第5話:通帳の余白
白鳥さんが「少し時間がかかる」と言って店の奥、暗いカーテンの向こう側へと消えてから、店内の静寂はより一層深まった。
時折、パチャパチャと水が跳ねるような音と、タイマーが刻む規則的な音が聞こえてくる。現像液の中で、父の最期の時間が少しずつ、銀塩の粒子として浮き上がっているのだと思うと、心臓の鼓動が耳元まで響くようだった。
手持ち無沙汰になった私は、書斎から持ち出した父の古いカメラバッグを膝の上に乗せた。
その底に、茶封筒に包まれた一冊の通帳が忍ばせてあったのを思い出したのだ。
父の遺品整理をしていた際、何気なく手に取ったものだが、その時は中身を見る勇気がなかった。
古い、地方銀行の通帳。表紙の角は擦り切れ、父の指の油が染み込んでいる。
ページをめくった瞬間、私は言葉を失った。
そこには、私が家を出たあの日から、父が亡くなる直前まで、毎月欠かさず一万円、あるいは二万円という少額が振り込まれ続けていた。
振込主の欄には、ただ一言、カタカナで私の名前。
「……何、これ」
あの日、父は私に「食っていけない」と言った。
絵を学ぶための援助など一円も出さないと、冷たく突き放した。
それなのに、この数字の羅列は何なのだ。
通帳の余白には、父の震える筆跡で、小さなメモが書き添えられていた。
『個展、おめでとう』
『仕事、無理をするな』 『画材代に』
日付を見る。それは、私がSNSでひっそりと告知した小さなグループ展の初日だったり、仕事で挫折して弱音を吐いた翌月だったりした。
父は私を拒絶しながらも、デジタルという窓を通じて、私の足跡をずっと追いかけ続けていたのだ。
「昭三さんはね……」
いつの間にかカーテンから顔を出していた白鳥さんが、悲しげな目を私に向けた。
「自分のカメラ機材を、一つ、また一つと売っていたんだよ。この店に来るたびに、『もうこれは使わないから』と言ってね。でも本当は、君に送るお金を作るためだったんだと思う」
白鳥さんがカウンターに置いたのは、父がかつて宝物のように語っていたはずの、ドイツ製の高級レンズの空箱だった。
「彼はね、君に『自由』をあげたかったんだ。でも、自分の収入だけでは、美大の学費も、その後の生活も支えてやれない。中途半端に助けて、共倒れになるのが一番怖かったんだろう。だからわざと嫌われる道を選んで、君が自分の力で立つまで、影から支えようと決めたんだ」
喉の奥が熱くなり、視界が急速に滲んでいく。
「食っていけない」という言葉は、呪いではなく、父自身の「祈り」だったのだ。
娘には、自分のような不器用で貧しい思いをさせたくない。もし道に迷ったら、この通帳が最後の命綱になるように。
通帳の最後の一行。父が亡くなる二週間前の日付で、三万円が振り込まれていた。
そこには、今までで一番震えた文字で、たった一言だけこう書かれていた。
『誇りだ』
その文字をなぞった指先が、激しく震える。
私は父を憎むことで、自分を正当化してきた。
父が冷たいから、私は孤独なんだと思い込んできた。
でも、本当の孤独の中にいたのは、誰からも理解されず、娘にすら蔑まれながら、一人でシャッターを切り続け、小銭を貯め続けた父の方だったのではないか。
その時、店の奥でタイマーが長い音を立てて鳴り響いた。
「陽子さん。……できたよ。昭三さんの、最後の一本だ」
白鳥さんの声に、私は弾かれたように顔を上げた。
いよいよ、真実が私の前に姿を現そうとしていた。




