぁ」
朝から少し変だった声のことを思い出す。
やっぱり風邪だったのかもしれない。
そう考えると、身体のだるさにも妙に納得がいった。
家に着く頃には、いつもより足取りも重くなっていた。
「ただいま」
「おかえり」
リビングにいた母へ声をかけ、そのまま鞄を下ろす。
「母さん。風邪ひいたかも。薬ある?」
「風邪?」
「なんか熱っぽい。今日、早めに寝るわ」
そう言いながら、碧は額に手を当てた。
自分でも分かるくらい、少し熱を持っていた。
「碧? 起きてる? おかゆ作ったけど、食べる?」
母がおかゆを乗せたお盆を持って、部屋へ入ってきた。
「ん……少しだけ」
碧は布団の中から、重たい身体をゆっくり起こす。
その顔を見た母が、すぐに眉を寄せた。
「あら……すごい熱」
碧の額に手を当てる。
「ちょっと待ってなさい」
一度部屋を出た母は、すぐに体温計を持って戻ってきた。
「ほら、熱測りなさい」
「そんなあるかな……」
脇に体温計を挟み、しばらく待つ。
やがて電子音が鳴った。
碧が画面を見る。
「……三十九・一度」
「え?」
母が体温計を受け取る。
表示された数字を確認すると、さっきまでより明らかに表情が険しくなった。
「三十九・一度……高いじゃない」
「そりゃ、だるいわけだ……」
碧は力なくそう呟き、そのまま枕へ身体を預けた。
「今日はもう寝るわ」
「……そうしなさい」
母はもう一度、碧の額に手を当てた。
「まだ熱いね……」
「寝れば治るって」
「三十九度もあるんだから、そんな簡単に考えないの」
少し強めに言いながら、母は布団を碧の肩まで掛け直す。
「今日はもうゆっくり休みなさい。明日の朝になっても熱が下がってなかったら、すぐ病院行きましょ」
「ん……分かった」
「お水はここに置いとくから。夜中でも苦しくなったら呼ぶのよ?」
「はいはい」
「ほんとにもう……」
呆れたように言いながらも、母はしばらく碧の顔を見つめていた。
「……ちゃんと寝なさいよ」
そう言い残し、母は静かに部屋を出ていった。
碧は重たい瞼を閉じる。
身体は火照っているのに、妙に寒い。
布団を肩まで引き上げると、ほどなくして意識は眠りへ沈んでいった。
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