第3話:硝子越しの微熱
郊外にある介護施設『陽だまりの家』は、その名の通り、春の柔らかな光に包まれていた。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いと、微かに混じるおむつの匂い、そして加湿器から出る水の匂いが鼻をくすぐる。
実家の、あのしつこい線香の匂いとは違う、生を繋ぎ止めるための無機質な匂いだ。
談話室の窓際、車椅子に揺られて庭を眺めている小さな背中を見つけたとき、私は一瞬、足が止まった。
「……お母さん」
声をかけると、背中がゆっくりとこちらを向いた。
母・佐和子の顔は、記憶の中にあるよりもずっと小さく、皺の寄った皮膚は半透明の和紙のように薄くなっていた。
「あら……陽子。来てくれたの」
母の顔に、柔らかな、けれどどこか心細げな笑みが浮かぶ。
父が亡くなったことを、母はどこまで理解しているのだろうか。葬儀の時、母はただ静かに涙を流していたけれど、その涙の理由は、今の彼女の頭の中からこぼれ落ちてしまっているようにも見えた。
私は母の隣に椅子を引き、買ってきた柔らかいゼリーをテーブルに置いた。
「実家の片付けをしてるの。お父さんの部屋を……」
父の名を出すと、母の瞳に一瞬だけ、深い光が宿った。
「そう。昭三さん、散らかしてたでしょう。あの人、大事なものほど奥の方に隠しちゃうから」
「そうね。……お母さん、これ、覚えてる?」
私はバッグから、あの『ニコン F3』を取り出した。
母の手が、震えながらカメラに伸びた。節くれだった指先がレンズの縁をなぞる。
「ああ、これ……。あの日も、お父さん、これを首から下げていたわね」
「あの日?」
「あなたが家を出た日よ。……いいえ、その前の、あの夏の日かしら」
母の視線が、遠い過去へと泳いでいく。
「陽子。あなた、覚えてる? お父さんにスケッチブックを捨てられた夜のこと」
忘れるはずがない。私の夢が、ゴミと一緒に捨てられたあの夜を。
「あの夜……あなたが泣きながら二階へ駆け上がったあと、お父さん、ずっと台所に立っていたのよ」
私は息を呑んだ。母の語る言葉が、私の知らない記憶の断片を繋ぎ合わせていく。
「お父さんはね、あなたが寝静まるのを待ってから、ゴミ箱の底から、あのボロボロになったスケッチブックを拾い上げたの。私は、声をかけようと思ったけれど、お父さんの背中があまりに震えていたから、何も言えなかった」
「拾った……? お父さんが?」
「ええ。それだけじゃないわ。お父さん、書斎に籠もって、夜通しシャッターを切っていたの。カシャッ、カシャッて、あの暗い部屋で、あなたの描いた絵を一頁ずつ……」
耳の奥で、カシャッ、という冷たい金属音が響いた気がした。
父は、私の絵を否定したのではなかったのか。遊びだと吐き捨て、ゴミ箱に放り込んだはずのものを、なぜ、闇の中で記録していたのか。
「お父さん、言っていたわ。自分には、あなたを自由にしてあげる力がないって。
……昭三さんはね、自分が一番の『悪者』になれば、あなたが自分を憎んで、もっと強く外の世界へ飛び出していけるって、そう信じていたのよ。不器用な人だったから、それしか方法を知らなかったのね」
母の言葉は、微熱のように私の胸を侵食していった。
窓の外では、風に舞った桜の花びらが、ひらひらと地上へ落ちていく。
私はカメラを握りしめる手に力を込めた。指先に伝わる金属の冷たさが、今はなぜか、父の体温のように感じられて仕方がなかった。
「お母さん……。このカメラの中に、まだ一本、フィルムが残ってるの」
「……そう。だったら、早く現像してあげなさい。お父さん、ずっと待っていたのよ。あなたが、その答えを見つけてくれるのを」
母の記憶は、そこでふっつりと途切れた。
「あら、陽子。今日はいいお天気ねえ」
再び庭の桜へと視線を戻した母の横顔は、もう、さっきまでの真実を知る女性のものではなかった。
施設をあとにした私の足取りは、来たときよりもずっと重かった。
父がゴミ箱から拾い上げた、私の夢。
夜の暗闇で、一人カメラを構えていた父の背中。
私はスマートフォンの画面を開き、街の片隅にある、古い写真館の住所を検索した。
父が、ずっと通い続けていたという、小さな店を。




