第4話:銀塩の残り香(のこりあ)
その写真館は、再開発から取り残されたような細い路地の突き当たりにあった。
『白鳥写真館』と書かれた看板は、長年の雨風にさらされて端がめくれ、ショーウィンドウに飾られた家族写真のサンプルはどれもセピア色に褪せている。
「ごめんください」
カラン、という乾いた鐘の音が店内に響く。
奥から出てきたのは、分厚い眼鏡をかけ、首からルーペを下げた小柄な老人だった。
彼は私の手にあるカメラを見るなり、眼鏡の奥の瞳をわずかに見開いた。
「……それは、昭三さんのF3だね」
名乗る前に、カメラが私の身元を証明してくれた。
店主の白鳥さんは、カウンター越しに私をじっと見つめ、それから深く、慈しむように頷いた。
「娘さんの陽子さん……だね。よく似ている。特に、その頑なそうな目元が」
店内に漂う、独特の酸っぱい薬品の匂い。
暗室の存在を予感させるその香りは、母の言っていた「夜中の父」の影をより濃く描き出した。
「父がお世話になっていたと伺いました。これを、現像してほしくて」
私が未現像のフィルムを差し出すと、白鳥さんはそれを皺の寄った手のひらで包み込むように受け取った。
「昭三さんはね、意固地な男だったよ。今の時代、データにすれば楽なのに、どうしてもフィルムじゃなきゃダメだと言い張ってね。記録じゃなく、記憶を焼き付けてるんだって、酒を飲むたびに言っていた」
「記憶、ですか……」
「そう。特にここ数年はね……手が震えるようになってからも、彼はこの店に来ては、現像を待つ間、ずっとあの椅子に座って自分の指を見つめていたよ」
白鳥さんが指差した、隅にある使い古された丸椅子。
そこに、私を拒絶し続けた父が、無力感に苛まれながら座っていた姿を想像して、胸が締め付けられる。
「白鳥さん。父は、ここでどんな写真を現像していたんですか?」
白鳥さんは少しの間、何かを迷うように視線を泳がせたが、やがて静かに口を開いた。
「陽子さん。君が美大に行きたいと言ったあの夏、昭三さんは真っ青な顔をしてここに来たんだ。
『娘の夢を折ってしまった。俺は最低な父親だ』って、涙を流しながらね」
衝撃が走った。父が、私のために涙を流した?
「でも、彼はこうも言った。『俺に支える力がないなら、せめてあの子の才能だけは、俺が世界で一番の目撃者になって守らなきゃいけないんだ』と」
白鳥さんはカウンターの奥から、分厚い一冊のファイルを取り出した。
「これは、昭三さんが現像ミスをしたときのためにと、私が密かに預かっていたバックアップの一部だ。……見るかい?」
震える手でファイルを開く。
そこには、あの夏、ゴミ箱に捨てられたはずの私のスケッチが、完璧なピントとライティングで、一枚、また一枚と記録されていた。
鉛筆の細かいタッチ、私が消しゴムで擦った跡、紙の質感までもが、執念のような鮮明さで焼き付けられている。
「彼はね、君が寝た後、ゴミ箱から拾ったスケッチを一枚ずつアイロンで伸ばして、撮影していたんだ。……君がどれほど自分を憎んでも構わない。でも、この才能が誰にも見られずに消えることだけは、耐えられなかったんだろう」
写真の中の私の絵は、私が自分で見ていた時よりもずっと、誇らしげで、光り輝いて見えた。
父は、私の夢を捨てたのではなかった。
誰よりもその価値を認め、壊れないように「記録」という名の檻に閉じ込めて守っていたのだ。
「最後の一本……。この中には、彼が命を削って残した、君への最後のメッセージが入っているはずだ。現像には少し時間がかかる。……覚悟はできているかい?」
私は、溢れそうになる涙を堪え、ただ、力強く頷いた。
視界が歪む。父が残した「真実」という名の光が、十七年間の暗闇を、暴力的なまでの優しさで照らし始めていた。




