第6話:震えるシャッター
「陽子さん、これを見ておきなさい。現像が上がる前に」
白鳥さんがカウンターに置いたのは、現像された写真ではなく、一通の古い封筒だった。
中には、数枚の診断書と、大学病院の診察券が入っている。
日付は、私が家を飛び出したあの夏の数ヶ月後から始まっていた。
「……進行性核上性麻痺?」
聞き慣れない病名をなぞる。白鳥さんは重く頷いた。
「神経の病気だ。徐々に体が動かなくなり、平衡感覚を失い、そして――指先が激しく震えるようになる」
心臓がどくん、と大きく跳ねた。
私の脳裏に、あの夏の父の姿が蘇る。
スケッチブックをゴミ箱に叩きつけた時の、あの強引な動作。
書斎に引きこもり、私を寄せ付けなかったあの背中。
あれは拒絶ではなく、日に日に自分の意思を裏切っていく「体」を、私に見せたくなかったからではないのか。
「昭三さんは、職人だった。カメラを構え、正確にピントを合わせることに人生を懸けていた男だ。その自分が、真っ直ぐに立つことも、シャッターを止めることもできなくなる。その恐怖と屈辱は、想像に絶するものだったろう」
白鳥さんの言葉が、鋭いナイフのように私の記憶を切り裂いていく。
「彼はね、君が美大に行きたいと言った時、本当は一番に背中を押したかったはずだ。でも、その時すでに自分の余命と、これからかかる莫大な医療費を悟っていた。自分が動けなくなった後、誰が家計を支える? 誰が君の学費を払う? ……彼は、君を道連れにすることを恐れたんだよ」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
私が「冷酷だ」と罵った父の沈黙。
私が「自分勝手だ」と断じた父の拒絶。
そのすべてが、病魔に蝕まれていく自分という泥舟から、私を突き放して陸へ逃がすための、命懸けの芝居だったとしたら。
「あの日、君が家を出ていく背中を、昭三さんはこの店の二階の窓から見ていたよ」
「二階から……?」
「ああ。君が駅へ向かう道が見えるんだ。彼は震える手で、必死にカメラを構えていた。でも、指が動かない。ピントが合わない。彼は泣きながら、何度も、何度もシャッターを切っていたよ。一枚も、まともな写真は撮れなかっただろうに」
私は、自分の指先を見つめた。
私はこの手で、自由を掴み、絵を描き、好きな場所へ行った。
その自由は、父が自分の誇りを捨て、病を隠し、悪役を演じきったことで守られた「聖域」だったのだ。
店内に、再びタイマーの音が響いた。
今度は、先ほどよりも短く、どこか急かすような音。
「……上がったよ。最後の一本、三十六枚の記憶だ」
白鳥さんが、現像したてのまだ湿り気を帯びたネガを、丁寧にプリントした束を差し出してきた。私はそれを受け取る。
手が、今の父と同じように、激しく震えていた。
一番上の写真。
そこには、ピンボケして白飛びした、けれど確かに見覚えのある「私の後ろ姿」が写っていた。




