第7話:重圧(プレッシャー)と祈り
夜の静寂が、実家を深く包み込んでいた。
かつて父の怒声が響き、私の泣き声が漏れていたこの家は、今や驚くほど静かだ。
ただ、壁に掛かった古い振り子時計の刻む音だけが、父の心臓の鼓動の代わりのように時を刻んでいる。
私は、絞り出した絵の具をナイフで混ぜ合わせた。
父のメモにあった比率。コバルトブルー六、ヴィリジャン三……。
混ざり合う色彩は、驚くほど深く、鮮やかな海の色を再現していく。
それは確かに、あの岬で見た光景であり、母がかつて命を削って作り出していた「白川佐和子の青」だった。
だが、その色を筆に含ませた瞬間、私は動けなくなった。
「……描けない」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
このキャンバスに筆を置くということは、父の三十五年にわたる贖罪と、母が一生をかけて封印した情熱、その両方を私が背負うということだ。
もし、私の筆が二人の想いを汚してしまったら?
もし、私が描き足す「続き」が、父の現像した光に届かなかったら?
私は、自分が画家として、あまりにも未熟な存在に思えて仕方がなかった。
私は父を憎むことで、自分を守っていた。
母の穏やかさに甘えることで、目を逸らしていた。
二人の愛の重さを知ってしまった今、その「重み」は、私から自由を奪う鎖のように感じられた。
私は逃げるように、傍らにあった父のニコンを手に取った。
ファインダーを覗き、暗い部屋の中にぼんやりと浮かぶキャンバスを見る。
――カシャッ。
フィルムも入っていないカメラを、空打ちした。
その金属音が、静かな部屋に鋭く響く。
その時、ふと気づいた。
父のメモ。あの一行。
『俺が奪ったお前の時間を、あの子が、新しい光で塗り替えてくれると信じている』
父は、「再現しろ」とは言っていないのだ。
「塗り替えてくれ」と言ったのだ。
父が望んだのは、失われた過去を取り戻すことではなく、私の手によって、止まったままの家族の時間を、新しい「未来の色」へと進めることだった。
「お父さん……あなたは、私に自由をあげたかったんだね。憎まれてまで」
私はカメラを置き、再び筆を握り直した。
震えは、まだ止まっていない。
けれど、その震えはもはや恐怖からくるものではなかった。
キャンバスに向かうための、武者震い。
私はパレットに、父の配合にはなかった「イエロー」を、ほんの僅かだけ足した。
父が捉えた銀塩の光と、母が愛した油彩の色彩。
そこに、今の私だけが見ている「希望」の光を混ぜ合わせる。
これは、親孝行のための絵ではない。
私が一人の画家として、この歪な、けれど誰よりも深い愛を注いでくれた二人と対等に向き合うための、決闘なのだ。
私は、キャンバスの白い空白に、最初の一筆を置いた。
ぬるりとした絵の具の感触が、筆を通じて指先に伝わる。
それは、三十五年前、母が止めてしまった心音を、再び動かすような感触だった。
「見てて、二人とも。これが、私の色だよ」
暗闇の中で、私はただひたすらに色を重ね始めた。
夜明けまで、まだ時間はたっぷりあった。




