第6話:色彩の胎動
施設を訪れた私は、面会室の隅、午後の柔らかな光が差し込む窓辺に母を誘った。
今日の母は、どこか遠い場所を眺めているような、虚ろな瞳をしていた。
私が隣に座っても、それが娘である私なのか、それとも通りすがりの誰かなのか、判別がついていないようだった。
「お母さん、これ……持ってきたよ」
私は、あの焦げ茶色の絵の具箱をテーブルの上に置いた。
木の擦れる乾いた音。
母の視線が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その箱へと移動した。
私は、箱の留め金を外した。
途端に、油絵具特有の、あの重く、鋭い匂いが二人の間に広がった。
母の鼻翼が、微かに動いた。
記憶の底に沈んでいた何かが、匂いという鍵によって、揺り起こされたのかもしれない。
「……これ、は」
母の掠れた声。私は、父のカメラのマウントから見つけた、あの小さな透写紙を広げた。
「お父さんがね、ずっと隠し持っていたの。お母さんへの……手紙みたいなもの。読んでいい?」
母は答えない。
ただ、自分の膝の上で震える手を、じっと見つめている。
私は、深く息を吸い込み、父の無骨な文字を、一文字ずつ、母の耳元に届けるように読み上げ始めた。
「『海。コバルトブルー、六。ヴィリジャン、三。白、一』」
読み上げた瞬間、母の指先が、ぴくりと跳ねた。
まるで、見えない筆を握らされたかのように。
「『雲の影。ペイニーズグレー少量、ウルトラマリン』
……お父さんね、お母さんが絵を描いている横で、ずっとこれを見ていたんだって。
お母さんがどんな風に色を混ぜて、どんな風に世界を作っていたのか……全部、覚えていたんだよ」
私は読み続けた。
父が三十五年間、胸の奥に閉じ込めていた「色の配合表」。
それは、一人の男が、愛した女性の才能を、科学者のような正確さと、狂信者のような情熱で記録し続けた、狂おしいほどの愛の証だった。
「『……佐和子、お前の色は、まだ死んでいない』」
最後の一行を読み終えた時、母の瞳に、明らかな変化が起きた。
霧が晴れるように、瞳の奥に強い光が宿った。
母は、ゆっくりと顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめた。
そこには、さっきまでの「守られるべき老人」ではなく、一人の「画家」としての意思が、確かに存在していた。
「……昭三さん。あの人は、いつもそう。黙って、私の後ろに立って……」
母の声に、艶が戻っていた。
母は、震える手で絵の具箱の中から「コバルトブルー」のチューブを取り出した。
その指先は、まるで吸い付くように、チューブの感触を確かめている。
「陽子。あの人はね、私が絵をやめるって言った時、一度だけ泣いたのよ。私の命が助かったことを喜びながら、私の魂が消えてしまうことを、私以上に悲しんでいた……。だから、あんな呪いみたいな約束を、私にさせたのね」
「約束……?」
「『お前が描かないなら、俺がお前の瞳になる。いつか、あの子がその色を引き継ぐ日まで、俺がこの世の光を現像し続けてやる』……って」
母の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは失ったことへの悲しみではなく、奪われたと思っていた時間が、実は「守られていた時間」であったことを知った者の、静かな、魂の震えだった。
「陽子。描きなさい。……お父さんが守り抜いたその光を、あなたの色で、完成させて」
母の手が、私の手を力強く握りしめた。
冷たかった母の手が、今は驚くほど熱い。
混濁していた記憶の海から、母は自らの意志で、再び「色彩の世界」へと這い上がってきたのだ。父の、あの無骨なメモを、命綱にして。
私は、母の肩を抱きしめた。
二人の間には、油絵具の匂いと、父のカメラの感触、そして三十五年の時を超えて混ざり合う、新しい色が満ちていた。




