第2話:折れた鉛筆の音
書斎のデスクの引き出しを引くと、奥の方で何かが転がる乾いた音がした。
指先で探り当てたのは、一センチにも満たない、折れた鉛筆の芯だった。
4B。デッサンに使う、柔らかくて濃い鉛筆の破片。
それを見た瞬間、あの日――私の人生の「ピント」が決定的に狂った夏の日の記憶が、激しい耳鳴りとともに蘇ってきた。
「お母さん、これ……。私、本気なの」
十七年前。西日が差し込む蒸し暑いキッチンで、私は母に美大予備校のパンフレットを差し出した。
母の佐和子は、困ったように眉を下げながらも、私の描いたデッサンを愛おしそうに眺めてくれた。
「綺麗ね、陽子。お父さんも、きっと分かってくれるわ」
母はそう言って、私の背中を優しく撫でた。その手のひらの温かさに、私は少しだけ希望を抱いてしまったのだ。
けれど、その夜の食卓は、氷のように冷たかった。
仕事から帰った父の前にパンフレットとスケッチブックを置いたとき、父は一口も箸をつけず、ただ黙ってそれを見つめていた。
「……美大に行きたい。どうしても絵を学びたいの」
私の震える声に、父は一瞥もくれず、地を這うような低い声で言った。
「食っていけない。そんな遊びに金は出さない」
「遊びじゃない! 私、一生懸命……」
「普通の大学に行け。それがお前のためだ」
父の言葉は、対話を拒む鉄格子のようだった。
「どうしてお父さんは、いつもそうなの!? 私のことなんて、これっぽっちも見てないくせに!」
叫んだ瞬間、父が動いた。
父は私のスケッチブックを無造作に掴み上げると、そのまま流し台の下にあるゴミ箱へ叩きつけた。
ベチャリ、という鈍い音と一緒に、挟まっていた鉛筆が床に転がり、芯が折れるパキッという乾いた音が静かな部屋に響いた。
「お父さん、そんな……陽子が一生懸命描いたのに!」
母が割って入ろうとしたが、父はそれを鋭い眼差しで制した。
「甘やかすな。現実を見せろ」
父はそれだけ言うと、背を向けて書斎に籠もった。
私は、ゴミ箱の中に無残に歪んで突き刺さったスケッチブックを見つめ、声も出せずに立ち尽くしていた。
母がそっと私の肩に手を置こうとしたが、私はその手を、自分でも驚くほどの力で振り払ってしまった。
「お母さんだって同じよ! お父さんに何も言えないなら、味方じゃない!」
泣きながら階段を駆け上がる私の背中に、母の「陽子、待って」という悲しげな声が追いかけてきた。
私は一度も振り返らなかった。
その日から、我が家の時計は止まった。
私は一切の絵を捨て、父が望む「普通の大学」へ進み、卒業と同時に逃げるように家を出た。
父とは一度も和解することなく、母は次第に体力を落とし、今は郊外の介護施設で、ぼんやりと窓の外を眺める日々を送っている。
書斎の椅子に深く沈み込み、私は手のひらの上の小さな鉛筆の芯を見つめた。
あの時、父はどうしてあんなに頑なだったのか。
母は、あの沈黙の中で何を思っていたのか。
重い静寂に耐えかね、私はスマートフォンを手に取った。
登録された『施設(母)』の文字をなぞる。
母に会わなければならない。
父が遺したあの未現像のフィルムに、何が写っているのかを確かめる前に。




