第9話:暗室の告白
指先が、氷を掴んでいるかのように冷たい。
私は、三十四枚目の写真を捲った。
そこには、自宅の書斎の、あの使い古された鏡が写っていた。
鏡の中にいたのは、私の記憶にある厳格な父ではなかった。
頬はこけ、髪は白く薄くなり、病の色に染まった一人の老いた男だ。
父は、震える両手で重いニコンを必死に支え、自分自身を撮っていた。
その顔は、泣いていた。
歪んだ口元、溢れる涙を隠そうともせず、ファインダーを覗き込むことさえできないほど激しく。
そして、父の傍らには――あの日、ゴミ箱へ捨てられたはずの、私のボロボロのスケッチブックが、大切そうに開いて置かれていた。
「……あ、あ……」
喉の奥が、熱い塊に塞がれて声が出ない。
続けて三十五枚目を捲る。
それは、私のデッサンのアップだった。かつて父が「食っていけない」と切り捨てた、私の稚拙な絵。
写真の隅には、父の節くれだった指が写り込んでいる。
その指は、まるで愛おしい宝物に触れるかのように、私の描いた鉛筆の線を、そっとなぞっていた。
そして、最後の一枚。三十六枚目。
画面は真っ白だった。
露出が狂ったのか、あるいは現像のミスか。
何が写っているのか判別もつかないほど、光の中に溶けてしまった一枚。
私はそれを裏返した。
そこには、震える手で、けれど一文字ずつ魂を刻みつけるように、鉛筆でこう書かれていた。
『陽子、お前の光が、俺の人生のすべてだった。』
その瞬間、私の内側で何かが、音を立てて崩壊した。
「ああああああああああああ!」
自分でも聞いたことのない、獣のような叫びが口から漏れた。
私は椅子から滑り落ち、写真館の冷たい床に額を擦りつけて泣き叫んだ。
憎んでいた。ずっと、ずっと、あなたを恨んで生きてきた。
冷たい人だと、愛してくれない人だと、私の夢を殺した人だと思い込んできた。
でも、違った。
殺されていたのは、父の方だった。
私を自由にするために、自分の心を殺し、誇りを殺し、最後には病に体を食い破られながら、たった一人で私の光を守り続けていた。
「ごめんなさい……お父さん、ごめんなさい……!」
溢れ出す涙で、床に散らばった写真が見えない。
私は這いつくばるようにして、その写真を一枚ずつ、かき集めて胸に抱きしめた。
ひどく手ブレした、ピントの合わない写真。
それは、父の技術が未熟だったからではない。
震える体で、泣きじゃくりながら、それでも私という存在を、私の夢を、この世に繋ぎ止めようとした執念の証だったのだ。
写真の紙の感触が、父のゴツゴツとした手のひらのように感じられた。
17年間、一度も触れ合うことのなかったその愛が、今、暴力的なまでの重さで私を包み込んでいく。
「お父さん、私……私、まだ描いてるよ……。お父さんが守ってくれたこの手で、今も描いてるよ……!」
狭い写真館の中に、私の慟哭だけが響き渡る。
白鳥さんは何も言わず、ただ静かに、カーテンの向こうで私を見守っていた。
私は、父が遺した光の中で、初めて「本当の父」に出会った。
それは、世界で一番不器用で、世界で一番孤独で、そして世界で一番私を愛してくれた、一人の写真家の姿だった。




